第13話 東海道一の遊郭
(一)仁左衛門からの飛脚
三島宿で宿をとった宇七たちは、寝静まっていた。
「…暑い…」
寝苦しさに目を覚ますと、宇七の身体に誰かがぴったりと寄り添っている。これは…!宇七はそろそろと手を伸ばした。福助に違いない。どうしようーこないだの接吻の続きをやるなら、今だー宇七の身体がかっと熱くなる。
暗闇でしがみつく顔に額を寄せた宇七だが、なにか勝手が違う気がして目を凝らした。
ー新之丞!
危なかった。寝ぼけた新之丞が宇七に抱きついている。うっかり寝込みを襲っていたら、たいへんなことだった…宇七は新之丞の手を引きはがすと、背を向けてふたたび寝た。福助かと思ったのに…ざんねん…
翌日、何食わぬ顔で宇七は新之丞に声をかけてみた。
「三島宿は、東海道五十三次の何番目でございましょうな?」
「えぇと、十一次でございます。」
「まだまだ先は長いですな。」
「ちなみに、宇七どの、なぜ五十三次あるかをご存知ですか?」
「いや。」
「華厳経にある、
…功徳。新之丞がわざと夜中に抱きついてくるなど、天地がひっくり返ってもあるまい。宇七は煩悩を振り払うべく、旅籠の入り口から出立しようとしたところ、飛脚が駆け込んできた。
「水野ご家中に
「こちらだ。ご苦労。」
文を受け取った新之丞が、頭を掻く。
「仁左衛門どのからです…少し寄り道が過ぎたのがばれたようで…」
仁左衛門の文によると、このまま五十三次を歩かせるにおよばず、藤枝宿からは牧の原を通り相良湊に行けとの指示だった。相良湊からは江戸、大阪、長崎へと直行船が出ている。これならあとほんの数日で大阪に着けるだろう。
「しかし、そのような勝手をして、手形と関所の用意などは、大丈夫でしょうか?」
「藤枝宿から牧の原へと抜ける道は、田沼街道と呼ばれております。田沼様の治める相良藩においてなら、我々はお身内の扱いとなりましょう。」
「なるほど。天下人ですから、いろいろと便宜はしていただけるのですな。」
「しかし、仁左衛門殿もよく見張っておられる…」
素知らぬ顔をしているが、きっと福助からの報告だろう。
(二)仁左衛門の嫌がらせ
「あ…しれっと最後に大変なことが書いてございます。明後日正午に出る廻船へ乗れ、と…」
「明後日の正午⁉」
三島宿から相模湊までは、日中歩き続けてもまる2日半はかかる。明後日正午とは、ぎりぎり間に合わぬではないか…3人は小走りで宿を走り出た。
「これほどの富士の名所を…走りぬけるとは…」
「しかたがない、道中駕籠に乗る金はないですからな、おのれの足で走る以外…にしても、川がなぁ…富士川、安倍川、大井川。3つとも橋がない大川で、渡し場が混んでいればもう間に合わん。」
飛脚を三島宿によこした時点で、どのあたりに宇七たちがいるか仁左衛門はわかっているはずだが、こんなぎりぎりの船便にしろとは…いかにも仁左衛門らしい…ちょっとした、いや、かなりの嫌がらせだ。
宇七は先日の相模川で見た、新之丞の水への怯えぶりを思い出した。
「新之丞どの、また船ですが…」
「えぇ、そうでしょうな…」
福助がそれを見て気の毒そうに言う。
「船渡しは富士川のみでございます。」
福助によれば、安倍川と大井川は渡し舟すらないので、みずから歩くか
「たしか田沼街道には、土地の者だけが使える大井川の抜け渡しがございます。我らも渡し船が使えましょう。…しかし安倍川はないでしょうな…空が荒れれば一大事です…」
しょんぼりした新之丞を宇七がからかう。
「良い機会だ、泳ぎを指南いたしますよ。」
「急には無理でございましょう…せめて走って時間を縮めます!」
新之丞は身軽で足が速い…福助も舞台で鍛えた足腰があるので、走るとなると、宇七がいちばん不得手かもしれない。がたいがいいぶん身体が重い。せっかくの故郷の光景だが、感傷に浸る余裕もない…仁左衛門がまた寄り道するといかんと手を廻したのだろう…あの
(三)左富士の吉原
一行は沼津を抜けて吉原宿まで、午前中にひといきに走り抜けた。少し休憩をしようと茶店に入った。
「新之丞どの、お気付きですか?」
ふいに福助が茶を飲む新之丞に声をかけた。
「何にでございましょう?」
「このあたりは、東海道でも珍しい、左富士が見えるのでございます。」
東海道を上方に向かって歩くと、富士山はずっと右手に見えるものだ。しかしこの吉原周辺だけは富士山が左手に見えるという。
「…そういえば、道が海から離れて内陸に来ておりますね。」
「今がいちばん富士に近いのです。このあとは富士を背にして歩きますから、ここで楽しまれるとよろしいですよ。」
「それにしても、吉原宿という名から少し心配しましたが、江戸の遊郭吉原とはなんの関係もないのですね。」
「えぇ…今のところは。」
福助は尻切れとんぼに返事をした。
朗らかだった新之丞だが、富士川の渡しに来るとまた怖気づいた。
「富士川とは、相模川にもまして急流ですな。」
「流れが荒く速いことで知られております。」
「私におつかまりくだされ、新之丞どの。」
宇七は声をかけたが、新之丞は少し躊躇して福助につかまった。
それでもなんとか渡し舟で富士川を渡り終えると、また走り出そうとする新之丞を福助が手招きした。
「ここから、難所でございます。」
「次の安部川の人足渡しのお話でございますか?」
「いえ、それだけではなく…今日はおそらく安倍川を渡るには遅くなりますから、安部川の手前の府中宿で泊まることになろうかと…しかしながらあのあたりには安倍川町という女郎宿があり、旅籠の代わりに泊まる旅人もあるほどです…宇七どのには鬼門であろうかと…」
「たしかに…宇七どのが娘さんに惹かれれば、おとなしくしていたお七さんが、また出てくるやもしれませんね…かといって、宇七どのに目隠しをしてしまうわけにもいかないし。」
「府中宿の手前、興津か江尻の宿で泊まるようにいたしては?」
「妙案でございます…」
二人がひそひそと心配をしているのをよそに、宇七は渡し場の近くにある、菓子屋の看板に目が釘付けになっていた。
“安倍川名物 おたね餅”
「おい、この、おたね餅とは?」
「流行りの団子でございます。なかなかいけますよ。」
「どのようなものだい?」
「そうですな、牡丹餅にきな粉をかけてある、まぁ、安倍川餅を真似た田舎団子です。川越屋という、安倍川町の女郎たちが贔屓にしている菓子屋が作ったもんで。安倍川の川越しで待たされる連中にも評判がいいようです。」
…おたねは安倍川で商売を始めたらしい…!
富士川を発つと、さきほどと打って変わって宇七の足が速い。新之丞があわてて制す。
「宇七どの…それほど急がずとも…」
「いやいや。」
「もうじゅうぶん走りました、無理をせず、興津宿あたりで宿を取りませぬかー」
「いや。」
宇七が決然と答える。
「府中宿まで参りましょう。」
新之丞と福助が顔を見合わせる。どうやら渡し場で安倍川町の噂を耳にしてしまったらしい…安倍川町は東海道一の遊郭であり、旅する男の憧れの地である。若い男が気をはやらせるのも致し方ないとはいえ…
(四)おたねの男
案の定、あっという間に府中宿の旅籠に着いてしまった。
「それがしは野暮用にて出掛けるが、朝まで戻らぬかもだが、心配はいらぬ。」
宇七が旅籠を走り出す。
「…宇七どのは、銭はお持ちだろうか?」
福助が心配そうに見送る。遊郭は岡場所よりずっと相場が高い。金1分または金2朱が相場、銭がなければ門前払いだ。
「さぁ…まさか上様から拝領した小判に手をつけるまでは…いや、するかも知れませんな。」
宇七がおたねを探しに行ったとは知らない新之丞は、あきれてため息をつく。
「今宵は安倍川町のあちこちでお七さんが暴れそうですね…」
宇七はまだ明るいうちに安倍川町の入り口の木戸についた。遊女たちが贔屓にしている菓子屋とあれば、すぐ近くにあるに違いない…何人かに尋ねるうちに、それらしい店にたどり着いた。
「おい、ここが、安倍川名物のおたね餅を作っている菓子屋か?」
「へい。今日はもう売り切れです。明日いらしてくだせぇ。」
丸顔の若い店主があしらおうとしたが、宇七はずいっと店の奥に入り込んだ。
「川越屋、とはよく名付けたな。安倍川越えじゃなく、故郷の小江戸川越のことだろう?」
宇七が言うと、男はぎくりとした。
「お客さん、あんた誰だい?」
「お前がおたね、いや、お駒に堤重をさせてたヒモ野郎だな?」
「ヒモとは聞き捨てならねぇ、俺はかかぁに行商させてただけだ。」
「…お前たちは
「あぁ、娘もいますぜ。」
そうか、こいつはおたねが一生を添い遂げるつもりだった男で、俺はただの客か…宇七は負けを認めざるえない。
「あっしは板橋くんだりで菓子をこしらえてて、火事にはあってねぇんです。だけどあの日、あちこち行商してたお駒は…たぶん…」
男は泣き始めた。お駒とはあれ以来、生き別れだと。故郷を捨てて一緒になり、家族も持ったのにな…宇七は自分の落胆も忘れて声をかけた。
「死んだと決まったわけでもない。火事を逃れた有象無象の連中は、本所深川あたりに溜まって暮らしてると聞く。夫婦なら探しに行ってやれ。」
そのとき、奥から女の声がした。
「あんた?誰だい?」
出てきたのは、きれいな若い女だ。
「今のかかぁです。安倍川町で馴染になりましてね、ちょうど遊女奉公も年季明けだってんで、一緒になりました。」
さきほどの涙もどこへやら男が言う。
「…新しい妻がおりながら…なぜ、わざわざ、おたね餅などと名付けた?」
「こいつが、いつかおたねさんが俺を見つけてくれるようにって。…ほんとにやさしい女で…この店はこいつが安倍川町で働いてたときの金で建てたんで。」
ヒモはどこまでいっても、ヒモのようだ…
(五)安倍川遊郭の大門
またもやおたねに会えなかった宇七は、せっかく遊郭に来たんだから、気晴らしに奇麗どころでも拝もうか、と安倍川町の大門木戸をくぐった。
「お侍さま、馬でいらしたか?」
「いや、走ってきた。」
「ほほほ、そんなに御熱心に…」
妓楼の名入り提灯を持った年増の客引きが笑う。すると、ぼっ、と提灯が燃え上がった。
「あれぇ、怖いね。」
女は提灯を放り出すと、ちょいと、火を消しておくれ、と下男を呼び出す。宇七は構わず、大門の奥に向かって歩き始めた。おたねは遊女だったとはいえ、ひとりで藩邸に入り込んでいたにすぎない。これほど商売女をたくさん一度に目にするのは、宇七にとって初めてだった。
「まじめに考えれば、怖い話だ…」
この娘たちも、一人ひとりが親がいて故郷があり、思い人もいるだろう…これを好き勝手に買っては一夜の慰めにするのは、俺には気が重いがな…とはいえ、きれいな娘が多い…
「そういう同情心と助平心のはざまを見透かされ、男は金を搾り取られるのでございますよ。お気をつけなさいませ。」
横を見ると、福助が立っていた。
「と…供など頼んでおらんぞ。」
「えぇ。申し訳ございません。ですが、おひとりで歩かれると遊郭丸ごと燃やしてしまわれます。」
「俺が…⁉あぁ、お七さんか…」
そういえば、さきほど提灯が燃え始めたのは、お七の嫉妬といえば合点がいく。
「稲荷の茅で浄めたとはいえ、しょせんは時間かせぎ。宇七どのが女に近づけば、必ず火が祟りましょう。」
「そんなはずはない…が、まぁ、ひと廻りするだけだ。一緒に来てくれ。」
宇七は福助をともなって格子窓の前を歩いた。見世物の娘たちは何も言わずに座っているが、宇七と福助が通りがかると熱い視線が注がれる…男も女を値踏みするが、女も男ぶりをじっと検分している…異様な熱を帯びた、ものすごい秋波だ。相手にされない町人があてこする。
「見なよ。不良侍が、役者みたいないい男と二人で流すから、女がみんなあっち見てらぁ。」
「おいおい、金持ってんのは俺たちのほうだぞ!」
遊郭では、侍はどうやら肩身が狭いらしく町人も無礼講のようだ。
「これが楽しいかは、人によるなぁ…」
「さようでございましょう。」
「俺は好きな女が寝床にひとりいれば、それでいいんだがな。」
あっ、と宇七が声をあげた。格子の中にいた女がひとり、宇七の姿を見て隠れるように奥に入ってしまった。
「…いまの娘はおたねに見えた…」
今日会ったあの菓子屋の男なら、飽きた女を売り飛ばして若い女郎と一緒になるぐらい、やるかもしれない。
(六)孫茶漬け
宇七が知っている娘を見た、というので福助が気を利かせる。
「わたくしが見てまいりましょう。」
「頼めるか。もしおたね、いや、お駒という娘だったら、この手紙を渡してやってくれ。」
宇七はおたねの弟から預かった手紙を福助に渡した。読めば川越の実家で家族が待っているとわかるはずだ。福助は
「一晩買って、ご自分の目でお確かめくださいと…」
「わかった、顔だけ見てくる。」
「おやめになったほうが。もし人違いで、お前は違うと言って店を出れば、客を取れなかったと娘が叱られます。」
「銭を払えば?」
「銭を払えば、抱かぬわけにゆきません。金を貰って何もしないと、行き届かぬ女郎だと、その娘が折檻を受けます。」
「なるほどな…」
花街とは華やかな見た目とは裏腹に過酷な世界のようだ。しかし女を抱けばお七が黙っていないだろう…もしそれがおたねだったら、なおさら良くない。遊郭が大火事になりかねない…
「では、今宵はあきらめよう。白粉の匂いで腹もいっぱいだ。帰ろう。」
宇七はくるりと大門に向かって歩き始めた。
とはいえ、美しい女郎たちが格子の向こうからあだっぽい流し目をしてくれば、宇七もまんざらではない。そのたびにボッ、ボッと仲通りを照らす辻灯籠の炎が震える…福助が通ると、その炎がまた落ち着く。
「ー腹が減らないか?」
「えぇ、宿までは少しありますね。」
「奢ろう。」
宇七は安倍川宿の大門を出てすぐの茶屋で酒と、肴に孫茶をふたつ頼んだ。なめろうを熱々の飯にのせて、熱い番茶をかけたこのあたりの名物だ。
「さすがこの辺りは魚料理が旨いな。」
「さようですね。今日は走りましたのでお酒が廻りそうです。」
「ほどほどにしておいてくれ。」
先日の稲荷での不思議な体験を思い出した宇七が、見た幻のことを蒸し返す。
「白笹稲荷でお母上に会ったと思ったのだが…」
「わたくしの夢がうつってしまったのでしょうか。幼い頃に亡くしましたが、優しい不思議なひとでした。」
「お稲荷さんの縁者なのかい?」
「さて…どうでしょう。」
死んだ母親のことを思い出させるのも悪いと思うと、それ以上は聞けない。だが、ただの幻だったにしては不思議な体験だった。しばらくすると酔ってきた宇七は、福助の顔をまじまじと見ながら口を滑らせた。
「なんというか…おぬしといると、うっとりするな。さすがに世間が騒ぐはずだ。」
「ははは…お気をつけください。人を惑わせるのが長年の仕事でしたので。」
「そうだな。気を付けよう。」
「宇七どの、おたねとは、昔の思い人ですか?」
「馴染だった堤重娘だ。江戸にたったひとり寄こされて、最初に抱いた女だが、あちらには添い遂げようと誓った男がいた。娘までいるそうだ。」
「そうですか…」
「忘れてくれ。」
走り回っていきなり酒を喰らったら、廻った。その夜、宇七はどうやって旅籠に戻ったか覚えていない…だがふわふわと白いけものに抱かれているような、良い気分で布団に入ったのは覚えている…
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