第12話 狐の村の誘惑

(一)福助の母


いっぽう、新之丞と別れた宇七と福助は、秦野の白笹稲荷へと向かっていた。福助の母の故郷だという秦野は、見渡す限りの田園が広がっていた。どこが果てかわからぬほどだ。


「これは…よほど豊かな土地に見えるな。」

「さようでございます、ここは神代の昔より土と雨に恵まれた農耕の地。はたと呼ばれる一族が治めた土地でございます。」

「畑のはた、かい?」

「さて…昔のことですからわかりませんが、機織りのはた、とも、畑のはたともいわれます。稲を持って渡来した人の里でございますよ。」


どこからか、兄さま、兄さま、という声が聞こえる。


「おや、妹たちが出迎えてくれているようでございます。」

「なぜ来ると分かったのだろう?遣いでも出したのか?」

「ふふ…私どもの一族は互いに思うだけで気持ちが通じるのです。」


宇七は驚いた。瓜二つ…いや、瓜三つの娘が三人、道の向こうからやってくる。しかも驚くような美貌の娘たちだ。


「福助どの…あれは…」

「妹でございます。」


宇七はあっけにとられるばかりだった。美しい若い娘が3人揃うと、あまりにも華やかで声も出ない。というか、息もできない。


「お前たち、お迎えとはありがとうよ。」

「兄さま、お久しゅうございます、お元気で安心いたしました。それで、お声の具合いは?」

「大丈夫、女形の声が出ないだけで、男の声は出るのさ。」

「良かった…!」


美女3人に飛びつかれる福助を、宇七は目を白黒させて見ていた。


「お前たち、宇七郎さまにご挨拶なさい。」

「まぁ…!宇七郎さま、お初にお目にかかります。」


まぶしそうに見つめられると、宇七はいたたまれず、来た道を回れ右して帰ろうとして福助に止められた。


「宇七どのらしくもない、ぜひ妹どももお見知りおきを。」

「う…うむ。」


宇七はぼーっとしながら、白笹稲荷へと連れられていった。娘たちはそれぞれに可愛い名をしていたが、舞い上がった宇七は、とても覚えられない。


「境内で母も待っております。」

「そ、そうか。」


境内に立ち入ると、参道の途中に笹を丸く束ねた鳥居のようなものがある。


「これは…?」

ちがやの輪でございます。ここ白笹稲荷では白い笹を輪にしております。いつもは夏越祓なごしばらえに置くものですが…わたくしもこの時期に見るのは初めてでございます。」


「わたくしが置かせました。」

後ろから声がし、宇七は振り返るとそのまま釘付けになった。この世のものとは思えないほど妖艶な女が立っている。


「あぁ、母でございます。」

「…母⁉」


宇七は自分の母を思い出した。8人の子供を産み育て、弟子職人の面倒をみて、腰がすっかり曲がってしまった故郷の母…ところが目の前にいる福助の母は、どこぞの奥方のようだ…面妖なほどに美しい。



(二)茅の輪くぐり


さすが絶世の美女…いや、美男と謳われる瀬川菊之丞こと福助。まぶしいばかりの母、そして妹たちである。こんなに美しい女をいっぺんに目の当たりにする日が、いきなりこようとは…宇七は心の準備ができていなかったことを悔やんだ。


ちがやの輪は厄払いでございます。お参りをなさって心を落ち着けられたらよろしい。」


福助の母はそう言って宇七を手招きした。宇七の足が勝手に動き出す。茅の真ん中をくぐり、左にひと廻り、右にひと廻り、もう一度左にひと廻り…宇七はあぁ、これは三峰神社で三つ鳥居をくぐったときと同じだ、と気づく。そして最後に真ん中をくぐった瞬間、ばぁぁっと茅の輪に火が付いた。


「こちらへ!」

福助が素早く宇七を輪の外に引き出す。


「すさまじい魔力…この程度では離れてはくれないようですね。」

福助の母は唇を噛んでいたが、腰を抜かした宇七を見ると、にこりと表情をやわらげた。


「しばらくは力が弱まっているはずです。この白笹稲荷は水の稲荷。と湧き出る聖水を飲んで、お休み下され。娘たちやー」

「はいお母さま。」

「宇七郎さまを、奥の宮までお連れしなさい。」

「はいお母さま。」


3人はどうも三つ子のようだ。返事があまりに揃い過ぎている…と宇七が思う間もなく、3人は宇七に群がって手を取り背中を押し、本殿の右奥の小道に引っ張っていく。


「まいりましょう、まいりましょう。」

「どこへ?」

「ご神域でございます。」


宇七は言われるがまま、引っ張られるがままに、たくさんの赤鳥居をくぐり小さな社殿の前にきた。


「お祈りくださいませ。」

「縁結びにも御利益がございます。」

「はぁ…そうか。」


宇七は手をあわせた。さわさわと笹の葉がせせらぎ、風が宇七を包む。安らかな気持ちだ。気が付くと隣には福助が立っていた。


「福助どの、いつから私が物憑きと知っていたのだ?」

「川越の宿でうなされていらした時からです。わたくしども役者も、演じる役に気持ちが入ってしまい、ときどき役に憑りつかれることがございます。お七さん、お菊さんはよく憑りつく、と。」


「なぜ私なのだろう?俺は江戸でいちばん、お七さんと縁のない男だと思うが。」

「江の島のお坊様がおっしゃるように、似ていらしたのではー?」

「西運上人か…」


俺はそんなに男前でもないと思うが、と宇七が心の中でつぶやくと、福助がくすりと笑った。読まれたらしい…


「あのー、なんだな、そんなに人の気持ちが読めてしまうと、たいへんであろう?」

「役者としてはありがたい力ですが、ひとりの男としては、好きな人の嘘偽りなき心を見るのは、つらいものです。」

「…」


うーん、まずい感じになってきた…



(三)福助の接吻


気が付くと、妹たちの姿は見えない。どうやら気を利かせてどこかへ消えたらしい。宇七は慌てて、大真面目な顔をして見せた。


「なぜそれがしを、助けてくれようと思うのだ?」

「なぜって…西運上人のように、一生をお七さんの器として過ごすのは、あまりにお気の毒だからです。お七さんは魔物とはいえ、西運上人と長年を連れ添い、一緒にたくさんの功徳を積んでいらっしゃいます。」


お七の半分はすでに火伏せ神のようなもの、と福助は言い切った。


「そんなお七さんに見込まれても、宇七どのは女をすべて諦めるなど、できないのでは?」

「…そうだな。」

「これから宇七どのが誰かを恋焦がれるたびに、その娘はお七さんに焦がされてしまうでしょう。」

「それは困る…」

「お七さんと添い遂げるか、離れてもらうしかないのです。」


ですけど、と福助は宇七の耳元でささやいた。


「男なら、お目こぼしかもしれませぬ…」

「ご、ご神域で不謹慎ではないかっ…」

「縁結びの神様でございます。」

「いや、それがしはー」

受け付けぬ、と言ったはずの言葉が出ない。福助の唇に声が塞がれてしまった。声と息とが吸い込まれ、くちもとの柔らかいところが重なり合う…意外と、良い。


朴訥な宇七ごときが相手にするには、当代一の女形の口説きはのようだ。いかん、これは男だと思いながら身体は言うことを聞かない…腕を広げて福助を抱きしめようとしたとき、聞きなれた声がした。


「宇七どの、お待たせいたした!」


…新之丞だ。宇七は飛びのいた。



(四)狐の幻惑


「ぐあいでも悪いのですか、鳥居に抱きついて…?」

「えっ。あぁ、そう。眩暈がする。」


宇七は具合が悪そうなふりをする。


向こうから福助もやってくる。おかしいー福助は今まで俺の隣でー?まさに狐につままれたような気持ちで、宇七は新之丞に聞いた。


「お…大山の神社はいかがなものでした?」

「それはまことに素晴らしい眺めでございました…め組という、火消し連中の梯子乗りも見まして。」

「梯子乗り?」

「えぇ、4~5人ぶんの高さはあろうという青竹の梯子の上で、ひとが曲芸をするのです。鳶火消したちから神様へのご奉納だとか。」

「それは…見たかったなぁ…」


宇七が残念そうな顔をすると、新之丞が言う。

「いつか大山にご一緒にまいりましょう。」

「そうですな。」


福助が静かにたたずんでいるのを見て、宇七は慌てて声をかける。

「福助どの、お母上は?」

「わたくしの母?」


福助は不思議そうな顔をした。

「わたくしの母は、三つ子のお産をこじらせてずいぶんと前に亡くなりました。」

「えええぇ…それでは三つ子の妹御たちは?」

「妹か弟かも、わかりませぬ。生まれておらぬのですから。」


宇七はぞぞっとした。


(こわい…)


久々に福助をから恐ろしく感じる…


「宇七どの、眩暈が治ったのであれば、そろそろ発ちましょう。日が暮れまする。」

「そ、そうだな。」


宇七は気を取り直して歩き始めた。しかしさきほど、茅の輪があった本殿前の参道にさしかかったとき、足元に何か黒いものを見つけた。…これは…焦げた笹の葉だ…茅の輪が燃えたのは、夢ではないのか…?福助に目をやると、しぃっ、と唇をすぼめたようにも見えた…



(五)三嶋大社の大山祇神


秦野から東海道に戻り、一行は小田原で一泊すると、箱根から三島へと足を進めた。この一帯は富士の景勝地だが、何より宇七は久しぶりに故郷の海風を愉しんでいた。


「宇七どの、このあたりがお里では?」

「えぇ…じつの父母に会いたいですが、こたびは難しかろうと…」

「少し寄り道も多かったですしね。」


新之丞が富士を眺めながらため息をつく。


「うらやましい。これほど美しい富士のお山を眺めながら育たれたとは。」

「いやいや。信州の山々も見てみたいものです。」

「えぇ、いつかきっとお見せいたします。」


新之丞は楽しそうにしていたが、三嶋大社にさしかかると、はっ、と思い出したように話しだした。


「じつは大山の山頂で、気付いたことがあるのです…」

「ほう?どのような?」

「三峰神社ではおおかみを神様として祀っていましたが、じつは大山の阿夫利神社にもおかみと呼ばれる竜神様がおられるのです。」

「おおかみ、と、おかみ、ですか。たしかに音は似ておりますな。」

「そしてどちらも大きな清流の、源流にある大社でございます。天子様やご公儀のことも、おかみと呼びます。日の本は、水を神と崇める国ではなかろうか…と。」

「なるほど…おおかみは大神とも書けますなぁ…」


新之丞の興味は尽きないようだ。宇七はふと地元でいわれる神社の縁起を思い出した。


「そういえば、新之丞どのがお参りに行かれた大山阿夫利神社の御祭神、大山祇神おおやまつみのかみがこの三嶋大社にも祀られておりますよ。」

「三嶋、大山とくれば、伊予の大三島にある大山祇神社おおやまつみのじんじゃと深い縁がありそうですね。大三島は軍神として崇められ、甲冑や太刀の奉納が引きも切らぬと聞きます。」

「なるほど…武人である鎌倉殿がここ三嶋大社を大切になさったのは、ゆえあってのことですな。」


宇七はそれほど信心深いほうではない。新之丞のように寺社仏閣のなりたちやに興味がない…それよりも今、宇七の頭の中は煩悩でいっぱいだ。


ーただの口吸いであれほどのものなら、福助が源内に仕込まれたの術はすごいのかも知れない…


「宇七どの?どうなされた?」

「あぁ、いや。」


いかんいかん、煩悩ばかりだ。少しは新之丞の話をまじめに聞かなくては…




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