第11話 関東総鎮護 大山阿夫利神社
(一)新之丞の大山詣
老僧と別れた一行は平塚宿に向かった。相模川をはじめ、東海道の名だたる川には橋がない。江戸を敵から守るためと聞くが、旅人には不便極まりない。
宇七たちは海沿いの
「川上にある厚木の渡し場に行ってくれい、ここは殿様の荷が入るから無理だ。」
馬入の渡し場から厚木の渡し場まで、ざっと一刻(2時間)以上かかる。
「なにゆえ、仁左衛門どのは中山道ではなく、川渡しの多い東海道を選ばれたのだろうか?時間も銭もよけいかかるのに…」
宇七の疑問に福助が答える。
「中山道は夏向き、東海道は冬向きの旅路でございます。中山道は信濃の山中を通りますゆえ、秋の今時分にはもう寒うございますよ。」
「それはそれは…旅慣れぬ者には事情がわからぬな。」
「また中山道はご公儀や京の朝廷からの使者などが通りますゆえ、道中でそのような身分の高い御一行に出くわすと、旅籠が従者でいっぱいになり、屋根の下には泊まれませぬ。下々は野宿をするのでございます。東海道は陽当たりもよく、この時期は雨さえなければ良い道程となりましょう。」
「そうか。」
ところがその直後から大雨がきた。目の前でみるみる相模川が増水し、厚木の渡し船はしばらく止まり、一行は半日ほど足止めとなった。
「これは…大阪まで半月とはいっても、じつのところ読めんな。」
「東海道はお天気次第でございます。」
新之丞が言い出した。
「どうでしょう、せっかく厚木まで来たのですから、相模川を渡ったのち、近くの大山詣でをいたしては?」
宇七はきょとんとしている。
「大山詣で?大山には何があるので?」
「大山の阿夫利神社は、関東総鎮護の霊山で、関東平野の裏鬼門封じの位置にあります。」
「なるほど…それでは参りましょう。半日もかかりますまい。」
「いや、宇七どのはいらしては駄目です。」
「駄目とは…?」
お七さんの憑いた宇七は連れていけぬ…せっかくのお札が燃やされてしまっては困る。新之丞は思い付きをいろいろと巡らせた。
「えぇと…大山は
「女人…?あぁ、お七さんのことか。」
「美人はことさら駄目とか。」
不気味な風が吹かない。どうやらお世辞が効いたらしい…
「じつはわたくしも…お参りしたい神社がございます…」
福助もわがままを言い出した。
「どこへと?」
「母の生まれがここ秦野でございまして、氏神さまの白笹神社にまいりたく…」
「わかった。それでは新之丞どのは大山詣でに、それがしと福助さんは白笹神社に行こう…両名とも、仁左衛門殿には内緒だぞ。」
(二)新之丞、危機一髪
「仁左衛門さまといえば、宇七どの、あの大きな包みは?」
「いや、まだ開けておらぬ…なんとなくその、よからぬ感じがしてな…」
「やることもない今こそ、開けてみては?」
新之丞にうながされ、宇七はしぶしぶ仁左衛門から渡された大きな包みを取り出した。やはり古い。
「…古着のようだな…」
「これは…使い古した職人の衣ですね…」
何に使えというのだろう?宇七は見なかったふりをして包みをさっさと閉じた。
相模川の水量が少し減ってきたらしく、船頭が待合いをしている旅人を呼び始めた。
「向こうっ方に出るぞー」
「お侍さんがた、まだ水流が強いから、揺れますぜ。」
「大丈夫だ。」
最初に宇七が渡し船に乗り込んだが、新之丞が動かない。
「新之丞どの、どうなされた…?」
「あ、いや。」
やっとのことで新之丞も意を決して船に飛び乗ったが、そのせいで船がぐらぐらと揺れ、船頭が渋い顔をしている。福助はいつものように、いつの間にかするりと隙間に収まっている。
船頭の言う通り、まだまだ水が多く、流れがかなり急だ。
「…大丈夫でしょうか…」
新之丞は船のへりにへばりついて真っ青な顔をしていたが、船がゆらりと大きく傾きそのまま川に呑み込まれそうになった。
「おい、大丈夫か!」
宇七は新之丞を抱きかかえると言った。
「しばらくつかまっておられよ、新之丞どの。」
「か、かたじけない…」
「新之丞どの…まさか…」
宇七が新之丞の顔をまじまじと覗き込んだ。
「泳げんのですか?」
「…信濃に海はございません。宇七どのは?」
「伊豆育ちに泳げるかは愚問ですよ。」
宇七が新之丞を波から守るように抱きかかえている。福助はそれを見て見ぬふりしているようだ。
(三)新之丞の生い立ち
宇七と福助と別れて、新之丞は大山に向かって歩き出した。大山では宇七に憑りつき暴れ始めたお七を抑える護符を頂く。阿夫利神社で用事を済ませて、平塚宿で合流するのは夕方になりそうだ。
新之丞は宇七に少し怒っていた。川に落ちそうになったのを助けてもらったのは、良い。だがあのようにしっかりと抱き抱えるとは、わたしとて女子供でもあるまいし、迷惑だー!
じつは新之丞は、最初は宇七が苦手だった。可愛がられて育った者に特有の、あっけらかんとした善意が不得手だったのだ。ようやく近頃は宇七が気楽に声を掛けたり、からかったりしてくるのに慣れた…とはいえ、さきほどのように急に距離を縮めてくるとやはり不快だ…いや、不安というか…
新之丞は物心つく頃に母親や兄弟と別れて、仏門の修行に入った。最後に寂しいとか、悲しいという子供らしい気持ちを持ったのは、お寺にやられると知った日だ。寺に入れられたあとは厳しい日課で精いっぱいとなり、気付けばいっぱしの僧侶らしい生き物になった。
寺では人と親しく触れあった記憶はついぞなく、感じ方、考え方も武家で育った連中や、町人たちとは違う。これはもう、還俗しようがなかなかに変えられない。
いっぽうで宇七は職人の育ち、男8人兄弟の7男坊ということで、兄弟同士でくんずほぐれつして育っている。新之丞には考えられないほど、ひととの距離が近い。出会ったばかりの老僧と昼飯を食おうと言い出したり、雲の上の人である平賀源内にずけずけと本音を言ったり、仁左衛門のことを陰でこっそり
新之丞は宇七と初めて地下廊で出会った日のことを思い出す。ぽかっと開いた土壁の向こうに、蝋燭を手にした仏様の現れたあの日。しばらくすると宇七は急に新之丞を置いて逃げ出し、暗闇に取り残された新之丞は必死に待ってくれと追いすがった…とは、恰好が悪くていまだに言えないが。
宇七のおかげで自分は変わった、と新之丞は思う。人と一緒にいて、楽しいと感じるようになり、それを悪いことだと思わなくなった。宇七には学問やら書物の知識はからきしないが、職人の一族の掟が身体に染み込んでおり、一本筋を通している。あの仁左衛門も宇七のことは気に入っているようだ…あ、でも、あれでなかなか手が早いと嘆いていたな…
新之丞は宇七といる時間ができるだけ長く続けばいいと思っているし、とんでもない物の怪に気に入られてしまったとあっては、仲間として捨て置けない。
しかし広いお江戸の中で、なぜ好き
(四)新之丞、め組と豆腐を喰らう
「…これはきつい…」
新之丞はもともと身軽だ。以前の三峰神社詣でも、宇七がのろのろ歩くのがじれったかった…それでも大山阿夫利神社への道は三峰よりさらにきつい。神代の昔から人々がこの山で雨乞いの儀式をしたのは、このとんでもない高さのためだと思い知る。とはいえ、参詣の人出は多く、洒落っ気のある若い者が多い。
ちょうど喉が渇くあたりの茶店には、御神水豆腐と書かれた看板がある。
「御神水豆腐を、ひとつください。」
「まいど。」
新之丞は運ばれてきた升に入った豆腐を口にする。
「あぁ、これは冷たくてけっこうですね!」
豆腐は新之丞が育った寺で口にできた、数少ない美食のひとつだ。信州の清らかな水で毎朝作られる豆腐は世間で一等だろうと思っていたが、大山の豆腐はまるで飲み物のように滑らかだ。
「うちの豆腐は絹ごしだから、美味いだろう?」
「えぇ。わたくしも豆腐にはうるさいほうですが、これは本当に美味しい。」
「水が命よ、豆腐はよ。」
そこへガヤガヤというざわめきが近づいてきた。揃いの半纏を着て、先頭の若者はまといを担いでいる。
「あぁこりゃ、め組がきやがった…お侍さん、誰彼かまわず絡む連中だ、目を合わせてはいけませんよ。」
「目を合わせるなとは、おだやかでない。」
「こないだなんか、鳶と目黒の大火事の
「おやおや、それはこわいですね…」
「大山は火伏せの大社だから、参拝客も鳶や火消しが多いんでさ。あいつら火が出りゃ神様だが、火がなくても火を起こしちまう連中さ。」
それにしても意気がいい。め組に入るためには男前かどうかも見るのだろうか?揃いも揃って、なかなか粋な若者だ。
「よう、兄さん、豆腐をもらおうか。」
「へい、おいくつ?」
「目ぇ付いてねぇのかい、数えやがれ。」
…なんという態度だ…新之丞は呆れた。これが噂に名高いめ組とは、江戸の火消しもたいしたことはない。
「おう、座れ座れ。お侍さん、隣に失礼するよ。」
新之丞は両脇を火消したちに囲まれた。
「お侍さんも火消しかい?」
「火消しではありません…火伏せ祈願です。」
火消しのまといを持った男が周りを見回した。
「それにしちゃぁ、侍は、火事場でなんもしないよな?」
「大名火消しは腰抜けばっかだしな!」
多勢に無勢、新之丞をからかい放題だ。あいにく新之丞は血の気が低い。その手には乗らない。
「その鼻先に引っ掛けたやつは、なんだい?」
「これは眼鏡ですよ。」
「貸してくれよ?」
「こら、駄目に決まってんだろ。」
「ははは。」
そのとき、新之丞にふわりと何かが見えた。それは火事場ではなく、芝居小屋のようだ…
(五)関東総鎮守 大山阿夫利神社
若い連中が豆腐を食べ終えたころ、年のころ四十ばかりの恰幅のいい男がふぅふぅと言いながら追いついてきた。
「
「おう。」
鳶頭と呼ばれた男は新之丞の近くに腰かけると、軽く頭を下げた。
「うちの若いもんが、迷惑かけてませんかい?」
「いや、何もかかっておりませんよ。」
「そうですか、そりゃよかった。」
下からは大きな竹梯子を担いだ若者が上がってきた。
「梯子ですか…?」
「へい、阿夫利神社の境内で
「それは見たことも聞いたこともないです。」
「お侍さまはお国はどちらで?」
「信州松本でございます。」
「ああ、それでは江戸の鳶の梯子乗りはご存じないな。」
鳶頭は差し出された豆腐をくっと呑み込むと、ふぅと吐息を吐き、汗を拭った。
「そいじゃあ、失礼いたします。よしみんな、待たせたな。梯子を持つ当番を誰か替わってやれ。行くぞ。」
め組の連中は、がさがさと山肌の階段をふたたび登り始めた。茶店の主人がめ組の後ろ姿を顎でさす。
「お侍さん、め組の鳶梯子はなかなかのもんだ。絡まれないぐらいの距離でついていったらどうだい?いいもんが見られるぜ。」
「そうですね、私も急がなくてはならんので、ちょうどいい。」
新之丞はめ組の隊列につかず離れず、頂上を目指していった。
山頂の阿夫利神社には、3柱の神が祀られており、それぞれ
新之丞は三社に心をこめて祈ったのち、護符を頂き懐に入れた。
それにしても紅葉した大山は素晴らしい眺めである…ところが美しさに心を打たれると同時に、胸の端っこをきゅうっと、つねられているような嫌な気分もした。なんだろう、この感覚は…?あまりないことだが、新之丞の目からぽたぽたと涙がこぼれ、着物の胸元を濡らす。私は心が弱くなっているのではないか…いや、大山は雨の神がいらっしゃるからだろう…あぁそうか、眼鏡だ。
眼鏡をかけてからというもの、新之丞と世間の距離はぐっと縮まった。何もかもが鮮明で力強く、心が動いて仕方がない。そして喜怒哀楽のはっきりした宇七が近くにいるのも、少し影響しているだろうーこの景色を、一緒に見たかったなー見せてやりたかったー
(六)め組の木遣と梯子乗り
がやがやとしていた境内が静まり返り、唄声が響き渡る。新之丞が神社の境内を振り返ると、そこではさきほど
「いい声だねぇ。」
見物人が感嘆する。腹から出る声を男どもがあわせて唸る。ー新之丞は長いこと経を詠んできたから、寺の
祝儀の木遣が終わると、小唄のような粋な歌詞の木遣が始まった。町娘の恋や火消しの心意気を唄う。それにあわせて若衆が揃い舞う。鳶の連中は屋根の上を走り回るほど身のこなしが軽い。空を跳ねるような小気味よい踊りと変わった身振り手振りに、見物人は大喜びだ。
やがて梯子が天に向かって立てられた。するすると鳶火消しが登っていく。片足だけを梯子に巻き付けて両手と片足を空に浮かせて大きく広げる。
「よっ、一本遠見…二本遠見…からの、肝潰し!」
いきなり梯子のてっぺんで手を放し、まっさかさまに大の字になる。境内に拍手が巻き起こる。
「
鯱とは、足を高く上げた格好のようだ。お城の屋根についているシャチホコを模していて、これも人々が熱狂する。こんどは股で梯子を挟み、上半身をだらりと仰向けにぶら下げる。
「よう、藤下がりだ!」
ーよくみんな技を知っているなぁ…新之丞はただただ驚いて目を見開いている。
「おいおい、もうひとり登っていくぞ!」
「それ、二段肝潰しだ!」
「両脇で鯱かい…!こりゃあすごい。」
境内は火消したちの人間離れした技に沸きに沸いた。
「め組!め組!」
「天下一!」
新之丞は時の経つのも忘れていたが、はっと気づいた。早く宇七たちのところに戻らなくては…しかし、あまりに面白くて足が動かない。そのとき、またふわりと眼鏡に何かがよぎった。…芝居小屋だ。
新之丞はどうしてこんなに芝居小屋の風景が出るのか、少し知りたいと感じたーその瞬間に、乱闘を繰り広げるめ組の連中が見えた。ーめ組が過去に起こした騒ぎか、それとも未来のことかわからないが、これはあまり良い話ではない…
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