第10話 東海道に旅立つ「4人」

(一)新之丞のあやかし眼鏡


「新之丞どのも、それほど近眼で苦労なさっていたとは…!」

「いえいえ、まったく見えないわけではございません。遠くがかすむ程度でございます。」

「もしかして三峰神社にいた狼や、武甲山も見えていらっしゃらなかったのでは?」

「あのときは話に夢中でございましたから、山は目に入っておりませんでした。」


…人によって見える景色は違う、というが、今まで新之丞とはまったく違うものを見ていたらしい。


「にしても、奇妙なこともございます。」

「どうなされた?」

「宇七どのには、思い人がおられますな?」

「…どうしてそれを?」

「映っております。」


新之丞が言うには、宇七がどうかした拍子には、眼鏡に若い娘の影がちらつくのだという。


「…不思議なこともあるものだ。眼鏡とはそのような影まで見えるのですか。」


宇七が不思議がっていると、福助が口を開いた。


「恐れながら、源内先生のお知り合いに、水晶玉を見る験者がおりまする。甲州甲斐には家々の庭や寺の境内に大粒の水晶がごろごろと転がっておる土地があり、そこで採れた水晶を験者が磨きますと、未来や過去、ひとが口に出さぬ妄念などが見えるそうでございます。」


「その眼鏡はまさに水晶製ですな…」

「そのようなことありましょうか?」

「新之丞どのは古刹にて長年修行なされた身、還俗したといえど、なにか力があって不思議はございませぬ。」


「新之丞どの、未来は見えたりいたしますか?」

「…いまのところ、ございませんな。宇七どのが女子おなごのことばかり考えておることは、わかりました。」

「…」


福助がふわりと笑うと言った。


「わたくしが千里眼を使いますところ、そろそろ品川宿でございます。夕焼けの頃には保土ヶ谷宿で赤富士を拝めることでございましょう。」

「赤富士!急ぎましょう!」


先を急ぐ新之丞の後ろで、宇七と並んだ福助が小声で言った。

「…憑りつかれておられるかと…」


そう、新之丞はすっかり富士に憑りつかれたようだ。



(二)相州江の島の老僧


東海道は保土ヶ谷から出立ののち、相州七里ガ浜、相州江の島と富士の名所が続く。


「江の島は芸の神さま、弁財天がおられます。それはそれは美しい景色です。」


福助が弁財天にお参りをしたがっているので、一行は少しだけ寄り道をして弁財天に立ち寄ることになった。引き潮に現れる砂州をわたれば、すぐに江の島に着く。


「江の島から見る富士も、また格別ですな!」

新之丞はまたもや感慨深げだ。


「もし、目黒大円寺のゆかりの方ではありませぬか?」

宇七が振り向くと、百歳にもなろうかという高齢の坊主が宇七の右肩を指さしている。ぎくりとしながら宇七が答える。


「なぜ大円寺と?」


目黒大円寺から出火した大火をめぐり、平賀源内の隠密をしているとばれたのだろうか?


「いや、あまりに似ておられたゆえ…しかし考えればお年からいってありえぬ。それにしても不思議な…」

「どちらのどなたと似ておるのだろうか?」

「いや、言っても信じますまい。」


江の島弁財天の参道には茶店や飯屋が並んでいる。宇七は老僧も誘って、みなで昼飯を食うことにした。


「名物が蛸やシラスゆえ、精進なさっているお坊には料理のお勧めが難しいですな。」

「いやいや、飯とお湯さえいただければ、漬物を持っております。」

「そうですか…」


飯を待つあいだ、宇七は老僧の昔話を聞く。


「拙僧が修行におりました頃の大円寺は、ちょうど綱吉公の自由な気風の治世が終わり、儒学者があらゆる締め付けを始めた時代でありました。赤穂浪士の討ち入りなどはその入り口で、何も知らぬ人々は浪士の有り様を褒め称えましたが、その後のことを考えれば、あれこそ不自由な世の中の始まりでございました…」


なんだか、話が長くなりそうである…


「その翌年、江戸は大きな揺れが起こり、町屋、武家屋敷の倒壊は数知れず。この辺りの宿場はあらかた大波にさらわれてしまいました。」

「あぁ、その大地震の話はそれがしの伊豆の村にも伝わっておった。高台に逃れそこなった者がずいぶんと流されてしまったそうだ。」


「それだけでは済まず、富士のお山も火を噴いて怒られたのでございます。いったい誰がここまで天下を乱したのか、そう噂をされましたが…大火だけは起こりませんでした。なぜだと思われますか?」



(三)西運上人の弟子


「なぜあらゆる災厄が起きたのに、江戸で大火は起きなかったか…ご公儀が火伏せをなさっていたからでは?火の鬼門を封じるなど。」


老僧は笑う。

「当時のご公儀は火の鬼門がなんたるか、すらご存知なかった。江戸の炎を、身をもって封じ込めておりましたのが、このわたくしの師僧であられた西運上人でございます。」

「西運上人…俗世では吉三郎と呼ばれていた、八百屋お七の思い人ですか?」

「はい。」


…なんとこの老僧は、八百屋お七を大円寺の井戸に封じ込めた西運上人の弟子だという。


「わたくしもその折には小僧でございましたから、あまり気にも留めませんでしたが、西運上人はそれはそれは男前でいらっしゃいました。大火の難を逃れ、吉祥寺で世話をしてもらったお七さんが惚れこむのも無理はございません。お武家様は、本当に西運上人に似ていらっしゃいます。…もしやご血縁などございませんか?」


「それがしの知る限り、ないかと。」

「それに心覚えは?」


老僧が宇七の右肩をすっと指さすと、ゴウっと風の音がして部屋の外から大きな声がした。


「おい、気をつけろ!火が強すぎるぞ、小屋ごと焼くつもりか!」

「すみません!」

「水だ、水!」


どうやら窯の火が強すぎて、小僧が叱られている。


「おや、怒っておられますな…」

「どういうことでしょう?」

「お七さんですよ。あなたに憑りついておられます。むかし西運上人にそうしておられたように。」

「えぇ…しかし、お七さんは井戸に封じられていたと?」


「西運上人が亡くなる直前に死力をふり絞って、お七さんに井戸に入るよう説き伏せたのでございます。もうわしは長くない、この身体は朽ちようともお前の井戸の横にずっといるから、頼む、その力封じさせてくれと。」

「本当の話ですか?」


「私は小坊主の時分にそれを目にしております。調伏の密儀の末席にもおりました。しかしそれはそれは凄まじいやり取りであり、お七さんは江戸が好きだ、あんたが好きだ、離れたくない、と若い娘らしい我儘を言っては何度も井戸から戻ってきて…そして大円寺亡きいま、若い頃の西運上人にそっくりなお武家様に憑りついておられるのでしょう。」


宇七は目の前が真っ暗になった。



(四)お七と宇七


「いやじつは…お七と契った夢を見たことがある…」

「そうでしたか…もう契られたと…」


老僧はまことに気の毒そうな顔をして宇七を眺めた。

「この世の終わりとは申しませぬ、西運上人も何十年と右肩にお七さんを連れて歩かれておりました。」


部屋の隅で何やら取り込んでいた新之丞が、小さな旅用の帳面に落書きをして持ってきた。

「もしや、お七さんとは、このような方ではありませぬか?」

「おお、よく似ておる。どうしてこれを?」

「なぜか見えるのです。ふとした折に。」


新之丞の帳面には美しいが、感情が見えない女が描かれていた。


「宇七どのの思い人だと思っておりましたが、お七さんに憑りつかれておられたとは…」

「お武家様はうしち、と申されますか。」

「あぁ、工藤宇七郎と申す。延享えんきょう4年、丁卯ひのとうの生まれの七男坊じゃ。養子に出されたがの。」


老僧が指で何かを数えるようにして、微笑んだ。

「まさに実直、素直、ひとに尽くすことを苦にしないのが丁卯生まれでございます。良かった、良かった。お七さんも良い方を見つけられた…」

「いや、それがしは困る…」


またゴゴゴ…と外で風が巻き起こった。


「宇七どの、うかつなことを言うと、また飯窯めしがまの火が荒れまする。」

食い意地の張った新之丞が宇七を睨む。


「うしちろう、の文字は、うさぎ年の卯に、七郎ですかな。」

「いや、う、はうさぎではない。屋根の下にここにあり、と書いて宇じゃ。」


老僧が絶句した。

「屋根の下にここ、で、宇…その意味をご存知か?」

「いやぁ、それほど深く考えたことはないがー」


「宇は天地四方と何かを隔てる屋根の意味。宇七郎とは七を入れる箱、つまりお七の火のうつわという意味かと…」

「たしかに。御伽草子の浦島にも、竜宮城には臺宇玲瓏たいうれいろうがあったと書かれており、これは高楼こうろう照り輝くと読み、火を入れた灯台のことにございます。」

新之丞がうなづく。


「えぇっ?それは困る…」


外でまたごうっと風が吹き、団子がみな焦げたようだ…わらわらと騒ぎが聞こえる。老僧は宇七に聞こえぬところに新之丞を手招きし、耳打ちした。


「悪いことは申しませぬ、お七どのをおとなしくさせるお札を頂きなされ。ここより北に大山阿夫利おおやまあふり神社があります。」

「聞いたことがございます。富士のお山と並ぶ関東総鎮護の霊山では?」

「よくご存知じゃ…雨降あふりの名のとおり、雨乞いの霊験あらたかなれば、火の化身を弱めるにはちょうどよかろう…」


くれぐれも、と老僧は新之丞にくぎを刺した。


「お札は宇七どのではなく、あなたさまがお持ちなされ。宇七どのがその存在を知れば、すぐにお七さんが燃やしてしまいましょう。」

「はい。」

「…それにしても、あの宇七どの、お七さんの相手をするには少々覚悟が足りぬ…かつての西運上人のように、お七さんと添い遂げるほどの覚悟があれば守護霊にできようものの…悪くすると祟るやもしれぬ。」


「一本気で素直な宇七どのですから、他に思い人がおれば、気持ちを隠せないでしょう…その性格が、吉と出るか凶と出るか…ということですね?」

「そうじゃ。」


新之丞は老僧の手を握ると強い口調で言った。

「ご見識の数かず、かたじけのうございます。宇七どのにはわたくしが付いておりますゆえ、心配はございませぬ。」

「そうか、そうか…あの下男にも気をつけよ。あれはお狐様が入っておるから。」

「…狐も…ですか…」

少々魔物がたくさんすぎる、と新之丞は思いながらも老僧に礼を言った。


老僧は別れ際に宇七にこう言い残した。

「お七さんを粗末にしたり、消し去ろうとはなさらぬように。江戸の火伏せになくてはならぬ娘さんじゃ。」

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