第9話 大阪堺への新たな旅立ち

(一)東の金、西の銀…そして波銭


家敷に戻った宇七に仁左衛門がニヤニヤしながら声をかける。


「越後屋の番頭、なかなかに図々しい男であろう?」

「はい。金を貸して金利を取り、銀に替えてまた両替手数料をとるとは、いかなる用件かと。」

「仕方がない。ご公儀はそれを許してきたのだからな。知っておるか、三井越後屋の初代は松坂の出でな、その名も、高い利息と書いて、高利たかとし、と読むのじゃ。ほっほほ…」


仁左衛門らしい…つまらない駄洒落に少し和むが、宇七はまだ聞き足りない。


「それにしても、なぜ銀でなくてはならんのですか?」

「知らんのか?上方では金は使えん。」

「えっ!?」


宇七には初耳の話だ。金のほうが美しく、価値が高いように思うが…?


「江戸は金の国、大阪は銀の国じゃ。」

「使える貨幣が違うと…?それではひとつの国とは言えんのではないのでしょうか?」


宇七の持つ銭と、隣村の銭が違うものであれば、まるきり取引にならない。そんな馬鹿な話があるだろうか?


「その通りじゃ。今のところ東西は別の国じゃ。この国の真ん中に商人どもが巣食って、利ザヤを抜いておる。」


「では、江戸から大阪に旅をする間は、どちらを使えばよろしいので?」

「心配するな、旅のあいだの小銭は、豆銀と波銭を使え。波銭を受け取らんものはおらぬ。」

「波銭とは…?すみませぬ、銭とはとんと縁のない育ちでございまして…」


「良い良い。ひと昔前のことじゃが、混ぜ物ばかりの、品質が悪い銅銭がそこかしこで勝手に作られた。…世間が豊かになって、欲しいものが増えたが、寛永通宝の一文銭がまったく足りんかったのじゃ。」


「銭不足で、買うに買えない、と?」

「うむ。だが、乱造された私鋳銭のせいで、銭の信用が落ち、いっときは皆が銭を受け取らなかったほどじゃ。そこで、ご老中の田沼様はご公儀で実権を握るとすぐに、号令を出された。」


田沼は幕府が管轄する銭座以外で鋳銭することを禁じ、3年後の明和5年(1768年)には寛永通宝の四文銭を送り出した。裏側に青海波という模様が彫り込まれた銅銭のため、波銭と呼ばれている。


「江戸っ子は縁起担ぎが好きじゃから、おめでたい青海波を背負った波銭を、皆が大歓迎したものじゃ。」

「なるほど、そのようなことが…では波銭を持っていれば安心ですな。」

「だがな、波銭にも二十一波紋と、十一波紋がある。二十一波紋のほうが人気があるから、覚えておけ。二十一波紋を集める好き者が少なからずおってな、少し高う引き取ってくれるわ。」

「はぁ…」


贅沢や買い物に縁のない人生を送ってきた宇七に、銭はちんぷんかんぷんの世界である。


「銀貨はもっとややこしいぞい。銭の種類は福助が詳しいから、迷ったら尋ねることじゃ。ぼったくられる前にな。」

「福助さんはお金の苦労をしていたのでしょうか?越後屋の番頭が言っていました。」

「そうじゃろうな、興行とはそういうもんじゃ。看板役者は身を削って一座を食わす。」


「源内どの、いや福内鬼外先生と長く離れ離れだったのも、そのせいでしょうか?」

「わしが知るか。だが、太い贔屓筋が焼きもちを焼けば、別れざるえまいなぁ…源内どのも働き盛りで、遠方の鉱山掘りに呼ばれておったしな。」


ご苦労、また呼び出しがあるまで足を休めよ、と言うと仁左衛門は立ち去った。



(二)新之丞の本草目論見書


新之丞がなにやらぶつぶつと怪しい呪文を唱えては、庭を行き来している。三井越後屋から戻った宇七は旅支度もさほどないので、部屋の小窓から新之丞を眺めていた。


「キキョウ、レンギョウ、ハシバミ、クルミ…」


声をかけるのも憚られる真剣ぶりだ。何を暗唱しているのだろう?


「あ、宇七どの、お戻りですね!」

「新之丞どのは、お取込みのようだが…」

「いえいえ、大丈夫でございます。」


聞けば、新之丞は唐から伝わった「本草綱目」という薬草事典と、小石川御薬園や水戸御薬園に植えられている薬草を比べているのだという。


「えーと、それはなにゆえ?」

「宇七どのが越後屋に行っていらっしゃるあいだ、わたくしは小石川御薬園に行き、薬園奉行をなさっている岡田さま、芥川さまをお尋ねしてまいりました。まだ江戸の御薬園にない苗や、すでに薬効がわかっておりながら、なかなか江戸の土に馴染まぬ薬草を目論見にして、上様にお買付けをお薦めするのです。」


…なかなか難しいことをやっているな…


「小石川の御薬園にも、馴染まぬ薬草があるのですか。」

「えぇ、さとうきび、朝鮮人参など、皆が高値で欲しがる苗だが、なかなか育たぬ様子です。なるべく珍しい薬草を選ぶためには、早くすべて頭に入れてしまわねば。…宇七どのは、首尾よく御借入れをできましたか?」


新之丞は宇七が小口の借り入れに使いっ走りさせられたことを、知っていたのか…


「…まぁ、首尾は良かったと思う。」

「ありがたきかな、これでたくさん買い付けられます!」


宇七は新之丞に、福助が瀬川菊之丞だったことを伝えるか、少し迷った。とても個人的な話を聞いたが、どこまで話していいものやら…


「えー、福助どののことだが…」

「宇七どの。」

「うむ?」

「宇七どのは、恋をなさっています。」


「⁉それがしが⁉」

「はい。恋に落ちればあばたもえくぼ、と申します。あの五十男の福助どのに、それほど心を惹かれるなら、宇七どのはご自分の心に向き合ってはどうでしょうか?」


新之丞は澄ましてそう言うとすたすたと立ち去って行った。まぁ、忙しいのであろう。誤解は後日解かなくては…



(三)堺での密命


大阪、堺への出立の朝がやってきた。仁左衛門は人払いした奥座敷で今回のお役目について話しだした。


「おぬしらを大阪に遣わす表向きの理由は本草の買い付けじゃ。しかし、このお役目には裏がある。平賀源内どのからの書状によると、大阪では御用銅の不正が疑われる事態が起きておる。」

「不正…偽銭造りでございますか?」

「そんなかわいいものではなさそうじゃ。ご公儀がゆるぎかねん話じゃ。」


仁左衛門は地図を広げた。


「こないだおぬしらが遊びに行った…いや、火伏せ祈願に行った秩父は、日本でも有数の良い銅の産地じゃ。ところがその秩父の銅が、なぜか急に売れ行きが落ちた。」


大阪には銅座という役所があり、各地の鉱山から銅鉱石を買い付け、棹銅さおどうと呼ばれる純度の高い棒に精錬して長崎に送っている。どこの銅を買い付けるかは銅座の役人と商人が折り合いをつけるのだが、それにしても秩父銅の売り上げの落ち込みはひどく不自然らしい。


「棹銅は長崎から異国へと売られ、幕府の大きな収入源となっておるが、異国の商人が求めるのはかぎりなく純銅に近い棹銅じゃ。不純物が多くては商売にならん。このため腕利きの銅吹き職人どもは、たいへんな力を持っておる。なかでも住友と呼ばれる一族はご公儀もなかなか頭が上がらんほどだ。」


「なるほど…では住友一族の隠し事を暴くのですな?」

「そうじゃ。棹銅は長堀町の銅吹所どうふきじょという施設で精錬されておる。住友の銅吹所を内偵し、なんとしてでも秩父銅の売り上げが落ちた理由を調べるのじゃ。もし不正が行われておれば、その旨報告せよ。」

「はっ。」


三井の次は、住友か…大手の商人あきんどとは、ご公儀と対等に渡り合っては、いろいろな腹芸を使うものだ、と宇七は感心した。


「難しいのは匙加減じゃ。銅座や銅吹所が何か不正をしておるのか、それとも秩父銅の不人気に他の理由があるのか、今はまだわからん。」

「つまり住友と事を荒立てないように調べるのですね?」

「うむ。」



(四)新之丞、殿様に眼鏡を頂く


「表向きの要件も忘れるな。」

仁左衛門は小さな包みと、大きな包みを取り出した。


「新之丞よ、おぬしが上様にお渡しした本草目論見はなかなかのもの…薬草やら、蘭書やら、おぬしの目で見繕って買うて来い、と上様がおっしゃってな。」


新之丞は小さいほうの包みを渡された。

「開いてみよ。」

「これは…!眼鏡ではございませんか!」


眼鏡は徳川家康公が愛用したこともあり、この頃には国内で生産されていた。しかし職人が手作業で水晶を磨き上げて作るため、その値段は高く、若い新之丞が手を出せるようなものでは到底なかった。


「上様はそちの書いた本草目論見をご覧になって、おぬしの目には神羅万象をくまなく見せてやるのが皆のためになろうとおっしゃってな。御用商人からお取り寄せになったのじゃ。間に合って良かったの。」

「ありがたき幸せ…」

「若い者は遠くに行って、ものを見るほど賢うなるからのう。」


新之丞が近眼ちかめであろう、とは宇七もうすうす感じていたが、お殿様がそれに気づくとは…!いろいろと目にする旅のあいだ、この1本の眼鏡が、どれほど新之丞を助けるか考えれば、なかなか粋な計らいである。


「…それと、宇七、これはわしからの餞別じゃ。取っておけ。」

「ありがたく…頂きます…?」


何だろう?大きな古びた布に包まれた餞別を渡され、宇七はなんだか嫌な予感がした。仁左衛門のことだ、ひと癖あるものには違いないが…包みからは古箪笥の臭いがする…


「それでは、久石新之丞、工藤宇七郎、福助。道中もお家の名前に恥じぬよう、励め。」

「はっ。」



家敷の出入り門に差し掛かり、宇七は福助に声をかけた。


「江戸から大阪までは、じつのところ、どれほどかかる?」

「飛脚の足で3~4日、大の男の足で、十日から半月といったところでございましょう。」

「半月か…急ごう。」



(五)水野忠友公と新之丞


眼鏡をかけた新之丞は、少しばかり奇矯な印象が強くなった。澄んだ一対の水晶の奥に、もともと大きな切れ長の瞳が、輪をかけて大きく映り込む。


「新之丞どの、お似合いだ。それにしても水野忠友公は、まこと家臣にお心をかけますなぁ。」

「はい。寺からご奉公に引きずり出されたときには、ずいぶんとお恨みしましたが…」

「引きずり…穏やかでないですな?それがしもまぁ、似たようなもので、伊豆の石切村から江戸に連れて来られたのですが…」


新之丞がもともと出家していたのは、宇七もこのあいだ知ったばかりだ。


「どちらの寺で修業なされたのです?」

「御奉公に出る前は、信州の寺で読書…いや、読経三昧の満ち足りた生活を送っておりました。」

「信州?信州はどのあたりに?」

「松本でございます。わたくしの父は、先代の水野の殿から御勤めを解かれて帰農いたしました。わたくしは次男でしたので、食い扶持が足りず、寺に入れられたのでございます。」


水野の殿様はもともと旗本だった、と新之丞は言っていたが…?


「水野家は松本藩の大名であられました。ところがお身内にご乱心者があり、改易を賜ったのです。信州は佐久にて旗本扱いとなり、とても家臣どもを抱えきれず、たくさんの者が信州で帰農したのでございます。」



そういうことであれば、水野の上様が新之丞にとくに親しく声をかけられるのも、納得というところだ。しかし、宇七は水野家と縁もゆかりもないのに、なぜ選ばれたのだろうか…?


「そうでしたか…でも信州の寺とは、聞くだに寒そうですな。それがしのような、温かい伊豆育ちにはとても無理だ。」

「生まれ育てば都でございます。まさか江戸にて御勤めになるとは思わず…ふあっ⁉」

新之丞がとつぜん、素っ頓狂な声をあげた。


「どうなされた?」

「…富士のお山が…!」


江戸市中、とくに武家屋敷の多い駿河台あたりからはよく富士が見える。いまさらどうなさった、と切り返しそうになったが、そうだ、眼鏡をして生まれて初めて富士山が見えたのだろう。


「これから参る東海道は、道中ずっと富士山が見えますよ。」

福助が言うと、新之丞は感無量で空を仰いだ。


「殿が、私に、初めての富士を見せてくださった…」

「良かったですな。それがしは本もまともに読まぬゆえ、近眼には縁がないが…」


「あぁっ⁉」

「こんどは何を?」


新之丞が顔を赤くして福助を指さしている。


「ど…どなたですか?」

「だから…福助さんではありませぬか…」


やっぱりか。新之丞は源内の座敷で親爺に化けた福助を見て、それきりまともにのであろう。


「福助さんはもっとこう…」

「親爺の?」

宇七はニヤニヤしながら切り返す。


「ええ、それで…」

「不細工な?」

「はい。」


福助がまだ三十そこそこの美男と知って、新之丞も宇七の悩みをもっとまともに聞いてくれるだろう。

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