第8話 三井越後屋呉服店へのおつかい
(一)水野のお殿様にお目通り
宇七の心配には及ばず、江戸屋敷の仁左衛門は口うるさい
「たいそうな御身分じゃな。わしはこのかた、江戸屋敷を三日と空けたことがないというに。さぶらうとはそういうものだ。」
仁左衛門がぶつぶつと愚痴を言っている。たっぷりと秩父詣を楽しんだ宇七たちが、今度は堺に遣わされると聞き、うらやましさに八つ当たりというところか。
「上様がおぬしらにお目通りになる。身なりを整えよ。福助には下男たちに湯漬けを用意させた。しばし
宇七と新之丞は大急ぎで旅の汚れを落とすと、さっぱりとした着物に着替えた。お殿様の近くで顔を見る機会はあったが、きちんと声をかけて頂くのは初めてだ。宇七は緊張した。
新之丞の説明によれば、水野忠友は旗本から出羽守という大名にまで上り詰めた苦労人だ。
「久石新之丞、工藤宇七郎、このたびは三峰神社への火伏せ祈願、まことにご苦労であった。褒美を取らす。」
宇七と新之丞の前に、三方に乗せられた小判が置かれた。国元でむかし、殿様からのご褒美は小判だと聞いていたが、まさにこれか…!宇七は生まれて初めて間近に見る小判に目が釘付けになった。これはもちろん、大火の折に田沼の若様を護衛した褒美でもあるだろう。
水野忠友公は、新之丞が差し出した源内からの書状に軽く目を通した。
「源内どのからの書状によると、なかなか厄介なことよの…。久石、わしも源内どのとは何度かお会いしたことがある。たいそう面白い方であっただろう?」
「はい!」
忠友公は少しくつろいだ様子となり、新之丞に笑顔を見せた。
「それはそうと新之丞。寺を抜けて還俗よりこのかた、こちらの世界はどうじゃ?」
「はっ、身を置く場所は変われど、日々修行の心を忘れぬようにと心がけております。」
「そうか。感心なことである。」
…寺を抜けて?還俗より?さては新之丞は出家していたのか…!
言われてみれば、江戸の鬼門、裏鬼門、京の鬼門など…寺社仏閣の名前や位置が、新之丞からするすると出てくる。普通は知らないものだが、元坊主とすれば納得だ。
田沼意次公や水野の殿さまも、もとは身分が低かったと言い切るなど、現世の有力者に忖度しない口利きも、浮世離れしている。坊主らしいといえば、そのとおりだった。
「さて、工藤よ、江戸屋敷の暮らしには慣れたか?」
声を掛けられて宇七はどぎまぎした。
水野忠友公は、9歳から
御世継ぎとして育てられていた徳川家治の碁の相手や、将軍を退いた徳川吉宗の散歩のお供をして育ち、そして今や、田沼意次の右腕として日本中の金の流れを任されている。雲の上のような世界に生きているはずだが、その態度には急に出世した者にありがちな、人を食ったような傲慢さはあまりない。気さくな人柄のようだ。
「当家はご加増にあって人材不足ゆえ、才ある若い者を探して召し抱えておる。これからも良い働きをしてくれよ。」
忠友公は俺のような者も、家臣のひとりとして気にかけてくれている…宇七は思いがけないお褒めの言葉にぼぅっとなった。
「ありがたきお言葉、工藤宇七郎、上様のお役に立つ所存でございます!」
騙されて江戸に連れて来られた身の上と思っていたのも忘れ、畳に額をすりつけた。
(二)駿河町の三井越後屋呉服店
お殿様に声を掛けてもらい、いっぱしの侍気分に浸っている宇七に、仁左衛門がちょっとこっちに来い、と手招きをしている。
「宇七よ、旅の前に半日ほど、出掛けてもらおうか。」
「はい!どこぞなりとお申し付けくださいませ。」
「駿河町の三井越後屋に行って来てもらおうかの。」
「はっ、呉服屋にお使いでございますな。」
「まぁ、そんなところじゃ。おぬしの可愛げを買ってのこと。福助を連れていけ。」
「新之丞どのは、行かれないのでしょうか?」
「福助のほうが役に立つじゃろう。」
「わかりました。それはそうと…どのような品をお求めでございますか?」
「行けばわかる。」
仁左衛門はにやりと笑うと、書状と袱紗を宇七に渡した。
「金ではなく、銀。そう言ってみて番頭がごねたら、福助の顔を見せろ。」
また謎かけみたいな御勤めだ、と宇七は思ったが、江戸っ子が「芝居千両、魚河岸千両、越後屋千両」と、口を極めて褒める越後屋での買い物だ。浮き浮きと地に足がつかない。
「お出掛けのお供を申し付かりました。」
宇七の部屋の前に福助の声がする。
「うむ、入ってくれ。」
現れた福助の姿に、宇七は腰を抜かした。
「な、なんじゃ、その姿は…」
宇七の前に現れた福助は下男姿ではあるが、まるで芝居小屋の役者のように男前だった。宇七は自分の目がおかしいのか、記憶のほうがおかしいのか、わからなくなってきた。
(こわい…)
こいつは化け物だ…宇七はもう何も言わず、草履を履いた。
「行くぞ。」
「はい。」
江戸屋敷から駿河町まではそれほど遠くない。ほどなく越後屋※に着いた。越後屋の広大さは聞きしに勝るすさまじさにて、一町まるごと、越後屋の紋を白く染め抜いた紺暖簾がはためいていた。どこに声をかけてよいやらもわからぬ…
「たのもう、お使いで参った。」
「これはこれは…手前どもでどのようなお召しでございましょうか?」
「これを。」
宇七は仁左衛門に渡された書状を手代に託した。
「こちらへ。」
宇七は長い通路奥の部屋に通され、茶でもてなされた。水野家のお使いとはなかなか大事にされるものだな、と思いながら茶を啜る。手代は世間話をしながら、お茶のお代わりはいかがでございますか、と甘い干菓子なども出してもてなしを続ける。
「たいへんなご繁盛をなさっておるようですな。」
「いえいえ、これもすべておかげさまでございます。番頭が参りますので、今しばらくお待ちくださいませ。そのあいだに、こんなものはいかがでございましょう…」
手代がポンと手を打つと丁稚が部屋に入ってきた。
「これはなんと…!」
宇七の前に並べられたのは、美しい女ものの着物だ。
「手前どもでは少し手直しすればすぐに着られる、はんぶん仕立て上がりの着物をご用意しております。工藤様にも国元のお内儀さまに、おひとついかがでございましょう。いえ、お代はもちろん結構でございます。お足代でございます。」
宇七は生まれて初めて賄賂を受け取ろうとしている…
(三)金なのか、銀なのか?それが問題だ。
「あ、いや、けっこう。それがしに奥はおらぬ。」
「そうですか…それでは
「いやいや、贔屓もおらぬ。」
そういいながら、おたねに華やかな帯でも締めてやったら、どんなに喜ぶかなと思う宇七だ。
「それではお母上様にこのようなお召し物はいかがでしょうか…」
差し出された着物はいかにも質がいい。色はぐっと抑え目だが、渋い光沢がある。宇七の母は、これほど良い着物は見たこともないだろう。だがこれは旗本のご内儀が着る格のもので、石切り親方の妻である宇七の母は袖を通すことがない。
「いや、これも結構。」
何を勧められても押し返す宇七に、手代が苦笑いをしていると、するりと障子が開き、番頭が入ってきた。
「これはこれは、さすが水野さまのお身内、さすが御堅い。」
馴れ馴れしい口をきくが、畳に手を揃えてつき、丁寧に頭を下げる姿はさすが
「越後屋の番頭でございます。いつもご用命をありがたく存じます。さてこのたびは堺で本草のお買付けとか。」
「うむ。」
知っていたかのように返事をしたが、宇七は堺への用事が薬草の買付けだとは知らなかった。
「手前どもは大口の大名貸しはいたしませんが、ほかならぬ水野様のご家中のご用立てとあれば、喜んでお役に立たせて頂きます。こちらでご用立ていたしました。」
差し出された小判を見て、宇七はびっくりする。なんだ、三井越後屋によこされたのは呉服の買い付けではなく、借金を頼みに来たのか?
―仁左衛門どの…。何が “おぬしの可愛げを買っての頼み” だ。つまり “お前は頭を下げるのが得意そうだ” という意味だな!
宇七はそのまま小判に手をかけそうになったが、言いつけを思い出した。
―
「金ではなく、銀で頼む。」
番頭がぴくりと反応した。
「申し訳ございません。江戸でご用立てできますのは、金だけでございます。」
「いや、銀が必要なのだ。」
「ですから…」
番頭が、知ってるだろう、と言わんばかりの顔で言った。
「こちらでご用立てした金を、上方にて、銀にご両替くださいまし。」
「なるほど。越後屋を探せばいいのだな?」
「はい。ご両替には手数料がかかりますが。」
「なに⁉」
聞くと、金から銀への両替手数料は決して安くない。もちろん金の借り入れに利息もつく。二重に払えということか…
「それではここで銀を用立ててもらいたい。」
「それはできません。江戸では、金と決まっております。」
「なぜだ?」
「そう決まっておるからでございます。」
番頭は平然としている。
つまり、金は貸してやるが、銀が欲しければ高い手数料を払って両替しろと。宇七は、これが世の人の言う
(四)江戸三座筆頭女形、二代目瀬川菊之丞
「両替は別でございます。」
番頭は頑として譲らない。番頭がごねたら福助に顔を出させろ、という仁左衛門の言葉を思い出した宇七は、もったいぶって福助の名を呼んだ。
「おい、福助。」
「お呼びで。」
すっと現れた福助を見た番頭は顔を赤らめて絶句した。
「え…ああっ…え…?そんな…うそ…えぇっ?…
「お久しぶりでございます。」
死人が生き返ったのを見たような番頭の興奮ぶりである。どうやら二人は旧知らしい。
「まぁ…元気でいてくれて…ご無沙汰して悪かったよ、私たちも芝居見物どころじゃなくなってさ…大火事で中村座も、市村座も吉原もみんな焼けて…」
「へえ、一座は上方に参りました。」
「そうだってね。けど、あんただけは体を悪くして江戸に残ったと聞いて、そりゃ心配していたんだよ!…工藤さまもお人が悪い。路考さんのお身内とあればお話しくださいな。」
「あ、いや、驚かそうと思ってな。」
宇七は二人のやり取りを見ながら、おい商売はどうした、と心の中で番頭をからかう。
「じつは芝居は辞めました。」
「まぁっ…そんなに悪いのかい?」
「あたしもそろそろ、好きな人のおそばで生きたいのです。」
番頭は照れて袖で口を隠した。“このお侍かい?”という目くばせに、宇七はぎょっとして首を横に振る。違う、俺じゃないぞ…
「路考さんが幸せなら、それでいいさ。こっちゃ贔屓の引き倒しはしまいよ。」
「あたくし今は福内鬼外先生の下男で福助と申します。先生のお言いつけで、こちらのお侍様と旅をいたすのです。」
「それじゃ、ようやっと、先生と一緒になれたんだね。あぁ、嬉しい。」
福内鬼外とは、平賀源内が芝居の脚本を書く時のペンネームだ。
「あんたほど粋な艶めいた女形はいなかった、でも男の姿も悪くないねぇ―」
番頭は少し首を傾げて、福助の全身を眺めまわす。
「看板役者、本当にご苦労様…何度も何度も、江戸で芝居小屋が焼けちゃ、鬼外先生が芝居を書いて、それをあんたが必死に踊って稼いで、また建て直して…いつも楽しませてもらったね。」
「越後屋様にはいつも上等な着物を揃えて頂きました。」
「そうだ!あんたにあれ見せなきゃ!」
番頭はすくと立ち上がるとバタバタと奥に入っていき、何本かの反物を持って戻ってきた。
「これ!焼け残った
茶色に近い渋い緑色の反物だ。よほどの
「この反物は、あんたがひとつは持ってなきゃいけないもんだよ。持ってっておくれ。あたしからの心づけだから、心置きなく持ってっておくれ。そら、小紋もあるよ。」
「もったいないお気持ちで。」
「あんたはお姫様の芝居も、町女の役も、なんでも上手だったねぇ…またいつか役者にもどってくれるのかい?」
福助はそれには答えず、微笑んでいるだけだった。
「そうかい…無理は要らないよ。もうじゅうぶん、
振り返っを見た番頭は、先ほどとはまったく別人だった。
「工藤さま、万事こちらにて手配いたしますんで、ご心配なくお願いいたします。両替の必要がございませんように、上方の越後屋にもこちらの手形をお見せくださいまし。」
―話が早い。
(五)江戸一の恋仲
「これでしばらく御別れかもしれないね。」
「番頭さまにも、ますますご繁盛をお祈り申し上げます。」
「あたしにできることなら、何でもしてあげるから。また寄りな。ねっ。」
「あい。」
「工藤様、どうぞすべてご心配なく。あたくしのほうで、上方にも便宜を図らせますのでね。」
威張り腐っていた番頭は、最後にはまるで親友のように店の外まで見送りに出てきた。
福助は江戸を風靡した歌舞伎役者、二代目瀬川菊之丞だったか…。
宇七はすべて納得がいった。見るたびに姿が変わるのも、名役者と謳われた瀬川菊之丞なら不思議はない。一瞬で若者と親爺を演じ分けるぐらい、朝飯前だろう…なにせ女にもなれる男だ。
帰る道すがら、宇七は福助に声を掛けた。
「…なぜ役者を辞めたんだい?」
「さきの大火事で芝居小屋が焼けたとき、煙を吸いまして。女の声が出なくなったのでございます。」
「―なんてこった―そりゃ気の毒にな。」
「そろそろ弟分も仕込みが終わり、一座の花形を継がせる時期が近かったのでございますよ―あたしも三十路を過ぎて、
「―年増もいいものだがな。」
「おや、そういうご趣味でございますか?」
「いやいや、そうじゃない!芝居の話だ!…女形に男役はできないものかい?」
「瀬川菊之丞に世間様が期待するのは、女でございます。」
「…それはそうだろうな。」
宇七は心に懸かっていたことを言っていいものか迷っていた。
「お前もー、えー、そのだな、つまり…」
「売られてきたのか、と?」
「あ、いや、そうでは…」
「あたくしは生まれたときから、唄、踊りが好きで好きで、所作が娘じみていたので、王子の庄屋だった父が江戸で稽古をつけてくれました。お師匠様の養子になって、芝居小屋に出ることになったのでございます。」
「そうか。そう聞いて安心した。だから
「芝居は売られてきた子供では務まりませぬ。それはそれは精進の要る世界、中途半端な気持ちで見た目ばかりなら、転び役者と言いまして、舞台の脇を飾る陰間になるしかございません―」
陰間は芸につたない役者が舞台に立てず、陰の間で男色の接待をすることだが、色子といって修行のあいだ身体を売る若い役者志望の男娼もいる。転び役者とは“舞台に立っている間は役に立たない、寝るのが仕事”という、意地の悪いことばである。
「たいへんな世界だな。」
「いえいえ、役者稼業は楽しうございますよ。いくつの町を廻り、いくつの人生を演じてきたか考えますと、何回も輪廻転生したように思えます…豪商やお大尽からの素晴らしい贈り物に、殿様からの恋文…」
「ほう。殿様もかい⁉」
「ただ、あたくしは尽くしたい方がおります。」
源内と菊之丞は梨園の人気脚本家と看板女形として、長いこと恋仲だったらしい。大好きな芝居の世界を見切るほど、源内が好きなのか―。そう考えると宇七は一気に福助という男が身近に感じられた。…こないだ福助が俺の寝床に忍び込んできたのは、たまたまの出来心だろう。
「えーと、なんだな、それほどに源内先生が愛しいなら、もう…」
「はははっ。恋は別腹でございます。」
―!?
振り返ると福助は女形からすっかり若い男に戻っていた。じっと合わせた目に色気が漂う…
(こわい…)
宇七は足を速めて屋敷を目指した。
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