第6話 江戸を狙った火の禍(わざわい)
(一)平賀源内のもてなし
大滝の源内邸は、山奥とは思えない瀟洒な建物だった。源内はお気に入りの大工を江戸から連れてきて、みずから細工にまで指示を出したらしい。
才気ばしった源内だが、気遣いは細やかだ。もてなしの狭山茶は香りも味も素晴らしく、宇七と新之丞はすっかり疲れが取れたようだった。
「このあたりは銘茶の産地で、水は秩父の源流。江戸でこんなにいいお茶を点てるなんて、公方様でも無理だろう。」
「御老中の田沼様と源内さまは、御懇意なのですか?」
新之丞は馴れ馴れしくも、源内とくつろいでいる。
「そうだねぇ。ありがたくもいろいろと御差配して頂いているよ。田沼様は江戸生まれだけど船乗り気質の紀伊衆だし、あたしはすぐ隣りの高松藩の殿様にご奉公していたんで、海が好き同士で気が合うんだね、きっと。」
源内はふふふと笑った。
「先代の高松のお殿様も、それはそれは素敵な方でねぇ。田沼のお殿様とふたりで、あたしのことを取り合いなさったんだよ。身体がふたつ欲しいと思ったもんさ…」
「取り合い、ですか?」
「そう。どちらのお殿様も、学者肌で蘭学や本草学を学ばれて、お国の名物なんかを上手に創って国を富ませていらした。あたしは長崎に勉強にやってもらったりね。そう、蘭学をやるなら長崎に行かなきゃね、新之丞さんよ。」
「はい!いつか行きたいと思っております。」
「長崎は楽しかったねぇ。阿蘭陀人の通詞をしている役人に紛れて、阿蘭陀正月に潜り込んだりさ。見たことのない赤い酒やら、飾り立てたイノシシや雉の肉やら、虫歯が痛くなるような甘いカステラやらが、大きなまかない板の上に並んでね。丸山の芸妓が阿蘭陀楽器にあわせて踊るのさ。」
ほぅっ、と新之丞がうっとりした声をあげる。
宇七はというと、ときおり源内が自分ををじぃっと見る、なまめかしい目つきが気になっていた。
「あたしは物書きだからね、人相も見るんだよ。」
源内は遠慮なしにじぃっと宇七を見つめた。
「あんたは思い切り、勝手にされるのが向いているね。振り回されれば、されるほど、あんたらしくなるようだ。行き当たりばったりに一所懸命やってれば、周りがいろんなものを見せてくれるたちさ。己でこっちと決めて走っていく新之丞さんとは違うのさ。ゆったり生きればいい。長生きして、苦労すればするほど出世する顔だよ。」
思わず宇七の顔がほころんだ。村を出てこのかた、ずっと不安に思っていたものが見透かされたようだった。
ーそうか、俺はただ生きて、そのときどきに出会ってなんとかやっていけば出世するのか。
そのとき、ぐらりと庵が揺れた。どんっ、と突き上げるような、不快な揺れだ。
「あら、まただ。いやだね。最近、目と鼻の先にある浅間の山がちょこっと鳴るようになってきてね。煙が上がる日もある。これは大きな天変地異が起こるかもしれないと思っているんだ。」
「ご公儀に報告してはいかがでしょう?」
「してもさ、いつ火を噴くか判らなきゃ、あんまり意味がないんだよ。あの山がいつか火を噴くのはみんな知っているからね。知りたいのはいつ火を噴くか、なんだよ。そこまでは判らない。」
あっ、と新之丞が胸元に手をやった。楽しいもてなしにすっかりと用事を忘れていた。
「源内どの、当家より書状をお持ちいたしました。」
(二)破壊された江戸の鬼門封じ
源内は書状を読むと、顔色を変えた。
密書らしい。源内はすぐに火鉢を持ってこさせると火にくべて書状を燃やし、絵図をその炎にかざした。絵図はあっという間に変色していく。炙り絵だ。
「絵図の赤くなったところは、この大火で燃えた土地だ。お二人さん、何か気付くだろう?」
「江戸城南西から北東に向かって、一直線…」
宇七には、ぴんときた。城や屋敷の石垣に携わる石切なら、このことは明白だ。
「表鬼門…そして裏鬼門では?」
「その通り。表鬼門の封印はさすがに固すぎて正攻法では破れなかったと見えるね。だから裏鬼門から忍び込み、表鬼門に向けて邪火を放ったんだ。」
「表鬼門封じとして知られるのは、江戸総鎮守の神田明神…関東天台宗総本山の上野寛永寺…金竜山浅草寺…すべてこの大火で燃えてしまいました…」
新之丞が青い顔をしている。宇七も背筋が寒くなった。
「新之丞どの、南西の裏鬼門封じも教えてくだされ。」
「山王日枝神社…三縁山広度院増上寺…将軍家の霊廟です。」
「しかし、どちらもこのたびの大火では燃えておりませぬぞ。」
源内が絵図の火元となった大円寺を指さした。
「火元になった大円寺も江戸の裏鬼門にある結界のひとつだ。あそこには炎にゆかりの深い娘さんが眠っていただろう?」
「…八百屋お七…!」
宇七と新之丞は同時に声を上げた。
八百屋お七は生きながら火炙りの刑に処せられた娘である。そのお七を弔った井戸が大円寺にあることは、「好色五人女」という浮世草子に伝えられる。若い娘が小さな付け火の罪で焼き殺された残酷さは、100年経ってなお、江戸で知らぬものはいない。
「お七さんはもともと駒込片町の八百屋の娘だ。墓も駒込の吉祥寺にあるのに、目黒大円寺の井戸に弔われたのはどういうわけか、わかるかい?」
源内が謎かけのように宇七を覗き込む。
「たしかに不可思議な話です。」
「お七さんの恋人だった西運上人が、大円寺で修業をしたはずでは…?」
新之丞が答えると、源内は心を落ち着かせるようにキセルに火を入れ、ひと吸いすると煙と共に言葉を吐き出した。
「この世に未練を残して亡くなったお七さんは、まだまだ強い力を持っている。わざわざ江戸の裏鬼門にあたる大円寺に弔われたのは、火伏せのためさ。お七さんの力は江戸を火から守るために、大円寺の井戸に封じられていた。水を使ってね。」
(三)放火犯、真秀
「眠っていたお七さんから、わざと火を出すなんざ、人のすることじゃないね。新之丞さん、あんたの知っているかぎりすべて、この火事の下手人のことを教えておくれ。」
「はい。下手人はすでに処断されております。武蔵国熊谷
「
「大火が起きたのが
「死に方は?命を終えるのに刃物は使ったかい?」
「いえ、拷問のち火刑でございました。捕まったふた月後の、
「水無月…火刑…水無月21日は仏滅か…」
源内はぶつぶつと呟きながら空を睨んだ。
「困ったね、そいつは修験僧だよ。自らの命を使って術を完成させるほどの手練れだ。あの辺りは修験者がよく出入りするからね…そいつが異端の術を使った。江戸の鬼門封じが壊されて、今や江戸は魑魅魍魎の思いのままだ。おまけに田沼様には呪詛がかけられたようだ。」
宇七は頷いた。
「…おっしゃることが分かる気がします。江戸には以前のような落ち着きはなく、木戸門が燃えて出入り勝手の様相でございます。生きたいという人々の欲に乗じた金儲けが
源内はつづけた。
「火の出た方角は裏鬼門、火をつけたのは
閏年は武家で墓を作ってはいけないと言われる年である。閏日はその中でも、いちばん霊力が強い日だ。赤口は火の用心と刃物に気をつけろと言われる大凶日―。
「よくもここまで念入りに悪いものを揃えたねぇ。閏年のせいですぐ墓に入れなかった亡霊どもも暴れまわるだろう。だけど田沼様はこれぐらいもうご存知だ。あたしが何かを申し上げずとも、すぐに鬼門封じの寺院を再建し、江戸を守る手立てをなさるはずだよ。」
源内はさらさらと書付けを始めた。
「ご公儀の内部にも、この騒動に加担している者がいるねぇ。鬼門封じの聖跡を焼き払ったこの真秀という坊主が、強力な炎の呪詛を完成させる手助けをしたんだ―水無月の仏滅に、江戸の鬼門にあたる小塚原の刑場で火刑があったのは偶然じゃない。」
源内はキセルの先で、大円寺と江戸城本丸、そして小塚原のあたりを指した。それらは一直線上にあり、南西の裏鬼門から北東の表鬼門まで、大きく江戸を貫いていた。
「困ったね、これから“火の
新之丞はあまりの話に頭を抱えている。あの大火はやはり、これから続く終わりの始まり…?
(四)京で起こった火の禍(わざわい)
「このあと江戸には何が起こるのでしょうか?」
「さてね。真秀という僧がどの程度の力を持っていたかはわからないが、用心に越したことはない。田沼様の世を、火の禍の力で終わらせることは、ないとはいえない。あたしが知っているのは昔に京で起こった話だ。新之丞さん、京の鬼門封じは知ってるね?」
「京の鬼門封じといえば、天台宗総本山の比叡山延暦寺。」
延暦寺はもともと平安京の鬼門封じとして建立された、鎮護国家道場である。天台宗総本山として、日本の各仏教宗派の開祖を輩出してきた寺院でもあり、いわば仏教界の最高権威をもつ寺といっても過言ではない。
「そう、京ではたびたび、鬼門を破壊して時の天下を覆してきたのさ。」
源内は京で鬼門の禍が起きた話を始めた。
永享7年―室町幕府の6代将軍足利義教と延暦寺は激しい対立をしていた。延暦寺のままならぬ態度に業を煮やした義教は、延暦寺の中枢となる4僧を京に呼び出して首を刎ねた。
「これに激怒した延暦寺では、24人の僧が足利の天下に見切りをつけ、自らに火をかけて死んだと記録されている。」
延暦寺から立ち上る炎は京の都からも見え、人々は都の鬼門を守るはずの延暦寺で炎の呪詛が行われたか、と恐れおののいた。将軍は緘口令をしき、延暦寺の火事のことを口にしたものを次から次に処断した。
「延暦寺の僧たちはみずから鬼門に火を放ったのですね―。」
「足利義教はどうなったのですか?」
「義教は宴の最中に謀反を起こされ、見るも無残な死に方をしたことが知られているよ、呪詛の六年後のことだ。その後も何十年にもわたって京の都は戦乱と火に苦しめられた。」
「応仁の乱ですね…」
源内はキセルの中身を詰め替え、火をつけた。
「これだけじゃない、もう一人、延暦寺の修行僧を怒らせた天下人がいただろう?」
「―織田信長公ですか?信長公も京にいるとき、明智の謀反に討たれ、そのお身体は忽然と消えてしまったとか…信長公が寺ごと燃え尽きたのも呪詛なのでしょうか…?」
「信長公は延暦寺の焼き討ちをしている。元亀2年だね。あのときも京の鬼門にあたる延暦寺の修行僧たちが自ら根本中堂に火を放って焼死している。その10年ほど後に信長公も亡くなったわけだ。」
「定まったかに見えた織田の天下は覆り、また関ケ原で激しい戦が起きた…。」
鬼門を守るはずの修行僧たちは、時の権力に見切りをつけると自らに火を放って呪詛をしてきた…。その呪いを受けた天下人は決して生き延びられない…。
「なぜ、田沼様が狙われるのでしょうか?修行僧を弾圧したとは、ついぞ聞きませんが…」
「真秀は武蔵国の僧だ。武蔵国助郷一揆の恨みだろう。」
「そういえば、あそこでは苛烈な一揆狩りがあり、ずいぶんとたくさんの者が獄門にされたそうです…。」
源内はキセルから吸殻をポンと出すと、言った。
「江戸の町が終わっちゃ困るんだ。お二人さんにはしっかり働いてもらおうかね。」
(五)江戸屋敷、仁左衛門の正体
「ここから先は、こっちの世界とあっちの世界、両方で護衛をしないといけない。田沼の若殿様のために、地下廊を作ってもらったが、今度は地下だけじゃなくて地上で活躍してもらおうか、土竜殿。」
「はい!」
強い返事をする新之丞の横で、宇七はいまひとつ、気持ちが揺れていた。
「…心にかかることがございます。」
「へんに気を遣うところじゃないよ、言ってごらんなさいよ。」
宇七はちらと新之丞を見た。やめて下され、と、新之丞が口をパクパクと動かし、小さく首を横に振っている…えぇい、ここで嘘をついては後で後悔するだろう。
宇七は思い切って口火を切った。
「田沼様は、民のためを思い御政道を担っているのでしょうか?己が一族のため、勝ち組の商人どものために、弱い者をいじめてはおりませんでしょうか?」
新之丞は下を向いたまま身じろぎもせず、源内もキセルを咥えたまま驚いた顔をしている。
「あんたが本当に目にしたことかい?それとも、そういう話を誰かから聞いてそう思っているのかい?」
「…どちらも、でございます。田沼様が老中になられてすぐに、大火が起こりました。田沼様がご公儀で力を持たれるようになってからというもの、凶作や地震、一揆と、国がよく治まっているようには見えませぬ。」
「あたしはおそばに仕えていたから、この目で見て知っている話をしようじゃないか。」
「はっ。」
「田沼様はお会いすると拍子抜けするほどに、誰にでもお優しい。贅沢三昧をしていることもない。あの方からひどい処分を受けた家臣や使用人を、あたしは1人も知らないよ。」
「…そうとは知らず…噂では傲慢で賄賂好きと…」
「あの方はそんな方じゃない。低い身分から老中に昇りつめたことを
「…いったい、何をなさろうとしているのですか?」
源内はじぃっと宇七と新之丞の目を見た。
「これを聞いたら、あたしからはもう逃げられないよ。覚悟はいいのかい?」
「はっ。」
「本当のことを知ることが出来るのなら、それがしもお誓いいたす。」
「そうかい。それではまず、上方に行ってもらおう。堺にね。」
源内はポンポンとたばこ盆にキセルを打ち付けると、部屋の外に声をかけた。
「福助さんよ!」
福助さんとは、源内の身の回りを世話していた初老の男だろう。年のころは40後半だったか…?
「お呼びでございますか?」
部屋に入ってきたのは、宇七たちと同じぐらいに見える若い男だった。思っていた男とは別人か?
「部屋の外で聞いていた通りだ、これからこの二人を見張ってもらうよ。」
福助は二人に頭を下げた。
「福助さんはお目付け役だ。江戸屋敷の仁左衛門殿と同じだと思ってもらえばいい。いろいろと手伝ってくれるが、もし裏切ればそのときは…。わかるね?」
「…」
あの仁左衛門殿も、源内先生の手下であったとは…!宇七は頭を殴られたような衝撃に耐えていた。
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