第5話 蘭学者、平賀源内との出会い

(一)秩父御公領、三峰神社へ


大火の後の江戸はだった。


人足がどこからともなく湧いてきて、燃え残ったものをほんの数日でどかすと、たくさんの大工が集まりあっという間に雨露をしのげる屋根をかけ始めた。


家敷周辺のあまりにひどい焼けっぷりに、最初は声も出なかった宇七だったが、威勢の良い掛け声をかけながら材木を担いで現れる大工たちの姿に、希望と正気を取り戻した。


江戸の材木商人は、大火に備えて大量の材木を木場を流れる川に浸しているそうだ。江戸で火事が起こると、その材木は川から引き出され、大工たちによってあっという間に豪商や幕府要人たちの家屋敷に変わっていく。


江戸という町はつくづくたくましいし、おたねの言うとおり、江戸の大工は見上げたものだー女たちが憧れるのもわかる。


どこの藩邸も塀や出入門が焼けてしまい、町中の木戸門も燃えて番人が足りていなかった。江戸じゅうがまるで出入り自由になったようである。宇七は使い走りの隙をみて、こっそりと本郷や湯島の岡場所あたりに出かけてみた。


武家相手に商売していた岡場所にがいるかもしれない―


火事のあとの江戸は物騒になっている。以前のように侍相手の堤重などしていれば、道すがら野盗に襲われかねない。少し気を付けるように言ってやりたかった。


しかしおたねがどこの店にいるのかも、その店が残っているのかも、わからなかった。


生きていてくれ、と強く念じはするものの、美しかった江戸の変わり果てた様子を見るにつけ、おたねも死んでしまったのではないかという気がした。



幸いにも宇七たちが必死で泥を塗りたくった土蔵は無事で、中にしまっていた御家宝、書状も無傷で残った。上様とその奥方たちは土蔵に仮住まいを始め、以前よりも殿様との距離は縮まった。


こんなにお殿様のそばでお仕えしていると知れば、国の家族はびっくりするだろうなぁ…そう思いながら宇七は屋敷再建のための使い走りに奔走していた。



仁左衛門が改まって宇七と新之丞を呼び出したのは、ようやく江戸屋敷がそれらしい体裁に戻ったころである。暑い夏も終わり、肌寒くなりがけだった。


「両名に秩父三峰神社詣ちちぶみつみねじんじゃもうでの命が下りておる。再建したお屋敷の火除けを祈願する、大切なお役目である。すぐに出立するように。」


仁左衛門は一通の書状と、江戸城下絵図を差し出した。


「新之丞、これを持って行くように。」

「はっ。」


江戸城下絵図は用事で使いに出るときなどに、道に迷わないように持たされる地図で、とくに珍しいものではない。江戸城を中心に、大名屋敷、武家屋敷、寺社仏閣などが描かれている。


新之丞とともに返事をして頭は下げたものの、宇七はぴんとこない。謎だらけだ。


―なぜ神社祈願、なぜ三峰山、なぜ新之丞と俺が?そして、秩父に行くというのに、なぜ江戸の地図を持たされるのか?


もとより身軽な身分の二人は、用意というほどの物もない。すぐに秩父への旅路に出た。



(二)老中田沼意次の出世の極意


中山道を行く新之丞の歩みが、速い。宇七も脚力には自信があるが、新之丞の足取りはまるで羽根が生えた飛蝗ばったが跳ぶようだ。


「新之丞どの、このたび向かう三峰神社とはいかなるところでしょうか?」

「火除けと盗賊除けの守り神さまです。」

「そこです。火除けであれば京の愛宕山に行くものだと思っておりました。」


新之丞は目を見開いて宇七に問いかけた。


「三峰山の辺りは大滝といい、秩父御公領 です。あそこに今、どなたがおるか、ご存知ですか?」

「いいえ、存じません。」

「当代一の蘭学者、平賀源内先生が、ご公儀のための鉱山開きをなさっているのですよ!」

「つまり―」

「そうです、私どもは田沼様の特別なお手配により、三峰神社参りの体で、平賀先生とのご面会の機会を頂いたのです!」


新之丞はそう言うと、また飛ぶように歩き出す。


この旅は奇妙だった―江戸を離れるほどに、今は変わり果ててしまった江戸の町並みや日常が戻ってくる。


「江戸市中はひどい有様となりましたが、江戸から少し歩けば懐かしい町並みがそのまま残っていますな。」

「まことに。なんと小江戸の美しいさまよ…。」


川越の宿で、宇七と新之丞は茶屋に入った。

茶と団子を所望した宇七は、茶屋女が差し出した牡丹餅をひと口食べ、はてと首をかしげた。この味はおたねのー⁉


宇七は立ち上がると、店の奥を覗き込んだ。


「お侍さま、お手洗ちょうずはこっちじゃないよ!」

「この団子を作ったのは?若い娘ではないか?」

「いや、違いますね。近所の菓子屋が持ってくるもんで。」

「その菓子屋はどこに―?」

「一日に一度しか売りに来ないんで。土産にしたいなら、持ってくる親爺に言えば都合してくれるでしょう。」


―間違いない、きっとだ!使いを終えたら、必ず会いに行く―


それが本当におたねの牡丹餅かはわからないが、宇七はおたねを探し当てられそうな予感で有頂天になった。



秋にさしかかった秩父への巡礼路はすがすがしく美しく、とりわけ月明かりで見る武甲山の女神のような佇まいには時を忘れて眺め入った。


「御老中田沼様は、いかにして位を極められたのですか?」


宇七は美しい月光にそぐわぬ、少々下世話な質問をしたが、新之丞は咎めるでもなく淡々と答えた。


「大奥や官僚を手なずける飴も、政敵を葬る鞭も、どちらもお持ちのかたです。」

「大奥に賄賂ですか?」

「皆やっていることです。田沼さまはもともと、大奥と表、両方に出入りできる中奥勤めの御小姓でした。そこで人脈を作られたのでしょう。」


「なるほど、大奥に人脈が作れる侍、というか男は限られておりますな。」

「それに若い頃は美男であられたとの噂です。」

「なるほど、息子の意正さまもしゅっとなさっておられましたな。」

「ええ。」


新之丞は諸藩や御公儀の事情に詳しいようだ。村から召し出されてより土ばかり掘っていた宇七は、この旅の間に聞いておきたいことがたくさんあった。


「意正様は、田沼家ご四男ということであれば、お世継ぎとは言い難く、命まで狙われますでしょうか?」


「田沼家は今をときめくとはいえ、まだ後ろ盾少なく、お子たちの縁組で老中派閥の結縁を進めています。ここだけの話ですが―水野家の八重姫様と意正様は、ご縁組みのお話が進んでいるようでございます。まぁ、仁左衛門様に口止めされておるわけでもない、噂話でございます。」


すべてに合点がいった。


水野家が存続にかかわる隠密行動をとってまで、田沼意正公を守ろうとするのは、そういうことか。



(三)吉宗と意次と水野家


「御老中の田沼様は旗本出の側用人ですが、出自は足軽であろうとの噂です。それをお隠しにもなりません。」

「そうなのですか…それほど身分の低い方が、ご公儀を動かしているとは…」


「吉宗公の将軍即位で、ご時世が大きく変わったのですよ。役人の登用も実力次第です。もはや大きな声で言う者はいませんが、もとは吉宗公も紀州藩の部屋住みで、紀州藩の役人をなさっていました。葛野藩三万石の大名とはいえ、お城もなく、主税頭頼方朝臣ちからのかみよりかたあそんとして紀州で内向きのお勤めをしていたのです。流行り病で徳川宗家や、紀州藩の跡継ぎ様が次々と亡くなり、四男の吉宗公が紀州藩主を継ぎ、やがて公方様になられたのです。」


「そうですか…当家、水野家は、やはりそういった流れで破格の出世をしたのでしょうか?」

「水野の上様が大名になられたのはほんの数年前。もとは旗本の子として生まれた方です。」

「なるほど、実力でのし上がったのですな?」


しかし、この話には裏があります、と新之丞は言う。


「もともと、水野家は家康公の母、於大さまの御実家です。さる事情があり大名を改易されたのですが、忠友公の代で将軍様のご学友である、御伽衆おとぎしゅうとして召し出されました。水野の上様と田沼様は干支一回りも年は違いましたが、田沼様は上様に経済の才があることに気付いて、目をかけられ、ご公儀の奥向きの御用に取り立てていかれました。側用人そばようにんとして頭角を顕し、数年前からは幕府の財布を預かる御勝手掛おかってがかりになるほど、破格の出世をなさいました。」


お勝手掛は天下のお金に手を突っ込んでいるようなもので、利権の中枢だ。ふつうは老中首座が兼任と決まっているが、田沼公は老中首座の松井松平公に話をつけ、水野忠友公に財政を任せたという。


「老中首座の殿様も、それでは黙っておりませんでしょう?」

「そこが田沼様の周到なところ、老中首座の松井松平様のお姫様は、田沼家のご長男意知おきとも公の許嫁ですから、喧嘩にはならないのでございます。」


まことに周到、田沼意次とは先を見るのが得意な戦略家のようだ。


「なるほど、田沼様は当家の大恩人なのですな。」

「左様です。水野の上様の有能さにくわえ、名門譜代の出自であられることを大いに評価なさったのでしょう。」


宇七はずっと引っかかっていたことを、思い切って吐き出した。


「良い政治まつりごとをしているなら、なぜこれほどに民が苦しみ、一揆が立て続けに起こるのでしょう?」


しばらく、二人は気まずい沈黙の中で座っていた。


「宇七どの、今の世の中は数十年かけて作られたものです。今、田沼様や水野の上様が働かれておることは、また我々の子や孫の代でしか語れないでしょう。わたくしは、そう思います。」


新之丞のようなしっかりした侍がいることが、水野家や田沼公にとって、いや、世の中にとって頼もしいことだ、と宇七は思った。



(四)憧れの源内先生


三峰神社はまさに霊峰だった。冷気が山肌の木々から立ち上り風に泳ぐさまは、さながら山体が全身霊気を吐いているようだ。


今まで周囲の大きな思惑に振り回されるだけだった宇七だが、石切の村を出てはるばる旅してきたのは、この霊山に辿り着くためだったように思えた。


それにしても険しい修験道を行くのに、新之丞の歩みが少々速すぎる


憧れの平賀源内に会える、と新之丞は天にも昇る心地のため、宇七が何を話しても右から左である。天狗が出ても驚かないに違いない。


「新之丞どの、それあそこの斜面に大きな狼が。」

「三峰神社は狼神をお祀りしておりますから、神様でしょう。恐れるには足りません。」

「しかし、牙を剝いておりますが?」

「一匹で二人を殺して食うのは難しいでしょう。」

「…噛み様かみさまでないよう祈りますよ…」



三峰神社は険しい三峰山の山頂にあったが、巡礼者でにぎわっていた。大火の後でもあり、火伏せ祈願の寺社仏閣はどこも大盛況なのだという。


そして三峰神社の大きな鳥居の両脇には、小ぶりな鳥居が一つづひっついていた。


「新之丞どの…この変わった形の鳥居は…」

「おぉ!これが音に聞く、三鳥居ですな。えぇ…まずは真ん中のに入り、左のをくぐり、また真ん中にもどり、右のをくぐる…最後にまた伊勢をくぐって三峰にもどり、参道を進むのだそうです。」

「左、右、左ですか。目が廻りそうですな!」


書付けを読んでいた新之丞があっ、と声をあげる。


「狛犬様が、狼でございます…!」

「いろいろと初めて目にするものばかりですなぁ。」


二人は三鳥居をぐるぐるとくぐり、境内に入った。驚くほどたくさん小さな祠が並んでおり、そのひとつひとつが由緒ある神社を分祀した摂末社というそうだ。


観音様の御影札を持っている参拝者に聞いたところ、秩父札所ふだしょ巡りといわれる、三十四所観音霊場にも巡礼したのだという。


祈祷を受け火除け盗賊除けの守護札を授かると、ようやくほっと一息ついた。


「これで御勤めは果たしましたな。」

「あぁ、さすがに歩き疲れました。」

「秘境の大社には、さすがに門前茶屋らしきものはありませんな。」


そうぼやいた宇七の後ろからよく通る声がした。


「あたしの庵で狭山茶でもおよびしますよ。」



(五)蘭学者平賀源内


振り返るとそこには年のころ四十ばかりの、艶やかな雰囲気をした男が立っていた。宇七と新之丞はすぐさまそれが平賀源内だとわかった。


「いらっしゃい。お待ちしておりましたよ、土竜もぐら殿。」

「え…もぐら?」

「江戸より土竜二匹参り候、よろしくたのむとね。お手柄でしたな、よくあれほど長い地下廊を掘り上げたもんだ。」

「ご存知ですか?」

「そりゃそうだ、あたしが考えたんだからね。」


源内は高松藩の出と聞くが、上方役者のような口調でさらりと言った。


「源内先生の考えられたことだったのですね!道理で奇妙奇天烈でございます!」

「おや、褒めてくれるのかい。」


源内は新之丞の崇拝ぶりを面白がっているらしい。袂に手を入れて、けらけらと笑う。


源内の庵に向かう3人は、江戸より一足早い紅葉と清流とに彩られた半日の道中を楽しんだ。


「お二人ともごらんなさい、この切り立った土屏風いちめんに、海の中にいるはずの貝殻がたくさんいるよ。」


新之丞が土手に近寄って目をこらす。


「…まるで海の中のようですね。」

「この山はむかし海だったのさ。ほらあそこ、地層が横から縦に曲がって走っているだろう?」

「左様ですな!これは奇なり!」

「なぜだろうね?」


試すような源内の口調に、宇七は思い付きを答えた。


「…地面が奥深くから押し上げられたのでしょうか?」

「そのとおり。なかなか筋が良いね。このあたりの土地は地脈が強い。いろんなものが噴き出しているから、そんじゅうそこらじゃ見られないものだらけだ。」

「このように源内殿みずから案内くださるとは…恐悦至極にございます。」

「古い言葉を使うね、そういうおべっかは殿様にでもお使いなさいな。」


源内は新之丞がまとわりつくのを、楽しそうにあしらっている。


「秩父にはもう長いのですか?」

「そうだね。この秩父と江戸を行ったり来たり、働き盛りの十年ほどを過ごしたかね。ここは銅、金、薔薇石、水晶、クジャク石、なんでも出るところさ。あたしはここで石綿をみつけて燃えない布を作ったりもしている。」

「燃えない布…かぐや姫が求めた宝ですか!ほんとうにあるのですね⁉」


新之丞は感心するばかりだ…

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