第4話 江戸の三大大火「目黒行人坂の大火」

(一)中山道傳馬騒動


遊山から戻ってしばらくのあいだ、宇七は江戸の遊び人たちを何度も思い出した。まるで雑草のように勝手に気ままに美しく生い繁る江戸の町を、心に刻んでおきたかった。


しかし、どう言えばいいのだろう、江戸の市井に漂う空気は、あまり好きではなかった。


ちょっと前に上手い陣取りをした侍や商人は得を重ねて富んでゆき、逆に陣取りに失敗した連中は、広がる貧富の差を指をくわえて眺めているような―そういう空気だ。


江戸市中では身の程を知らぬ放埓ほうらつがはびこり、江戸の外では絶え間ない一揆が暴発を繰り返している…それがこのところの世情だ。



江戸五街道のひとつ、中山道なかせんどうでは、島原の乱以来といわれる大一揆が起きた。明和元年(1764年)の年末から、翌明和2年の正月のことである。


中山道は江戸の町にとって交通と守備のかなめであり、参勤交代はもちろん、京の朝廷との往来、朝鮮通信使の外交における通り道としても利用される。そんな幕府の大動脈を支える村々が、一揆を起こしたのだ。世を揺るがす大反乱だった。


中山道伝馬騒動なかせんどうでんまそうどうという。


中心地となった熊谷、前橋あたりはご公領の村々で、宿場町を支える助郷という制度のために、長年にわたり人馬を供出していた。


熊谷、前橋のある武蔵国は豊かな土地だが、夏は暑く冬は寒く、大雨が降れば利根川が暴れまわる。助郷のためにほとんど無償で人馬を差し出しながら暮らすのは過酷だ。


一揆は空前の規模に広がり、鎮圧に失敗すれば江戸幕府が倒れる可能性すらあったが、幕府は総力を挙げ、2ヵ月という短期間で鎮圧に成功した。蜂起した民の数は二十万ともいわれ、処罰された者の数も多かった。拷問、獄門など、処刑の犠牲者は四百人にも上るといわれる。庄屋、組頭、百姓代、加勢した村役人たちまで処罰され、村は骨抜きとなったという。


江戸を一歩出れば、そこには明日の飯も食えず家族離散する村々がある。村を逃げ出して江戸に流れ込む者も増えている。


江戸で粋を気取る豊かな町人や、江戸藩邸でたむろする閑な若侍の体たらくを見れば、なぜ一握りがこんなに豊かで楽でいい思いをできるのか、なぜそれを我々が支えなくてはならんのか、と思うだろう。


―あれじゃ、気の毒なことだった。


宇七はこの一揆が起きた頃、そろそろ分別がつくぐらいの年だった。この話を伝え聞いたときには、同じご公領の民として同情を禁じえなかったものだ。



(二)目黒大円寺に武蔵国の刺客あらわる


ある早春の日、めずらしく宇七は不満を漏らした。


「新之丞どの、この道はどこに向かっているのでしょうか?」

「…私からそれをお伝えするわけには、まいりませぬ。」

「これは失礼をいたした。」


宇七は黙って作業を続ける。このところ宇七の気分は塞ぎ気味だ。かつては掘るのに疲れると、大好きなのことを考えていた。だが、もう二度と会えない女のことを思い出すと、せつないばかりだ。


見かねた新之丞は独り言のようにつぶやいた。


「しかし―もう隠密行動の終わりもそう遠くはないかと―」


やがて春の気配はあたたかな日差しとなり、江戸屋敷に植えられた数本の梅が満開を迎えた。宇七はそれまで花にこれほど心を動かされたことはなかった。恋する男の物思いである。


しかし春の花嵐は、容赦なく満開の梅を吹き散らす。


ーせっかく出会った花が、もう去ってしまう。


国元に戻れない春なら、せめて噂に聞く飛鳥山で桜見物できればなぁ…散る梅を眺めながらぼんやりと宇七は思った。


だがこの花嵐は桜を散らすだけではない。江戸に災厄を運んでくる嵐だった。


目黒にある大円寺には、ある覚悟を秘めた男が一夜の宿を求めていた。どこにも属さぬ無宿の身、ということになっていたが、武蔵国熊谷の僧である。


熊谷と言えば、中山道一揆の中心地だ。


幕府の粛清は厳しく、働き盛りの男たちを多数失った村では家財も売りつくし、その困窮につけ込んだ人買いが、子供の品定めに家々を回るようになっていた。


中山道の一揆はやむにやまれぬ一揆だった。そもそも江戸の商売人が引き起こしたようなものだ。


助郷村は長年にわたり、幕府に参勤交代の人馬を供出してきた。それは大きな負担ではあったが、村と役人との話し合いにより、ぎりぎりの負担で折り合っていた。しかし幕府は助郷村との折衝を、商人に頼るようになった。


とうぜん、商人連中は調子づいた。


助郷村の限界を超える人馬の供出を幕府に吹き込み、馬の手配をする宿場問屋を抱き込み、そして助郷村を脅した。決められた人馬の供出が無理なら、自分たちの息のかかった宿場問屋に銭を払え、と。


商人がさらなる負担を押し付けたとき、助郷村はもう限界だった。参勤交代で宿場が混むのは春、田植えも春。百姓の身体がいくつあっても足りない。


僧は、庫裏くりやで手伝うふりをし、火のついた薪の上から一気に油を注いだ。やがて庫裏は煙を上げ、強い春の南風は紅の炎を空に舞いあげた。



(三)日本橋炎上


日本橋が燃えている―。


江戸の火事の多さに慣れた人々は、その早馬の声が聞こえるまでに「きな臭い、どこかが燃えているね」と噂していた。またいつもの火事だね、という程度だ。


慌て始めたのは日本橋にいた町人連中が、神田明神を超え、本郷になだれ込んできたときだ。江戸で大火が起こるときには、火が燃え広がるより先に血相を変えた群衆が路上に現れるが、北へ北へと道を行く群衆の数は今までの比ではなかった。



家敷でも仁左衛門はきびきびと指示を出し始めた。武家屋敷における土蔵は、火事の時には防火金庫の役割をする。


「ご家宝、書状、上様や御老中の身の回りのものを、土蔵に入れろ。こら、そちらは蔵の中が発火せぬように水を汲め!二人一組となり大桶に水を汲み、土蔵の四隅と中心に置くのじゃ!」


桶を置いて、土蔵の門扉を閉めかけたところで、仁左衛門が引き止める。


「待て待て。」


仁左衛門が再び扉を開け、中に残っていた者たちを引きずり出す。


「何をしておる。馬鹿者が!早う出んか。」

「われらが中で御蔵の見張り番を仕ります。」

「土蔵の中は火にあぶられて地獄責めのようになるぞ。蒸し焼きになる。誰も残ってはならん!…宇七郎と新之丞、土と水を混ぜてやわらかい泥団子を作って、土蔵のあらゆる隙間を塞げ。」


宇七たちは仁左衛門のいう通りに泥団子をつくり、固く扉を閉じた土蔵の窓や扉の隙間に詰め込んだ。これで土蔵の中に火の粉や熱風が吹き込むことを防ぐことができる。


「よし、お屋敷を守る者以外は火の出ている方向と逆を探して逃げよ。」


宇七と新之丞が次の指示を待っていると、仁左衛門は驚くことを言った。


「宇七郎、新之丞、お前たちは、身を浄めて裃を着て来い。」

「はっ!」


―この一大事に何を言っているのだろう?


あっけにとられる宇七を尻目に、新之丞が駆け出した。宇七もつられて用意に駆け出す。そして閃いた。


―もしかして、あの地下道は、殿様が大火から避難する道なのか?



(四)明かされる地下廊の秘密


宇七は仁左衛門に言われるままに身を浄め、着物を着替えた。


「宇七はつるはしを持って、新之丞は太刀をはいて、穴の中に行くのじゃ。これからお会いする方は、お前たちが今までお会いした中でもっとも身分の高い方の若君である。粗相のないようにお守りするのだぞ。」

「仁左衛門どのは、どうなさるのですか?」


仁左衛門は一抱えの荷を新之丞の背に括り付けながら言った。


「わしはお屋敷の守りの殿しんがりを勤める。心配するな。早く、これを持って行きお役立てするのだ。」


宇七はつるはしを、新之丞は渡された行李と太刀を携えて地下へと降りていく。地下道を走り出した宇七からは、堰を切ったように言葉が出る。


「新之丞どの、今日こそはお話しくだされ!この穴は何のために、そして我らはどなたをお守りするのですか?」

「おう、ようやくこの日がやってまいりましたね!」


小走りに地下道を走る新之丞は、少し息を切らしながら説明を続けた。


「我らはご公儀の要職にあられる、田沼意次公とそのご子息をお守りするための隠密行動をしておったのでございます!」



新之丞の説明によると、老中田沼意次たぬまおきつぐは徳川吉宗公の頃より将軍家に仕えている。いずれの将軍からも御覚えめでたく、たった一代で老中にまで上り詰めたため、敵が多い。その暗殺計画は近頃になって冗談ではない現実味を帯びている。


老中意次おきつぐとその長子の意知おきともは、すでにご公儀を支える立場なのでなかなか手出しできない。しかし四男の意正おきまさは十三歳。動乱に乗じた闇討ち計画があるらしいのだが、大袈裟な護衛はつけられない。


このため、伊豆のご公領から地下道を掘るのに長けた宇七を呼び寄せ、避難のための地下道を隠密に掘った…というのが新之丞の説明だった。



宇七たちは自分たちが掘った長い長い通路を奥へと進んでいった。穴の奥は以前に立ち去ったときのままだった。


「ここで待つのでしょうか。」

「どんどん掘ってください、あちらからも掘り進めておるはずです。合流地点は、私と宇七郎どのが出会った穴のところです。この先は田沼様の神田邸と繋がるはずです。」


宇七は奥の壁を堀り始めた。裃姿でつるはしを振るう。


しばらく掘ると静かな土の中で、かすかな音がし始めた。誰か、別の者があちらからも土を掘っている。こちらから掘り、あちらから掘り、土壁には穴が開き始めた。


ほどなく開いた穴から、つるはしを持った小姓と若侍が現れた。宇七は仁左衛門の言葉を思い出し、つるはしを置き、深く頭を下げた。新之丞もぐっと深く礼をした。


「大儀であるっ!」


まだ声変わりしたばかりと思しき、幼い小姓がもっともらしく言う。若様からも声がかかる。


「大火の折である、顔を上げてくだされ。」


意正おきまさ公だ。宇七は顔を上げた。しゅっと背が高く、育ちが良さそうな若様である。



(五)田沼家の御曹司


新之丞がすっと前に進み出た。


「上様、上屋敷は付近まで火が迫っております。中屋敷に案内あないいたします。」

「うむ、よろしく頼む。」


新之丞は先頭に立って進んで行く。しばらくすると少し広い空間に出た。


「こちらにてお休みくださいませ。もし中屋敷が無事なら、あちらからここにたどり着くはずです。どうぞこれをご利用くださいませ。」


新之丞は仁左衛門から託された行李を差し出し、小姓がそれを受け取った。中には朱塗りの瓢箪、敷もの、干菓子など、少しのあいだをしのげる急場の用意が入っていた。


「気が利いておられるな。かたじけない。そちらにはないのか?」


黙って頭を下げる宇七と新之丞に、意正おきまさ公は少し気兼ねしているようだった。


「江戸の大火は三日燃えたという記録もございます。なにとぞ上様がお使いくださいますよう。」


新之丞は凛として笑顔を見せた。


「うむ。そなたは?」

「久石新之丞でございます。」

「そうか。新之丞どの、江戸では何をしておられる?」

「蘭学を志しておりまする。」


「そうか、蘭学者の卵だな。そちらは?」

「工藤宇七郎にございます。」

「宇七郎どのも、蘭学者か?」


宇七は答えに困る。俺は穴掘り以外、何もしていない。志も定まっていない。新之丞だって穴ばかり掘っていたが、蘭学を志しているのは本当だ。


「御両名のこのたびの働きには痛み入る。無事に大火をくぐりぬけて父と懇意の蘭学者を引き合わせよう。」


意正おきまさ公は宇七よりもはるかに若いが、立場のある若様とは、なかなか大したものだ。自分のために働いてくれたものへの声のかけ方を知っている。



いっぽう地上の大火は荒れ狂っていた。


火は目黒行人坂の大円寺から始まり、南西風に乗って北東へと一直線に燃え広がって行った。江戸城の東側2/3を焼き、日本橋の商家を焼き払い、上野寛永寺、浅草浅草寺、北は千住に迫るところまで燃え続け、中山道沿いに北西へと広がった火は護国寺をはるかに超え、池袋村の沼地でようやく止まった。


江戸城周辺に屋敷を構えていた親藩、譜代大名、有力旗本の武家屋敷も容赦なく灰燼と帰した。神田から本郷、小石川の武家屋敷も焼け、伝通院の少し手前で火はようやく消し止められた。


逃げ遅れた町人や武士は数知れなかった。わかっているだけで死者は1万5000人、行方不明者は4000人、あわせて2万人近くが被害にあったといわれている。


不気味なのはいったん火が収まったあとに、火の気がなかった辺りで何度も火が燃え広がったことだ。火元である目黒の大円寺に火付けした主犯は捕まったが、ほかにも混乱につけこんで火を放ったり狼藉をした悪人がいたことは容易に想像できた。


今をときめく老中の田沼意次の屋敷も炎上、跡形もなく燃え尽きた。

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