第3話 蘭学者の卵、新之丞との出会い
(一)ある夏の日の幽霊
長雨が明けて、宇七はまた地下にこもって掘りに掘り進む日々が始まった。
江戸の夏はうだるように暑い。しかし宇七がこもる地下はひんやりとして居心地は悪くなく、狭くて暑い屋敷に詰めるほかの連中よりは、よほどましだった。
最近は崩落を怖がった侍が寄り付かないので、掘り進む作業中は誰の指図も受けない。宇七は掘っては休み、ときには土壁にもたれて涼しく居眠りもした。
けだるい盛暑の午後、それは起こった。
坑道の中に、カラカラ、カラカラ、と土くれの転がる音がする。宇七は飛び起きた。
カラカラという軽い音はガラガラ、と大きな土くれの落ちる音に変わった。ガラガラガラガラと、音がどんどん大きくなる。
―崩落する…!
宇七は出口めがけて一目散に駆け出した。いったい、どこでしくじったのか?どこが崩れたんだ?
このまま駆け抜ければ助かるかもしれないと足を速めた矢先、どばっと土くれが落ちる音と同時に誰かが、あぁっと後方で叫んだ。
ー誰だ?
置いていくわけにもいくまい。宇七は舌打ちをして引き返した。
声がした辺りの土壁には、ぽっかり穴が開いていた。その向こうに見えたのは若い侍の幽霊だった。瘦せ細り、精気のない疲れ切った顔。宇七の二の腕から背中までをゾゾっと冷たいものが走った。
―とうとう出たか。土中の骸骨を粗末に扱ったから、いつか化けて出るだろうとは思っていたが…。
宇七と幽霊はしばらく見合っていた。どちらも凍り付くように相手を見ながら一歩も動かない。暗い中を、ちろちろと揺らぐ蝋燭の光が怪しく泳ぐ。
しばらくにらみ合って最初の恐怖が薄らぐと、理性が助けて鼻が利き始める。幽霊からは酸えた汗とかすかな小便の臭いがしてきた。
―まさかこいつは人間ではないか?
だが屋敷では一度も見たことがない顔だ。ということは他藩の侍か?宇七が従事している地下道掘削は、隠密行動である。他の誰かと出会うのはあり得ない。
というか、許されない。
―俺が侍なら、この男をこの場で討ち取ってしまうんだろうなぁ。
討ち取る、という方法を思いついた宇七は、思わず後ずさりし、出口めがけて脱兎の勢いで走り出した。
ーまずい、こっちが殺られるぞ!
ピタピタピタともう一人の男が走り出す音が響いた。やはり追いかけられている、追いつかれたらこちらが殺される。
出口の光が見えた。地下道から出るときは用心しないと太陽の光で目がつぶれる。それでも命には代えられん。
宇七は坑道から勢いよく飛び出した。
(二)乱心にて押込、切腹の危機?
宇七と老仁左衛門は昼でも陽の当たらない、じめついた一角にいた。ここは江戸詰めのあいだに問題を起こしたものが処分を待ったり、場合によっては腹を切るための小部屋だ。座敷牢ともいう。
「何事だ。決められた刻に迎えが来て身なりを終えるまで、穴の外には出ないはずだ。あの泥だらけの姿で駆けずり回られては困るのだ。腹を切らされるぞ。」
「はっ。申し訳ございません。」
言うべきか。言わざるべきか。お家を挙げての隠密計画が漏れてしまえば、関係者の腹切りはおろか、お取り潰しになろう。宇七は意を決した。
「穴の中で、おそらく他藩の者と、鉢合わせいたしました。」
「なに。そうか。」
仁左衛門は驚かない。
「若い侍で、当邸では見かけぬ顔かと。」
「ふむ。まだ皆の顔を覚えてはおらぬのに軽々なことを言うな。呼び出しなく穴の外に出た言い訳にはならん。今回のお沙汰が下るまでしばらくここでおとなしくしておれ。」
仁左衛門はそそくさと立ち去って行った。
―どういうことだ?
宇七は腑に落ちなかったが、このかび臭い部屋でおとなしくしているほかなかった。宇七の座敷牢生活は丸一ヵ月続くこととなった。表向きは「乱心にて
押込を解かれた宇七が最初に驚いたのは、あの若い侍が仁左衛門と共に行動していることだった。
しばらく考えると、宇七もだんだん呑み込めてきた。
あの穴はどこか知られたくない場所と当邸を繋ぐための地下道。間違えて地上に顔を出しては危険なため、目標地点からも同時に掘削を始めて地中で合流したのだ。
若侍のくたびれ方からいって、宇七よりもよほど長いこと掘り進めてきたに違いない。計画の全容を知っていたのだろうか?
―自分と鉢合わせたときのあの顔を思い返すと、そうも思えないが。
そうこうするうちに、宇七は新たな坑道堀りをするように命じられた…こんどは、あの若侍と一緒に、だ。
(三)仁左衛門の江戸遊山
老仁左衛門から遊山の誘いを受けたのは新たな坑道堀りが始まってすぐだった。あの若侍も一緒だ。
それは上野の寛永寺参りだったが、仁左衛門は日がな一日遊ぶつもりらしく、わざと遠回りしてぶらぶらと歩き廻った。
ー季節も良く、空気がうまい!
ふだんはあまり盛り場に出ない宇七にとって、遊び浮かれる江戸っ子の様子は目を見張るばかりだった。
浮世絵の助六さながら、若い細身の色男どもが赤と黒の着物を着こみ、鉢巻をして闊歩する。娘どもの着物も目を見張るあでやかさで帯ときたら絹ではないか?
ーお上は倹約令と言いながら、庶民が絹を身に着けても取り締まらないのだろうか?
宇七は自分が江戸生まれの職人―大工か鳶としてこの風俗に染まって生きていたら、どんなだろうかと思いを巡らせた。日々稼いで酒を呑み、洒落たふうな着物を着こなし、芝居小屋に通い、うわさに聞く吉原で評判の美人を拝む…。
「ほれ、そこじゃ。」
そのとき、先頭を行く仁左衛門が指さした先には、切り石の石垣があった。
「これは―。」
ただの石だが、石切が見ればそれは自分の土地の石か、そうではないか、一目瞭然だ。どんな仕事をしているかもわかる。
長年の風雪に耐えてまだ角が欠けていないのは、良い仕事の証拠である。ただ切れば良いと見極めなく叩き割れば、良い石でもひび割れやすくなる。ここの石は切り取るときに確かな目利きがしてあった。
「お国の石だ。江戸普請で運ばれてきて長年ここでこうして役立っておる。おぬしの村の誇りじゃ。」
老仁左衛門のねぎらいに、宇七は思わず涙が流れた。隣を見ると若侍も、もらい泣きしている。
―あちらも相当に苦労しているのだなぁ。自分はもとより石切だが、あちらは侍。剣の代わりにつるはしを振るうつもりはなかろうに。
ほかの江戸詰め侍たちがのんべんだらりと江戸暮らしのなか、宇七と若侍はせっせと穴を掘り続けている。
若侍と宇七はふだんはほとんど口をきかない。この隠密行動はそれぞれの使命を全うするに足りるぎりぎりの指示しか出されないから、自然と口数も減り、身の上話のような面倒なこともあえてしない。
しかし、今日はなんだか、この男と話をしてみたい気がした。
仁左衛門は料理茶屋に宇七と若侍を並べて酒をふるまった。酒肴に鰻の白焼きが運ばれてきた。
「宇七郎。新之丞。ぞんぶんにこの茶屋の名物ーうなぎを食うがいい。精がついて、気が満ちるぞ。この仁左衛門、へそくりをたくさん持参した。」
「…なんと香ばしい…」
「あぁ、もうたまりませぬ!」
おとなしくしていた新之丞が、珍しく感情を露わにした。仁左衛門は笑って言う。
「はよう、食え。熱いうちに。」
それは大きな鰻だったが、宇七はあまりの旨さに箸が止まらなくなった。新之丞はひと口、ほおばるごとに顔をしかめる。あまりの旨さに作法も吹っ飛んだようだ。
「…こんな旨いものが、この世にあるとは…」
「鰻は旨いが、それだけでは少し臭い。この鰻を存分に楽しむためには備長炭という、質の良い炭が必要なのじゃ。」
「備長炭。」
「さよう、備長炭は公方さまとご老中の田沼様の出身地、紀州の名産品。つまり、みなは鰻を食べて喜んで紀州藩にお布施をしているわけじゃな。」
「なんと、頭の良い!」
「そのとおり。」
帰り際に仁左衛門は、上野名物の漬物まで買ってくれた。
「このような結構なものを…」
「疲れたら漬物の塩は、薬じゃ。」
もとより腰が低く面倒見の良い
「おぬしらの働きはこの仁左衛門がしかと覚えておる。目先では納得のゆかんこともあるだろう。だがお家にはよく尽くせよ。」
「はい!」
宇七と新之丞は久しぶりに、いい目をしていた。
(四)新之丞、蘭学と源内を語る
新之丞は侍にしては筋が良い。
宇七がつるはしを振り下ろして土を砕く、新之丞はするすると脇によけてその土をどかす。宇七が疲れてくると、わたくしが、と前に出てつるはしを使い始める。我の強さがなく、かといって、ずるけようということもない。狭い坑内ではありがたい、きわめて働きやすい性格だ。
宇七のなかで新之丞への親近感が生まれていたが、それを伝えるのはなかなか難しかった。
二人きりで掘り進むときを見計らい、宇七は勇気をふるって新之丞の背中に話しかけた。
「鰻とは―」
返事をしてもらえるかなぁ、と思いながら、宇七は続けた。
「旨いものですなぁ。」
新之丞は振り返るとうん、と頷いた。
「左様ですな。私もあれほど旨いのは初めてです。」
しばらくは鰻談義をする。しまらない話題だったが、江戸で身分を偽る宇七にはめったにない、嘘のない会話だった。つい宇七の口が滑った。
「新之丞どのは、何を励みにお勤めしているのですか?」
「私ですか…お家に選んで頂いた
新之丞が言っている学問は、寺子屋では習わない、未知のものだった。
「浅学にて聞き覚えなく、それはどのようなものですか?」
「蘭学は公方様が奨励なさっている異国の学問です。ありとあらゆる学問が、この国とは違う言葉と体系で記されておるそうです。」
宇七も必死に知識を掘り返すが、どうやらまったく話が噛み合わない。
「…論語のようなものでございますか?」
「国が違いますな。論語は
それから新之丞は蘭学について熱く語り出した。小石川御薬園で育てられる外来の薬草や苗、鉱床開発など…蘭学の可能性を語る新之丞の話に、宇七は感嘆して言った。
「新之丞どのは、もう江戸でどなたか師について蘭学を学んでおられるのですか?」
新之丞は恥ずかしそうに言った。
「いや、まだです。しかし師事したいと憧れる方 はいます。平賀源内先生とおっしゃり、奉公先のお家を出て一介の蘭学者となり、自らの学問であちこちで名を成しています。御老中のご信頼も厚く、国中を旅してはご公儀のために金山銀山を掘り当てているのです。鰻を江戸で流行らせたのも、その方なのですよ。」
「なんと!薬草も医学も鉱山も分かるうえ、料理茶屋にも詳しいのですか。」
「福内鬼外という名で浄瑠璃も書くので、清元の名人や芝居小屋の看板役者たちとも懇意だとか。」
「なんという多才でしょうな。ひとりの人間の仕業とは思えないが…私も会ってみたいなぁ。」
宇七がそう言うと、まるで自分の身内を褒められたように新之丞は嬉しそうに笑った。
ー新之丞どのは、今はただ江戸の土中を掘っているが、ご公儀のために鉱山開発をしたいと思っているのか―
日々の仕事をこなす以上のことを考えられなかった宇七だったが、なんとなく夢があっていいなぁ、と思った。
(五)一族に伝わる人柱伝説
「宇七郎どのは、どのようないきさつで、この隠密行動を?」
「俺…わたくしですか?」
ー俺は、村と一族の人柱だよ。
宇七は口から本音が滑り出さぬよう、必死にこらえた。
宇七の村からは伊豆石が出る。城の石垣にも使われる最上品だ。このため村は幕府のご公領として、有力な旗本や紀州徳川家の指示を受けてきた。宇七の父は苗字帯刀も許されており、宇七の兄弟もみな寺子屋でそろばんと読み書きを学ばされた。職人と武士の、ちょうどあいだぐらいの立ち位置だ。
しかし、村には伝説があった。何代かに一度、石切の一族は人柱を出すのだ。
たとえば乱世の城普請に関わった石切は、城の造りを知り過ぎたので家に帰れなかった。人柱となって今でも石垣に入っている。
…もう廃れたと思われた伝説は、宇七の前に亡霊のように立ちはだかる。
宇七は石切りの仕事を誇りに思っている。城は消えても、石垣は消えない。それが家訓だった。
石切は大地を削り、石を叩き出し、背骨が折れるほどの重さに耐え運ぶ。その動作は何百年とほとんど変わらない。
石切が作った石垣は、城をその肩に担いで敵を振り払う。石切が刻んだ文字や彫りは時代を超える。
石切がそこにいたという痕跡を消すには、火も水も効かない。同じだけの労力を使い、石を削り取り、砕き去るしかない。
身体と人生を削り、石をのこす、頑固で融通の利かない一族。胸を張って自慢できる俺の家族たち。彼らのために、自分が江戸で苦行をする定めなら、それは仕方ない。
「わたくしも、一族の名誉のために、土を掘っております。」
宇七はそう言うと、微笑んだ。
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