第2話 堤重娘に迫る危機
(一)堤重娘の危機
その日、宇七は木刀を振っていた。付け焼刃の武術なので上手くはない。
そこへ中間が駆け込んできた。
「宇七郎さま、ここにいらした!ご
「いじめられてる?商売をしているのであろう?」
宇七は不機嫌に答えた。
堤重は菓子だけでなく身体も売る遊女。堤重のおたねが屋敷のどこかの部屋でそういう商売をしていても、それを責めるのは野暮というものだ。旦那面はできない。
宇七はぷいと背を向けてふてくされるように言った。
「商売の邪魔はできん。」
「ちょっと様子が違います。いきなり菓子桶を奪い取られて、取り囲まれて何か言われています。」
「どの部屋で?」
「角奥にある相部屋でございます。」
宇七は走り出した。
部屋の前に来ると何やら言い争う声が聞こえる。
「お前が名物菓子だとかいって持ってくるのは、偽物ではないか!何がおてつ餅だ!」
「番町名物のおてつ餅とは誰も言ってないよ!おたねの作ったおてつ餅さ!」
「なんと強情な…素直に謝れば赦してやろうものを。」
「今までうまい、うまいって食ってたじゃないか!」
「侍さまに、まがい物を売る狼藉ものが!お前のようなのを
帯刀の干魚売りとはインチキ商売人を蔑んだ話だ。その昔、帯刀と呼ばれる侍たちの詰め所に美味しい干物を売りに来た行商女がいた。しかしその干物は藪から採った山蛇だったという…。
「何すんだい!商売の道具を返しな!」
「こうしてやる!」
何かが飛び散る音がした。
どうやら、桶一杯に詰め込んだ大事な牡丹餅を、ぶちまけられたらしい。
「ひどい!金は払ってもらうからね!」
「お前の商売道具は菓子桶なんかじゃないだろうが。」
「やめな!手を放せ!」
どうやらこのまま放っておけば、おたねは侍どもに手籠めにされてしまいそうな勢いだ。
(二)おたね、出禁
宇七は襖をぱっと開けると、中に入った。
「あぁ、暑い。わしの手拭いを知らんか?」
侍どもは一瞬驚いたようだが、すぐに立ちふさがった。
「取り込み中だ。出て行け!」
「おや、いつもの団子屋ではないか。桶でも落としたか?」
宇七は桶を拾うと、ゆっくりと牡丹餅を拾って中に戻してやった。
「ちょうど腹が減っていたところだ。それがしがすべて、頂こう。」
「…そんなの、売れないよ。あたしにだって、菓子屋の意地があるからね。」
「形など、どうでもいい。お前の菓子は旨いぞ。…だが、ツケにしてくれ。持ち合わせがない。」
「わかったよ。桶はこんど返しておくれよ!」
おたねは部屋から走り出した。うまく逃げてくれ…。
宇七はというと、お楽しみをぶち壊されて怒る侍たちに取り囲まれた…。まずい、このまま乱闘になったら、足腰立たなくなるまで殴られるか、応戦して喧嘩両成敗となるか、悪くすると刀を持ち出した奴に斬られてしまうかもしれない。
「おう、おう。若いとは良い。相撲か?わしも入れてくれ。」
「これは仁左衛門さま…」
仁左衛門がすいと現れた。若侍はみな、仁左衛門の思わぬ登場に慌てて礼をした。
「誰と誰が組み合っておる?部屋の中はいかん。外でやれ、外で。」
「は…はい。」
「宇七郎、そのほう、そろばんを持ってわしについて来い、このあいだの勘定が間違っておるようだぞ。」
仁左衛門は宇七を連れて奥に向かい、帳簿と算盤の並んだ小部屋に入るとぴしりと襖を閉めた。
「
「まこと、面目なく…」
仁左衛門は何も言わずに、半刻ほど宇七をにらんでいた。
「お前はともかくな、お前の身体は故郷の一族によって、当家の大事のために江戸に貸し出されたものだ。つまらぬことで怪我などさせられぬ。わかるか?」
「…はっ。」
仁左衛門の表情がすこし緩んだ。
「若い者の目付けはわしの仕事じゃ。こっちの迷惑も、少しは考えろ。」
「まことに申し訳ございませぬ。」
「美しい女をめぐる男の争いは古今東西、尽きぬものじゃ。あの娘をめぐってご家中の若い者が角突き合いするのは、見過ごせん。二度と屋敷には足を踏み入れさせぬ。」
「はっ。」
そのほうが良いのだろう。このままでは、また襲われるのは目に見えている。
「さてさて、あの娘はなかなかに麗しいな。春信の美人画のごとし。わしも若ければ、どうなっとったか、わからん。」
春信は世代がちょっと古いな、黄表紙に美人を描く、北川なんとかいう若い絵師のほうが好きだ、と宇七は心の中で思った。
こうしておたねは、出禁となった。
(三)おたねの生い立ち
もう会えない…と傷心にぼんやりしていた宇七だが、おたねはその数日後にひょっこりと現れた。
「こらこら、何をしているのだ?ここに来てはいかん。」
「お召しがあったので、参りましたよ?」
宇七は仁左衛門との約束があるのだから、おたねを呼び出すはずがない。
「…連中め、俺の名を使ってお前を呼び出したな。」
「…こわいよ。どういうつもりだい?」
宇七は物陰におたねを連れ込むと、もうお前は出入り禁止なのだと伝えた。
「言いがかりをつけて、乱暴したうえに、出入りできないようにするなんて!あたしが侍だったら、斬って捨てるわい。」
おたねはしょんぼりするかと思いきや、商売の邪魔をされて、腹を立てていた。気の強い女だ。
「仕方がなかろう。まがい物の団子をおてつ餅だと偽って売りさばいていたのは、お前だ。」
「おてつ餅がどうして番町名物になったか、知ってるかい?美人のおてつさんが看板娘だったからさ。もうおばあちゃんだけど。味なんて他の餅と変わらないよ。」
「そりゃ、お前の言い分だ。最初からおたね餅と名付けて売ればよかったのに。」
「売れるかい、この世は
この娘、思っていた以上に弁が立つ。はぁとため息をつくと、宇七は質問を変えた。
「おたね、なぜ堤重稼業を始めたのだ?」
「おとっ様は腕の立つ菓子屋だったんだ。でも店を持ちたい気持ちを付け込まれたのさ。」
「菓子と一緒に、借金をこしらえたと?気の毒にな…」
「借りた金貸しはあこぎでさ。知ってるかい、いちばん大きな借金を命がけでするのは、おとっ様みたいな、いい商売人なんだよ。あたしの身体でみんなが食えるなら、いくらだって切り売りしてやらぁ。」
江戸ではこのところ商売景気が沸騰している。自分も一旗あげたいという料理人たちが、料理茶屋や菓子屋を開いていたが、その元手となる資金を貸して商売人の夢を食い物にする連中はいる。
そういうあくどい連中に限って、お上のお墨付きで表の商売をしているから始末が悪い。
(四)おたね、姿を消す
「なぁ、おたね、お前も苦労してるなぁ。だが俺たちの苦労なんぞ、お偉いどもにはわからん。」
宇七がそう言うと、おたねは宇七のほうをぱっと振り返った。
「俺たち?あんた、ほんとにお侍かい?」
「な、なにを申す…」
おたねが不躾に宇七の身体を眺めまわす。
「前からちょっと感じてたんだ。あんただけは、身体つきが違うんだよね…肩から背中にかけての肉付き、腰の締まり方、ちょっとやそっと木刀を振り回してるような連中とは、ぜんぜん違うってさ。」
「そ、そのようなこと…!」
宇七が顔を赤くした。
「それから、爪のあいだに、ときどき土が入ってるし。お侍様なら、そんなことはめったにないよ。」
おたねはじぃっと宇七を見つめた。
「…あんた、ほんとは大工だろ?」
「…だったら…どうする?」
「腕のいい大工のおかみさんは、悪くないねぇ。雨さえ降らなきゃ、けっして食いあげないよ、江戸は火事が多いから、大きな仕事も多いしさ。」
「さっ…さっ…」
宇七は武士ぶって「左様か」と言おうとしたが、興奮のあまり言葉を噛んでしまう。
「なーんてさ、そんなはずはないよ。あんたは江戸にお勤めで、またすぐに許嫁や奥様のいる国元に帰っちまう。」
おたねがぷいと立ち上った。もう行ってしまうのか―宇七はいつものように、後ろから追いすがるような声を掛けた。
「今度はいつ―」
そして声を呑み込んだ。仁左衛門のいう通り、おたねはもうこの屋敷には来ない方がいい。連中に目をつけられている。今度こそ危ない目にあうだろう。
「いや、もうここには、来るな。」
生まれて初めて、おたねは帰り際にぎゅっと宇七のほうを振り返った。
「えい、わかったよ。おさらばえ。」
宇七は声をかけたこと、おたねの目を見たことを後悔した。もう会えないとわかっていて、あんなにしっかりと目を見合うなんて―俺は本当に要領の悪い、田舎男だ…
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