第7話 醜い顔の男の場合
逃げるように来島の家から直接出勤して、勤務時間前から仕事をこなした。すべては余計なことを考えないために。
「……可哀想な奴やな」
お前も、俺も。
そう続きそうになった言葉は、あいつの唇に押し付けて自分の口を塞いだ所為で、漏れることはなかった。お前も、はわかる。俺も、ってなんやねん。
あいつをあんなに痛めつけている癖に、一体なんの被害者意識なのか。
「あなたは、田ノ上さんは、来島のことどうしたいんですか……!」
「俺のもんを、俺がどうしたいかなんて、お前に教える必要、ある?」
川本にああ言われた時、思い浮かんだ悪役らしい台詞はすぐに返せたけれど、質問の答えになっていないことはわかっていた。俺自身が、心の奥底で思っていたことで、答えがでていないことだったから、ああしか答えようがなかったのも事実だ。
そして、今もまだ答えが出せないまま、何度も何度もそのことばかりを考えてしまう。それが苦痛で仕事に逃げたわけだ。
昼休憩の時、こっそり二課を覗いたら来島も川本もいなかった。もしかして、また二人で仲睦まじくこそこそやっているんじゃないか。そんな被害妄想にも近いことを考えただけで、吐きそうなくらいにむかついた。
「なあ、川本と来島は?」
「あっ、田ノ上さん! 川本君はお昼休憩に出てて、来島君は……その、体調不良で欠勤です」
言葉を濁した事務員の彼女は、嘘が吐けない性格なのだろう。俺を見て、嬉しそうな顔をしたかと思えば、来島が休んだという時は悲しそうな、苦々しい表情を浮かべた。
「どうかしたん?」
「……その、私、来島君の欠勤の連絡受けたんですけど、声が殆ど聞こえなくて、いつもの来島君からは考えられないような声で……本人は風邪でって言ってたんですけど、なんだか最近元気もなかったし、その」
彼女はとても言い難そうに語尾を濁した。俺はできるだけ、詰問口調にならないように気を付けて「それで?」と続きを促した。
「私の友達で、DVに遭った子がいたんです。あ、その子は女の子だったんですけどね、その子が暴力受けてて誰にも相談できひんかった時と似たような感じがあって……来島君、自分の中に溜め込みそうやし、確証はないんですけど、私心配で」
言葉が出てこなかった。考えなくたってわかる、あいつにDVをしていたのは俺だ。昨日も、痛めつけて、傷付けて、好き勝手に蹂躙して。そして、あんな状態のあいつを一人放置して、逃げたのだ。出勤できるわけなんてない、なのに、俺はそんな当たり前なことにすら、気が付かないくらいおかしくなっていたのか。
「すいません、変なこと言って」
「いや……」
また、逃げるように二課を後にした。どうして自分はこうなったのか。あいつを、俺はどうしたいのか。傷付けた加害者本人が、どうしてこんなに悲しく苦しい気持ちになるのか。
昼休憩以降は、気を抜けばそんなことばかりを考えてしまって、それに堪え切れなくなった。仕事が終わったら、謝りに行こう。いやでも、どの面下げて会いにいくというのか。そもそも謝って許されることではないし、許されたとしても、来島との関係は終わるのに違いなかった。それは、嫌だ。
結局、屑で意気地なしの自分は急ぎでもない仕事のために残業し、現実逃避に勤しんだわけだ。
会社の完全終業時間の二十二時まで粘り、問題を先延ばしにしていた時間もあっという間に終わって、警備員に促されるままに会社を出た。
いっそ、自分の家に逃げ帰ってしまおうか。何度か逡巡したものの、やはり来島の状態が心配だった。
やったんは自分の癖に、罪悪感から逃れたい一心で取り繕おうとして、この偽善者め。
そんな風に激しく責めたててくる自分自身の良心の呵責に、何度も足は止まったが、なんとか来島のマンションまで辿り着いた。意を決して、インターホン押した。コール音が鳴って、向こうで応答した時に鳴るピッという音に、心拍数は跳ね上がる。
なんて言おう。ここで謝るべきか。いや、顔を見て謝るべきでは。そもそも、なんて? DVしてごめん? なんとも馬鹿な謝罪の言葉か。
何も言わない俺に「田ノ上さんですか?」と言った声を聞いて、俺は固まった。けして、事務員のあの子が言った掠れ声に罪悪感を刺激されたわけじゃない。その声は掠れてなんかなかった、というか、来島の声じゃない。
「今、開けます」
川本。川本、川本、川本!
瞬間、沸騰したように頭が怒りで熱くなった。なんでお前が来島の部屋におるねん!
さっきまで頭の中を占拠していた罪悪感とか、良心の呵責とか、そんなものはすべて吹き飛んでいた。
来島、お前が、誰のもんなんか、あんなに教えてもわからんのやな。
全速力で階段をかけあがり、乱暴に扉を開けば、そこにいたのは川本だけだった。
「……川本ぉ、お前もええ度胸しとんなあ」
「綺麗な顔が台無しですよ、田ノ上さん」
醜い、般若みたいな顔になってます。
淡々とこちらを挑発してくる川本に、ならば受けて立ってやると飛び掛かった。
「お前、来島どこやった! 返せ!」
「……っ、今のあんたには教えられません!」
殴りかかっても全力で迎え撃つ気満々な川本には当たらず、頭の片隅で
「来島は、いつも無抵抗やから、殴れたんやな」
なんて、自分の行いについてショックを受けていた。マウントポジションを取ろうと大の大人の男が二人揉み合って転がり、ベッドや机、クローゼットの扉にぶつかった。
「田ノ上さんはっ、来島のことどうしたいんですか! なんであいつのこと、あんなに傷付けるんですか!」
「うるさい! そんなん、こっちが聞きたいわ!」
攻防の最中、再び舞い戻ったあの疑問に、とうとう本音を漏らしてしまった。わからない、どうして、自分は来島を傷付けてしまうのか。
「田ノ上さんは! 来島のこと好きなんでしょ! なんでそれを認めないんですか!」
不意を突かれて、俺に馬乗りになった川本は、胸ぐらを掴みながらそう言った。
「俺が、来島のこと好き?」
「だから手元において、あいつが他の奴に懐くのが嫌なんでしょう! 俺に嫉妬してたんでしょう!」
違う、俺はあいつのこと、可愛い弟分やと思っただけ。来島の言う「好き」と、俺の好意は種類が別、別物だったはず。
「最初は別物やったかもしれませんけど、今はあんたも来島のこと、そういう意味で好きなんでしょう!」
「違う、俺は、ただ、あいつが俺のもんじゃなくなるのが嫌で」
「それだけで付き合ってるんやったら、あいつの恋人でいるのは諦めてください。俺があいつのこと、幸せにしてやりますから」
あいつももう、それを望んでますから。
さっきまでうるさい程、大声で叫んでいた癖に、そう告げた声は静かで、まるでそれが真実なのかのように聞こえた。
「嘘や、嘘吐くなや、来島が、俺以外を好きになるなんて、そんな」
「……あなたのこと、好きやって言うてくれる人はごまんといるでしょう? 男でも、女でも。やったら、来島の一人くらい、あなたを好きじゃなくなっても構わないじゃないですか」
真っ直ぐにこちらを見詰めながら、川本は言った。いつの間にか、胸ぐらを掴んでいた手は離されていたのに、動けなかった。
まったくもって、その通りだ。現に、来島に構っている間も、色々な人間から好意を寄せられていたのに、それを誰からも受け取らなかった。そんなものは要らない、来島が、こちらを見てくれていたら。俺を好きでいてくれたら。
「そっか、俺は、来島のこと、好きやったんか」
「気付くのが遅いんすよ」
そう言った川本の声は、諦めろ、という割には酷く優しくて、
「……もう出て来てええよ、来島」
俺の上から退いた川本は、クローゼットの扉を開いた。
「ちゃんと聞こえてたやろ、田ノ上さんも、お前のこと好きやって」
そこにいたのは、涙でぐちゃぐちゃに歪んで醜い顔をした来島で、まだ呆けて起き上がれない俺に飛び付くように抱きついてきた。
「俺もっ、……俺も、恵さんが好きです!」
なんて、掠れた声で言いながら。
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