第6話 醜い声の男の場合


 田ノ上さんと話した翌日、来島が体調不良で欠勤した。電話に出た事務員によると、声が掠れて殆ど聞こえない程で、本人は風邪だと言いはったらしい。

 

「まあ、昨日長袖のシャツなんか着てたから、汗かき過ぎてそのまま風邪引いたんやろ」

 

 上司は皆に納得させるようそう言って、おし黙っていた二課の皆も無理矢理、納得したように頷いた。恐らく、風邪ではないだろうと誰もが思っているのに、知らぬふりをする。面倒事を避けたいというのは、普通のことなのかもしれないが、それが酷く悲しくなった。

 

「お、珍しいな川本が定時で帰るなんて」

「来島のお見舞い行こうと思て、お先です!」

 

 背後で先輩たちが、いつものように「やっぱりあいつらできてるな」なんて茶化す声が聞こえて、それだったらどんなに良かったか、と一人唇を噛み締めた。あいつが付き合っているのが自分であったら、こんな風に会社を休むことになるものか。

 

 ちらりと通りかかった一課の部屋の中を見れば、実際に来島と付き合っている男が、いつものように美しく澄ました顔で仕事をしているようだった。

 

 

 来島の家の場所は知っている。同期の飲み会の延長で、一人暮らしの来島の家で宅飲みしようと、嫌がる来島の家に皆で押し掛けたことがあったのだ。適当にコンビニでスポーツドリンクとゼリーを買って、来島のマンションのインターホンを押した。

 

「……はい」

「俺。川本。お見舞いに来た」

 

 いつもの美声とはかけ離れた声に、思わず眉間に皺が寄る。手酷くされてしまったに違いなかった。きっと、自分の所為で。

 はあ、と溜め息が聞こえた後、予想外にオートロックがすぐに開いた。きっと帰れと言われると思ったのに。

 

「……帰ってくれ言うても、帰らんやろ、お前は」

 

 部屋に入れてくれた来島は、呆れたようにそう言った。さすがに自分のことをよくわかっているな。お見舞いの品を来島に渡し、それを冷蔵庫にしまう後ろ姿を眺めた。なんだか、来島の背中が酷くか弱くなってしまった錯覚に襲われ、堪らず目を逸らした。

 

 暫くしてコーヒーを持ってきた来島を、今度は正面からまじまじと見て、その首筋についた痕を指して言った。

 

「なあ、大丈夫なん……それ」

「大丈夫なら仮病で欠勤なんかせんよなあ」

 

 苦笑いして自分の首元を触る来島は、赤くなった痕を辿っているようだった。誰かに、首を絞められたような痕を。

 

「……ごめん」

「なんで川本が謝るねん」

 

 泣き腫らしただろう目と、掠れた声と、服が隠していない部分の痣や痕は、自分の罪だと思った。こんなことにならないように、上手く立ち回ることができないならば、立ち入るべきではなかったのに。

 

「俺の所為で……ほんまにごめん」

 

 悔しくてやるせなくて、泣きそうになるのを必死で堪えて頭を下げた。自分が泣くのは、お門違いだ。でも、何もできない自分の無力さに苛まれて、視界が滲む。

 

「……俺こそ、ごめんな。お前、お人好しやから気に病むやろうなと思ってさ、絶対、お前には会わんとこと思って会社も休んだんやけど」

 

 ばっと頭を上げた。来島の声は、泣きそうに震えていて、

 

「お前、来てくれて、声聞いたら、安心して……ごめん、なんか、俺」

 

 途切れた言葉は、嗚咽に変わって、掠れた泣き声を聞いた瞬間、条件反射のように来島の身体を抱き締めた。

 

「俺、おれさぁ……っ、めぐ、田ノ上さん、辛そうな顔してて、あんなに辛そうやのにっ、俺の所為で……」


 歯が欠けるんじゃないかってくらい、奥歯を噛み締めて、抱き締める力も自然に強くなる。どうして、こんなに傷付いているお前の方が、自分を責めているのか。辛そうな顔をしているのは、お前の方じゃないか。

 本当はそう言ってやりたいけれど、きっと、それでは何一つ来島の心を軽くしてやれない。

 

「ほんまはさ、わかってんねん……田ノ上さんが、俺のこと好きなんじゃなくて、他の人に懐くのが気に入らんのやて。だから、俺と付き合ってんのも、俺が他の人に寄らんようにしたいだけなんやって……それでも良かった、あの人が俺を自分のものやって思ってくれるのが、嬉しかった。でも、昨日、夜中目が覚めた時、あの人泣いててん、何回もごめんな、って。俺、寝たふりして、気付かんかったことにした、でも、やっぱり、あんな田ノ上さん見るん、もう耐えられへん」

 

 子どもの癇癪のように、拙い言葉で泣きじゃくる来島は、本当に田ノ上さんが好きなんだろうと思った。

 でも、お前勘違いしとるよ。あの人も、田ノ上さんも充分お前のこと好きやって。

 

 でないと、田ノ上さんが居酒屋で、俺のこと射殺すような眼で見てきた理由が、わからないじゃないか。

 元々あの人は、執着心が薄い人だと思う。来るもの拒まず、去るもの追わず。そういうスタンスの人だと、入社から見てきて思っていたのだ。

 

 そんなあの人が、初めて手放したくないと思ったのが、お前やったんちゃうかな。今までやったことないから、手放さんようにする方法が、わからんのちゃうかな。

 

「俺はな、来島。勿論、お前には幸せになって欲しい。できるなら、こんな風に暴力振るわれてボロボロになった姿なんか見たくないねん。でもさ、田ノ上さんにだって幸せになって欲しいとも思うわけや。根は良い人やって、ただビビって暴れてるだけや、お前に離れられるのに怯えてるだけ」

 

 せやから、俺がお前ら二人で幸せになれるように、手伝ったる。

 何の根拠も確証もないけど、お前らはこんがらがった糸を解けば、ちゃんと幸せになれるよ。俺が、その糸を解いてやるから。

 

「せやから、もう泣くな」

「川本……」

 

 俺を見詰める来島の目は、確かにこの前、田ノ上さんが言っていた通り、純粋で綺麗だと思った。

 

「これ以上泣いて、自慢の美声がなくなったら、お前良いとこなしやもんな」

「うるさいわ、こんななっても、お前よりマシじゃ」

 

 そう言った来島は、久しぶりに無理矢理じゃない自然な笑顔を、俺に見せたのだった。

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