第5話 醜い心の男の場合
「今からお前ん家行くから」
こちらの返答などお構い無しなメッセージが、田ノ上さんから送られて来て、十分と経たず、インターホンが鳴った。
死刑宣告を受けた囚人のごとき自分は、自ら処刑人を招き入れる為に、震える指でオートロックを解除する。解錠された玄関をくぐった田ノ上さんを、祈るような気持ちで待った。
間もなくして、部屋の扉を開けた彼は、思った通り、いや、それ以上に美しい笑みを浮かべていた。
田ノ上さんが、有無を言わせない連絡の仕方をする時は、十中八九怒っている。しかもあの勢いの川本と別れてからの、この連絡だ。川本絡みで怒りを覚えているに違いない。
困ったな、川本絡みで怒った田ノ上さんの仕置きは、えげつないから。多少加減してくれる日に比べて、痕をつける場所も一切考えず、怒りに身を任せているような感じなのだ。
今日もその所為で、長袖のシャツを着用することを余儀なくされたのに。そんな風に思いながら、
「待ってます」
と返した自分に、彼は
「お前が思ってる三倍は怒ってるから、覚悟してな」
なんて、無慈悲なメッセージを送ってきたのだった。
「こんばんは、マイハニー悟志くん」
そんな第一声と、浮かべている笑顔で、やって来た田ノ上さんが、やはり酷く不機嫌なのだと思い知らされた。思っている三倍どころの話ではなく、怒っているのだとも。
この人は、怒っていたり、嫌だと思うことがあったりすると、とても美しく笑う。自分の中の醜い感情を押し殺そうとせんばかりに。
「恵さん、俺……っ!」
「なに? 言い訳は後で聞いたるからちょっと静かにしてくれる?」
駆け寄って、謝ろうとした自分の足を払って突き飛ばし、床に転がした田ノ上さんからは、とうとう美しい笑みすら消え去って、ひたすらに冷たい眼光が自分を射抜いた。
「あ、ごめ、んなさ」
「黙れ言うたん、聞こえへんかった?」
噛み付くように口付けられて、謝罪は受け付けないと言わんばかりに、口を塞がれた。暫く呼吸を許されず、甘噛みなんて可愛いものじゃないくらい唇や舌を噛まれる。幸い血の味はしなかったから、切れてはいないはず。そして、酸欠でくらくらしてきた頃に漸く離され、咳き込みながら酸素を吸い込んだ。
田ノ上さんはというと、涼しい顔で息一つ乱さずに
「川本にさあ、喧嘩売られたから、大人げなく買ってしもたわ」
と、面白くなさそうに吐き捨てた。それを聞いて、心の奥底で「やっぱりな」と納得する自分がいた。
あのお人好しが
「田ノ上さんなんやな、やっぱり」
と、言った時の顔がその根拠だ。あんなに怒った顔をしている川本を見るのは初めてだったから。きっと、田ノ上さんに何か言ってしまうだろうと思ったけど、こんなにも怒らせてしまうなんて。
勿論、それは厄介なことではあるが、同時に後ろ暗い悦びでもあった。
田ノ上さんが、川本に嫉妬しているのかもしれない。つまり、嫉妬するくらいに、俺を、自分の物だと認識しているということなのだから。
「あいつ、涙ぐんで怒ってたわ。『来島のことどうしたいんですか』やって。同期にあんな、美しい心の男がおって幸せやねぇ、来島くんは」
ぐいと、前髪を鷲掴まれて、顔を上げさせられる。痛みに顔を歪めれば、それに比例して彼の口端が吊り上がった。
「ごめんな、恋人の男は、こんなに醜い心の男で」
茶化すように言った恵さんは、今、自分がどんな顔をしているか、きっとわかっていないんだろうな。
この人は、醜い感情を美しい笑顔で隠すのは上手いが、傷付いたり、悲しかったりすると、いつもの美しい笑顔には程遠い、下手くそな笑みを浮かべるのだ。今みたいに、無理やり口元を歪めて、眉間に皺を寄せた、醜い笑顔を。
田ノ上さんと付き合い始めて、舞い上がる程嬉しかった俺は、彼をすぐに怒らせてしまうようになった。
「川本と楽しそうに喋ってた」
「俺より川本と一緒にいる」
「川本の方が、俺より良いと思ってるんじゃないのか」
そんなわけないと弁明しても、彼をますます怒らせてしまうだけだった。
誰よりも大切にしたい人を傷付けて、その人から暴力を受けてしまう。そして、肉体的に自分を傷付ける田ノ上さんが、それ以上に精神的に傷付いていることもわかっていた。
「ごめんな、こんな醜い心の持ち主で」
自分を傷付けた後、田ノ上さんはいつもそう言ったけれど、その言葉が一番、自分を傷付け、悲しくさせた。
「……恵さん」
あなたは俺と付き合うようになって、たびたび、醜い心の持ち主なんだと、自分自身を責めるようになってしまった。そんなはずないのに。本当に醜い心の持ち主なら、そんな風にあなたが傷付くことは、ないでしょう。
「ごめんなさい、恵さん」
本当に醜い心を持っているのは、自分と付き合い続ける限り、あなたがそうやって傷付くとわかっていながら、別れようとしない俺なんです。自分自身の幸せを優先させて、あなたを傷付けてしまう、俺の方が、醜い心の持ち主なんです。
でも、どうしても、俺は。
「恵さんが、好きなんです」
「……可哀想な奴やな」
果たして、それが自分を指しているのか、それとも恵さんを指しているのか。覆い被さってきた恵さんを見詰めても、濁った目でしかこの人を見れない俺に、わかりはしなかった。
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