第2話 美しい顔の男の場合


 自分は幼い頃から、他人と関わるのが下手くそな人間だった。自分の気持ちを相手に伝えるのが苦手で、察してもらうのを大人しく待って、誰にも気付いてもらえないまま一人で過ごしていた。本を読んだり、映画を観に行ったり、一人で過ごすことは苦ではないが、やはり寂しい。

 

 大学入学の時に、勇気を振り絞って映画研究会というサークルに所属したけど、残念ながら部員たちと打ち解けることはできず、部室の隅っこで本を読むことしかできなかった。

 やっぱり、自分には一人で過ごすのがお似合いだと、サークルを辞めようかどうか迷っていた時だった。

 

「そんな隅っこ座らんと、こっち来いや」

 

 映画研究会のOBだといった、いやに綺麗な顔の男に手招きされ、おずおずと寄っていった。

 

「こんな前髪長くて鬱陶しくないの?」

「う、え? いや、あの」

 

 近くに座った瞬間、突如、前髪を上げられ、ばっちりと色素の薄い瞳と目があった。しどろもどろに返事もできず、手を払いのけることもできず、固まっていたら

 

「お、声、低くていい声してんな、名前は?」

「く、来島、悟志、です」

 

 もはや言いなりのように名乗り、満足そうに頷いた彼は

 

「俺は田ノ上。田ノ上恵、よろしくな来島」

 

と、美しい笑顔でそう言った。

 

 田ノ上さんは、とにかく人の目をひく美貌と、その人懐っこさで大学卒業後は営業マンをしているとのことだった。

 営業マンなんて、己には縁遠いものだと思っていたが、

 

「お前のその声、うちの会社でなら凄い武器になるわ。卒業したらうちの会社に来たらええのに」

 

と、田ノ上さんに言われた。

 声を褒められたのは初めてで、そもそもあまり人と話さないから、当然といえば当然だけど、それでも感動するほど、嬉しかった。美しいこの人に褒められたこの声が、本当に美しいものになったような気がした。

 

 それからも、ちょくちょく田ノ上さんは部室にやって来て、俺にちょっかいを出しては帰っていった。

 在籍中は、やはりそのルックスから映画研究会の撮る映画の主役をはることが多かった彼は、やって来るとたくさんの後輩に

 

「恵さん、恵さん」 

 

と、囲まれるのに、一通り彼らの相手が終わると必ず自分の元にやってきた。

 

「よお、来島。今日も辛気くさい顔してるやん」

「大きなお世話です、田ノ上さん」

 

 最初は緊張して殆ど話せなかったけれど、だんだんと彼のペースに乗せられて少しだけ、親しく話せるようになっていた。

 彼はたくさんの映画を知っていて、自分が見てきた映画なんて殆ど知っているような男だった。新しい面白い映画を教えてもらって、それを観た感想を彼に話すというのが、習慣化していた。

 

 田ノ上さんと話すのは楽しくて、時間があっという間に過ぎてしまった。

 そんなある日、研究会の部員から

 

「恵さんの言う通り、来島くんの声、よく通るいい声だね。今度新しく撮る映画の、ナレーションしてくれない?」

 

と、声をかけられたのだ。そんなの緊張するし、断ろうかとも思ったけど、声を褒めてもらえることは、何だか自分の中でとても誇らしいことのようで、思わず承諾してしまったのだった。

 

「くーるーしーまくん! 映画出演デビューおめでとう!」

「出演言うても、声だけですけどね」

 

 どこから聞きつけたのか、耳聡くやって来た田ノ上さんに、照れ隠しでそう言えば、

 

「やっと、お前の良さが伝わってきてるみたいで嬉しいわ」

 

と美しい微笑みを浮かべながら言われた。

 その瞬間に思ったのだ、嗚呼、自分はこの人が好きだなあと。

 

 自覚してしまった感情を無理矢理抑え込んで、今までと変わらぬ態度で接していた。けれど、彼が傍にいるだけで、

 

「好きだ」

 

という感情は暴れるように心臓を鳴らし、自分の身体を不用意に火照らせた。

 けれど、それに無視を決め込んで、自分の大学生活が終わるまでは、この人の近くにいられるようにと、初めの頃よりは少し増えた口数が、これ以上多くなって余計なことを言ってしまわぬように用心した。

 

 それに反して、彼はどんどんと自分に気安くなって、

 

「やっぱり俺の言った通り、前髪が短い方が悟志くんは可愛いねぇ」

 

なんて、軽口を叩いて、自分の髪で隠れなくなった額に触れてくるものだから堪ったものではなかった。

 

 そんな自分の、ある意味で明るいキャンパスライフが、いよいよ終わりを告げようとした三回生の冬頃、田ノ上さんが言った。

 

「なあ、来島。この大学生活で、多分お前、だいぶ変わったやん」

「お陰様で、人の目を見て話せるようになりました」

 

 冗談混じりにそう返したが、本当に人とも多少なりは緊張するが話せるようになったし、性格も当社比1.5倍くらいは朗らかになった、はずだ、恐らく。

 全部、この人のおかげと言っても過言ではない。照れくさいけれど、きちんと御礼を言わなくては、とまごつく自分に田ノ上さんは真面目な顔で

 

「ほんまに、うちの会社に営業として来るつもりはないか?」

 

と言った。

 もちろん、一社員である自分に人事権はないから、正面から採用試験を受けることになるけど、と付け加えて。

 すでにその時、別の会社で事務職として内定をもらっていて、そこに行くつもりにしていた。しかし、彼はそれを知った上で、自分を誘ってきたのだ、期待を、してくれているのだ。

 これからの人生に関わることだし、そもそも、自分に営業職など務まるのだろうか。

 そんな不安も多いにあったが、それよりもまだもう少し、この人と、田ノ上さんと一緒にいられるのかもしれない。

 

 そんな夢を見てしまうくらいに、自分は誤魔化しがきかないところまでこの人に傾倒していたのだった。


 そこからは、田ノ上さんの勤める会社の選考に向けて、一から準備を始めた。何かできることは手伝うという、田ノ上さんの申し出を

 

「それはずるになるんで、大丈夫です。なんで、もし奇跡的に採用されたら、褒めてやってください」

 

なんて、断ったら、彼は笑って

 

「お祝いになんでも一つ、言うこと聞いたるわ」

 

と言った。

 

 彼の勤める会社は、中堅企業くらいの規模で、大量採用をするわけではないが、そこまで狭き門というわけではなかった。正直、学力に自信はあったので、筆記試験はあっさり通ったけれど、二次選考の面接が厄介だった。他の希望者はきっと、自分のような不埒な動機では採用試験を受けていないだろう。

 そんな風に自信がなくなって、面接の順番を待ちながらどんどん気分が悪くなってきた時だった。

 

「自分、顔色悪いで、これ。まだ新品のお茶やし飲んどき」

 

と、話しかけてきた男がいた。

 これが今の自分の同期、川本宏光だった。川本は、自分が持ってきていた、まだ口をつけていないお茶を、こちらに差し出して、

 

「まだ時間あるし、あんまり思い詰めんと、気楽にいこうや」

 

と、歯を見せて笑った。

 見ず知らずの男、しかも狭き門ではないといえライバルに、なんて優しい言葉をかける奴なのだろう。俺は、こんなに美しい心がけは逆立ちしたってできないなと、内心苦虫を噛み潰したような気持ちで、好意のお茶を受け取った。

 恐らく、自分の面接の順番が、川本の後ろでなかったら、緊張と罪悪感で、まともな受け答えはできなかったろうと、今でも心の中では感謝している。

 

「お前! 入社したからにはライバルや! 負けへんで!」

 

と、ライバル宣言された所為で、満足に御礼も言えていないが。

 そんなわけで、無事田ノ上さんと同じ会社で勤められるとあって、浮かれながらも、慣れない営業の業務をこなしていた。

 初めはまさかの教育係に田ノ上さんがついてくれて、やる気いっぱいで頑張ったら、いつの間にか同期の中で一番の営業成績まで取ってしまった。川本が地団駄を踏みながら、

 

「次は負けへんからな!」

 

と、言ってきた時、他の部署にいる同期が、

 

「あいつは田ノ上さんのお気に入りやから、絶対裏でなんか取引してる」

 

なんて陰口を叩いているのに比べて、やっぱりこいつは綺麗な心の持ち主なんだなあとしみじみ思ったものだ。

 自分自身、同じような立場の奴がいたら、川本以外の奴と同じことを思うだろう。

 そもそも、この状況自体信じられず、

 

「この世界は自分の都合良く作り出した妄想では?」

 

と、疑心暗鬼になっていたら、川本に激しく絡まれたり、その所為で各署で、

 

「あいつらは実はできてる、喧嘩する程仲が良いというやつだ」

  

などと、あられもしない噂が立ったり、結局、田ノ上さんも営業部二課から一課に引き抜かれたり。

 

「やっぱりこの世は自分に辛い世の中だった」

 

と実感して、何故だか安心していた。

 そんな、少し田ノ上さんと距離ができて、恋心も薄れてきたのではないかと、思っていたある日。

 

「もう、俺帰る! 来島と二人っきりとか、また変な噂立つわ」

「お疲れ様」

 

 残業に飽きてきたらしい川本が喧しく立ち上がり、ほななと帰って行った直後だった。

 

「さーとしくん。まだ残業してんの?」


 にこやかな笑顔の田ノ上さんがやって来て、隣の川本の席に腰を降ろした。現金なもので、薄れてきたと思っていた恋心は、久しぶりにこんなに近く、本物の田ノ上さんを見ただけで、舞い上がるほど悦んでいた。

 

「や、もう帰ろうかなって。さっきまで川本もいたんですけど、飽きたみたいで帰ったんで、そろそろ自分も引き上げようと」

「ふぅん?」

 

 目を猫のように細めて、唇を三日月のようにつり上げた笑みは、なんだか怒っているようにも見えて困惑する。

 

「そう言えばさ、まだ聞いてなかったよな」

「何をですか」

 

 相変わらず口調はのほほんとしているのに、なんだかソワソワと落ち着かなくさせるのは、やはりその美しい笑顔だった。

 

「忘れたん? 入社できたら、お祝いで何でも一つ、言うこと聞いたげるよーって言うてたやろ」

 

 確かに、言っていた。お祝いになんでも一つ、言うこと聞いたるわって。もちろん、忘れていたわけではないが、こちらから言い出せるはずもなく、時間が有耶無耶にするだろうと思っていた。

 どうして、今、このタイミングで。

 自分と、田ノ上さんしかいない、こんな理性が揺らぎそうな状況で、この人は約束を思い出したのだろう。

 

「……考えておきます」

「あかん、今言うて」

 

 いやに真剣で、有無を言わせない態度にバクバク心音が大きくなっていく。この人は、自分に何を言わせようとしているのだ。

 自分が、この人に望むことなんて、ただ傍に、近くにいることを許してくれるだけでいいのに。

 

「来島」

 

 その声は、言いなりのように名乗らされた初めての出会いの時と同じく、隠し事などさせてもらえない、絶対的な響きだった。

 

「好きです」

 

 言うな、やめろと制止していた理性は、混乱した本能に呆気なく負けてしまって。

 

「返事はいらないんです、ただ、知っておいて欲しかった」

 

 慌てて取り繕っても、もう遅い。取り返しがつかないのに。

 田ノ上さんの驚きに見開かれた色素の薄い瞳は、やっぱり綺麗で。困ったように、口元に手をやった彼に、

 

「そんな顔せんといてください、困らせたいわけではないんです」

 

と、どの口がほざくのだろうかという台詞を吐き出した。

 

 何も言わない田ノ上さんと、何も言えない自分の間に沈黙が流れて、逃げ出したいのに身体が上手く動かせなかった。

 

「ほんで?」

「え」

「肝心の、お祝いの希望は?」

 

 俺が好きで、お前はどうしたいの。どうしてほしいの。

 悪魔の囁きのように、耳元で吹き込まれた言葉が、じわじわと甘い毒のように回って、眩暈がしそうだ。

 

「俺も、あなたのこと、恵さんって呼んでもいいですか」

「っはは、そうくる?」

 

 苦笑いで吹き出して、彼は今までに見た中で一番美しい表情で、

 

「ええよ、ただし二人きりの時だけな。そんな顔、余所でされたら敵わへんわ」

 

と言って、その美しい顔が、瞬きも許さずゼロ距離になった。

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