美しい男たちの話

石衣くもん

第1話 美しい声の男の場合

 

「好きです」

 

 よく通る重低音の、程好い甘さを加えたような響きに、思わず息をのんだ。

 ああ、とんだ場面に出会したものだ。あの堅物で有名な男、来島の色事に遭遇するとは。


 つい先程まで、同じ部署の新人二人で残業していた。集中力も切れてきたし、何より一緒に残っていたのが、いけ好かない同期の来島だったのだ。今日は諦めて明日頑張ろうと、奴を一人残して先に退勤し、会社の入り口を出たところで携帯電話を忘れたことに気がついた。

 のこのこ取りに戻ったら、きっとあいつに馬鹿にされるに違いないので、取りに行くか迷いながらも、結局、朝出勤してくるまで携帯電話がないのも困るからと、再び営業部二課の部屋に戻ったのだった。

 灯りは点いているが、来島がまだ中にいるかこっそり気配を消して伺おうと、部屋の入り口に近付いた時だった。告白の言葉が聞こえてきたのは。

 

「返事はいらないんです、ただ、知っておいて欲しかった」


 少し切羽詰まったような、聞いてる者の心臓の鼓動を急かすような声だった。その所為で、どくどくと自分の心音は速まって、呼吸の仕方を忘れてしまったように、息が上手くできない。

 勿論苦しい。吸って吐いてがままならないなんて。

 

「そんな顔せんといてください、困らせたいわけではないんです」

 

 その台詞を聞いた瞬間、音を立てないようにして、素早くその場を立ち去った。相手は誰なのかわからないが、どうやら戦況は不利のようだった。

 同僚の失恋現場を嬉々として見るような悪趣味な男ではないのだ、俺は。それが己がライバルの弱味を握れるチャンスであったとしても。

 あの、完璧主義で嫌みな程真面目な男が、恋に破れて泣いているところなど想像もできない。けれど、今の声は泣き出しそうに縋るような声だった。

 それが、頭から離れずに、部外者の自分まで悲しくさせるのだった。




 来島悟志は、自他共に認める美しい声の男だった。女子社員から


「来島くんの声って、子宮に響くのよね」

 

と、言われると

 

「それ、逆セクハラですか」

 

なんて返す、くそ真面目なお堅い奴だ。同期の中でも一番寡黙で、あまり周りと馴染もうとしないようなタイプだった。

 そんな態度が気に食わず、噛みつく自分を鬱陶しそうにいつもあしらっていた。それでも、めげずに突っかかっていき、あえなく撃沈するのはうちの部署のお決まりとなっていた。

 こんな無愛想な堅物に、営業成績を負けてたまるかと、持ち前の人懐っこさを武器に新人ながらそれなりの成績をおさめてきた。

 しかし、飛び込み営業禁止で、まずはテレアポが成功しないと直接営業に行ってはいけないという、うちの会社において、あいつの声は最大の武器だった。

 しかも、無愛想な所為で損をしているが、来島はわりと整った顔をしている。切れ長の目に、薄い唇、そしてあまり日に焼けていない白い肌。そしてそこに、子宮に響く声ときたもんだ。

 独特の色気といっていいのか、女性には大層受けが良く、同期の中では一番の好成績だったのだ。

 

 そんな男が、泣きそうになるくらいに好きになった相手とは、一体どんな女性なのだろうか。浮いた話はもちろん、女性に興味もなさそうなあいつが、あんな声を出すくらいの。

 あの部屋にいたということは、社内の人間には違いない。あの時、残っていたのは自分と来島の二人だと思っていたのだが、営業部二課の女性がたまたま戻ってきたのか、それとも違う部署の女性がやって来て勢い余って告白してしまったのだろうか。



 

「おはようございます」

 

 なんだかモヤモヤした気持ちを抱えたまま出勤したが、当の来島はいつも通り澄ました顔で

 

「おはようございます」

 

と、自分に挨拶してきた。相変わらず、麗しい低音ヴォイスで。

 ちらりと顔を盗み見たけど、特に目が腫れてるとか、泣いた形跡というのは見つからなかった。もしかして上手くいったのか、それとも、そもそも昨日見たのは、疲れている自分が作り出した幻だったのか。

 それとも、泣くのを我慢したのだろうか。

 

「えらい来島に熱視線送ってるやん、川本」

「あっ、おはようございます! ちょっと、朝から変なこと言わないでくださいよ、田ノ上さん!」

 

 やって来たのは営業部一課の田ノ上さんで、慌てて弁明する俺に、

 

「ただの冗談やろ、おはよう川本」

 

と、女性ならうっとり見惚れる笑顔を浮かべた。


 この田ノ上恵という先輩は、つい最近まで二課にいた先輩営業マンだった。所謂、イケメンと呼ばれる人種で、社内にファンクラブがあるとかないとか。正統派の美形で、ほんわかした喋り方に反し、中身はバリバリ体育会系の厳しさで、俺たち新人の教育係だった。半年前入社した時から、テレアポの仕方や営業の時に使えるトーク、この会社の規則なんかを、俺も来島もこの人から教わったが、三週間前に一課へ異動となったのだ。

 そのルックスを最大限活かして、営業成績もトップクラスだったから、一課には引き抜かれる形だったが、こうやって時間がある時には様子を見に来てくれる、面倒見の良い兄貴肌なのだ。

 

「来島も、おはよう」

「おはよう、ございます」

 

 田ノ上さんの挨拶に、あからさまに動揺した声を出した来島を不思議に思って顔を見れば、目を伏せて田ノ上さんの方を直視しないようにしていた。

 

「また、見てるやん。ほんまに川本は来島のこと大好きやなあ」

「もう、止めてくださいったら!」

 

 茶化すだけ茶化して、田ノ上さんは

 

「じゃあな」

 

と去って行った。

 まったくあの人は、と憤慨していた俺の隣で、か細い声が

 

「恵さん」

 

と呟いた。思わず振り向いてしまいかけた身体を、なんとか堪えさせて、俺は聞こえないふりをした。

 それは、あの時に聞いた、泣きそうな声と一緒だったのだ。

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