第11話 コーギー室長のお悩み解決法 ~彼の背景 後悔の始まり~
「ね、聞いた? 池村ってさ、城ノ浦高校の推薦、取れなかったんだって」
「知ってる知ってる。だってあいつコンクールとかで賞は取ってたけど、出す数が少なかったもんね。そりゃあ阿佐ヶ谷君の方が受賞歴も多いし、参加率だって高かったし、あっち取るよねぇ」
「上手いだけじゃ駄目だよねー」
朝一の美術部備品室で、自分の噂話をしている女子の声を聞いた。
彼女達はまさか俺が朝にここへ来るとは思わなかったんだろう。
大抵は放課後に来ていたし、母親の夜の仕事が休みの時くらいしか部活には参加できていないから、顔を合わせることも滅多になかった。
だから俺が備品室にいるのに気付かず、無意識に人の心を抉っているのだ。
俺は手にしていた古いキャンバスを床にそっと置いた。
卒業生が残していったものだから使って良いと顧問に許可を取った薄汚れた布張り部分に、じっと目を落とす。
今日も学ランの詰め襟が少しきつかった。
「でも池村って母子家庭でしょ? 家の事とかやってんなら、部活やってる暇なんてないっしょ。まじカワイソー」
「いや、でもさぁ。城ノ浦って県内じゃ唯一の芸術科あるとこじゃん。アイツがあそこ行きたいって言ってたの前聞いたよあたし。だから推薦狙いなんだろうなーって思ってたんだけど、あんまり作品出さないから、やる気あんのかなって思ってたんだ」
「あーそうなんだ。まあ本気で行きたいなら寝る時間削ってでもやるよねぇ。しなかったって事はそれほどでも無かったんじゃないの。知んないけど」
人の家庭の事情まで勝手に話し出す女子達に苛立たないわけはなかったが、俺はそれよりも周囲からこんな風に思われていたのかとショックを受けていた。
寝る時間を削ってでもやるなんて、自分だったらどうなんだと言いたくなる。
けど、こんな状況で出て行くなんてこと、俺にはできなかった。
だって言われた通りだったからだ。
「やー、でもあたしは阿佐ヶ谷君羨ましいわー。だって受験しないでいいじゃん!」
「あんたは受験したくないだけでしょ!」
「ばれたーっ」
他愛ない会話が数回繰り返された後、笑いながら部室を出て行く彼女達の声が遠ざかっていく。
たぶん画材を置きに来ただけだったんだろう。
備品室に入って来なくて良かったと、ほっと胸をなで下ろしながら、俺はその奥底で沸々と煮えたぎる何かを感じていた。さっきの女子達に対してではない、これは自分へ向けたものだった。
自業自得。
そんなのは分かっていた。
だけど分かりたくなかった。
今の会話を聞いて突きつけられたというのが本音だ。
わかっていたはずなのに頑張らなかったツケは、自分で思っていたより早くきた。
中学三年の二学期になって、俺はやっと自分がなりたいものを知ったからだ。
きっかけはあの苛立ちを覚えた美術顧問。
まさかと思った。自分でも。
でも、本当にあの人が俺にとって将来を考える始まりになったんだ。
今までは、人としてより単なる『先生』という記号にしか思えていなかった人なのに。
美術顧問の先生は確か五十代半ば。
どこか疲れた顔をした、だけど人の良い男性教師。
たぶん外を歩いていても、仲の良い生徒くらいじゃなきゃ存在にすら気付かない、そのくらい大人しく影の薄い先生だった。
だけど、ある日俺がコンクールに出すための下書きを持っていった時、彼が言ったのだ。
あの時と同じ夕闇が迫る日差しの中で。
職員室の机や椅子、置かれているもの達の影がはっきりとコントラストを浮かび上がらせた時、なぜかじっと俺を見据えて、先生らしからぬ様子で口を開いて。
「なあ、池村。お前『やらなきゃいけない事』より『やりたい事』もちゃんと考えろよ」
「―――え?」
数秒経ち、俺が聞き返した時には既に先生は普段と同じ穏やかな表情に戻っていた。
なのでその時は特に気にもせず、先生にも何も言わず部屋を後にしたけれど……周囲が受験というキーワードにざわつき始めた頃、俺はやっとその時先生が言ったことを理解した。後悔先に立たずとはこのことだった。
進路なんてなんとなくで選ぶ奴だっているだろう。
だけど俺にはおぼろげにもやりたい事があったのだ。ただそれに手を伸ばすのが怖くて、逃げ回っていただけで。
どうせなれないから。どうせできないからと、言い訳ばかりを見繕って。
愚かにも選択に迫られる時期になってやっと、俺は自分が何になりたいのかどうしたいのかを意識した。
そして気付いた。
いや違うか。気付くのが遅かった事に気付いた、の間違いだ。
もっと早く、もっと明確に出来ていたなら、幾らでも準備する事は出来た筈なのに、怠惰にもゆるやかな日常を選んで過ごしてしまったから。
せめてその時その時出来る事を背一杯やっていなら、今になって焦ることも後悔することも無かったはずなのに。
理解できた時には、自ら選択肢を狭めていた。
そのせいで、本当に進みたかった高校への推薦枠にひっかかることも出来なかったのだ。
しかもそれだけではない。
俺の『頑張れなかった事』への後悔は、この時から始まったんだ。
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