第10話 コーギー室長のお悩み解決法 ~彼の背景 マイナスからのスタートライン~

 ―――ゼロからのスタート、なんて言葉を最初に言ったのは、どこのどいつなんだろう。


「なあ池村よ。お前もう少し部活出てこれないか? 今度の美術展、お前なら結構良い線いくと思うんだよ。受賞出来たら推薦も受けられるし、どうにか……」


「すみません先生。家の事を、しないといけないので」


「そう、だよな……確か小さい弟もいるんだったか」


「はい」


 美術部顧問ごしに見える窓枠には、焼け付くような夕日がはまっていた。


 俺は力無く返事を返しながら、まるで一枚の絵画のようなその景色をぼんやり眺めている。


 学ランの詰め襟がキツくて、つい首元をいじってしまう。

 また身体が大きくなったのかも知れない。


 背が高くなりたいという思いはある。その方が女の子にもモテるから。

 が、制服のことを考えると素直に喜べないのが辛いところだった。


 ……買い換える余裕なんて、うちには無いからなぁ。


 逆光で影になっている美術部顧問の顔を見る。

 表情はよくわからない。あまり見たくないからかもしれない。


 話は文字通り右から左に聞き流している。


 無駄な話をするために呼び出されて、正直苛ついていた。


 ―――どうにもならないって、わかってんならどうして聞くんだよ。


 片手を見えないようにぐっと握り締める。

 したくても出来ないことを言われるのは、結構キツい。


 ……俺だって、家事なんかより部活に出たいに決まってんじゃねえか。

 なのに、どうしてわざわざ口に出すんだ。


 鬱屈した気持ちを秘めたまま、自分は悪くない筈なのに「すみません」ともう一度謝罪を口にして職員室を後にした。


 職員室前の長い廊下には濃い影が落ちていて、茜色の鮮やかな長方形が等間隔に並んでいる。


「帰ったら、晩メシ作らないとなぁ……」


 中学生らしからぬ台詞が口から漏れる。


 頭にあるのは冷蔵庫に今何が残っているかとか、くだらなくも重要な事だ。

 限られた食費で一ヶ月を回すのは中々頭も手間もかかるから。


 俺が家に帰ってまずやることといえば、ゲームでもなければ友達へのメールでもない。

 洗濯物を取り込んで畳み片付け、部屋の掃除機をかけて風呂の掃除に晩飯作りだ。


 そうこうしている内に、昼間の仕事から帰って寝ていた母親が夜八時に再び仕事に向かう。

 俺は弟と風呂に入って寝かしつけ、それから宿題をして朝飯の準備をしてから寝る。

 これで大体深夜零時くらい。


 毎日だからもう慣れた。

 けど中々絵を描く時間はとれていない。


 そりゃ『頑張れば』作れるだろうさ。

 そんな時間は。

 睡眠時間さえ削ればいいんだから。


 だけど、たかだか中学の美術部生活に、どうしたらそこまで力を入れる事が出来るんだ。

 ただでさえやることがあるってのに。


 俺だって部活に出たいさ。

 絵が描きたい。そんなの当たり前だ。


 だけど、家の事だってしなきゃならない。


 昼間学校に通って、帰ってから家の用事を片付け年の離れた弟の面倒を見たら、もうその時点でぐったりだ。

 俺はそんなに強くない。根性だって無い。


 ただでさえ、スタートラインがマイナスなんだ。


 俺も両親が揃っていて貧乏でなければ、自分の部屋に引き籠って絵を描いてたさ。

 コンクールにだって幾らでも参加したさ。


 だけど、今の俺はやりたい事に時間を費やすより、睡眠時間が欲しい。

 頑張った方がいいのはわかってるさ。


 だけどもし。


 もし、しんどい思いをして描いた作品が、賞を取れなかったら?

 取ったとしても推薦が貰えなかったら? 推薦を貰って美術枠で高校に入っても、今度はバイトとの両立が待っている。もしも、高校で美術顧問がアルバイトを認めてくれなかったら?


 そしたら、それまでの時間は一体何になるっていうんだ?


 ただ無駄なだけじゃないか。


 息子二人を抱えた母親は、掛け持ちの仕事をこなすので精一杯だ。

 なら俺が家の事をやるしかない。高校に入ったら家計を助ける方が優先になる。


 弟もまだ小学一年生。放っておくわけにもいかない。

 何より、アイツが中学になる頃は俺みたいな思いをさせたくない。


「……ゼロからのスタートなんて嘘だ。俺は、マイナスからだった」


 みんな最初はゼロからスタートしてる、なんて台詞を、テレビの芸能人だか体操選手だかが言っていた。


 だけど、そんなの絶対に違う。そんなのは恵まれた環境にいる奴だけが口にする綺麗事だ。


 俺は赤く染まった廊下を一人歩きながら、吐き捨てるように口にした。


◆◆◆


 池村良昌(いけむらよしまさ)という名で生を受けて、なんとなく自我が芽生えたころには、すでに父はなく母親は昼も夜も働いていた。


 小学校の高学年になった頃には自分の家はそういうものだと思っていたし、特に不満に思うこともなかった。

 それが当たり前だったからだ。


 だが思春期と呼ばれる時期に差し掛かり、自らの家庭環境と他人の環境を比べ見て、ふと不満を覚えるようになった。


 なんで俺は、普通のやつより『頑張らねば』いけないのかと。


 だってそうだろう?


 親が両方揃っていて、家のことを母親がやってくれる家だったら、俺だってもっと気兼ねなくやりたいことができた筈だ。


 だけど、そうじゃない。

 俺がやりたいことをやるには、他のやつよりもっと『頑張らないと』いけないんだ。


 そりゃあ俺みたいなやつはざらにいるってことは、中学にもなればわかる。

 だけど、どうしても許せなかったんだ。

 

 マイナスからのスタート。


 俺はそのマイナス部分を、努力して埋めなきゃいけないんだってことが。


「良昌(よしまさ)、お母さん仕事行ってくるから、良行(よしゆき)のことお願いね」


「…ああ」


 反抗期の子供らしく、知らねえよ、と言えたらどんなに良かっただろう。


 けれど玄関で靴を履いている母親の顔は疲れていて、そんな言葉を口にすらさせてもらえなかった。

 古いマンションの鉄製の扉が耳障りな音を立てて開き、母親は夜の街に出て行く。


 家賃の安い町営住宅。

 正直言って綺麗な住まいとは言い難い。


 勿論、自分の部屋なんてものもなく。


「にーちゃん、もう俺眠いよ」


「まだ寝るな。ほら、風呂入るぞ」


 目をごしごし擦る弟を連れて風呂に入った。

 頭を洗ってやって、学校であったことを聞いてやって。


 この時間も弟も嫌いなわけじゃない。


 だけどこの後に俺はこいつを寝かしつけて、宿題をしてから朝飯の支度をする。

 寝られるのはそれからだ。


 描こうと思えばそりゃ描けるさ。

 俺だってやれる時はやってる。


 だけど怖かった。

 このままでもただ暮らすことはできるのに、どうして努力して自分で自分をきつくしないといけないのかと。

 その結果何が待っているかもわからないのにと。


 単なる甘えだ。わかってる。

 頑張りたくないだけだ。


 わかってた。


 だから俺は結局頑張らなかった。

 やらなかった。何も。

 できた筈なのに。


 言い訳して。


 始まりがマイナスなんだからできなくても仕方ないのだと、逃げる口実を自分に与えた。

 そのせいで、後から気づく夢が遠ざかるとも気づかずに。


 ―――それを俺が思い知ったのは、やはり高校受験の時だった。

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