第9話 コーギー室長のお悩み解決法 〜彼の背景〜

 誰であれ、人には生まれたときからスタートラインというものが決まっている。


 十歩先にひかれている者もいれば、五歩先の者、もしくはマイナスの者もいたりと様々だ。


 自分がどうだったかを考えた時、五十を過ぎた今になってわかるのはやはり、俺はマイナスからのスタートであったという事実だ。


「先生、これでどうでしょうか」


 俺以外の教員がいない夕暮れの職員室に、凜とした声がした。


 それは直ぐ横に立つ『彼女』の放ったものだった。


 座って生徒の美術課題を採点していた視界の端に、白い紙が映っている。

 黄昏時の色を帯びてなお、白く輝く姿はまるで彼女自身を現わしているかのようだ。


 思わず目を細めてしまう眩しさに、心がぶすぶすと黒く焦げていく。


 焼け焦げた味が、口内に広がっていく。


 六度目になってもまだ彼女の筆の勢いは衰えておらず、出す回数に比例するが如く精度を増す感性には正直な所感心していた。


 だが、素直に認めるには、自分は人生の苦みを知りすぎている。


 机上の隅、積んだ書類の横に置いてある珈琲カップの中身は既に無く、底にはうっすらとセピア色の染みが滲んでいた。

 それでふと思い出す。柄でもないが、確か珈琲占いというものがなかったか。


 誰が教えてくれたのかは覚えていない。


 ただ、ほとんど残っていないこの染みの形は確か、あまりついてない一日になるという予言では無かっただろうか。


 確かに、今日はついてない日だった。


 こんな腹立たしい程の真っ直ぐさを、まざまざと見せつけられたのだから。


 普段は占いなど大して気にもしないのに俺は『また』責任を押しつけた。


 自分でもわかっている。

 愚かであることを。


 だからこそ、やめられないのだ。

 楽がしたいから。


 頑張り続けて、努力したその先がもしも望んだ未来では無かったら、かけた時間が無意味になってしまう気がして、走り出すことすらしないで地団駄を踏み続けた。

 その結果がこれだ。


 なのになぜ、彼女は『そう』しないでいられるのか。


 それが羨ましくて、腹立たしくて―――


 だから、あんな事をしてしまった。


 自分より頑張れている人間が妬ましいという感情を、抑えることができなかったから。


「はあ? 何コレ。 また何描いてきてんの? こんなの絵じゃないし」


 自分でも馬鹿馬鹿しいほどわざとらしく、彼女に言った。


 彼女は何を言われたのかわからないという顔をして、呆然と突っ立っている。


 五十嵐みち。母子家庭。

 帰宅後は昼夜働く母親の為に家事の一切をこなしているという。


 彼女の担任から聞いた話を、お涙頂戴かと吐き捨てるのは簡単だった。

 なぜなら自分は知っているのだ。

 知識として、知っている振りをしている。


 『もっと大変な子供は世界にごまんといる』のだと。


 だから五十嵐の苦労を苦労とは認めていなかった。


 その程度、食えて生活できているだけマシだろう、と。

 むしろ勉強か部活かどちらかに手を抜いているのだろうと思い込んで。


 けれどそうではなかった。俺の予想に反して、五十嵐は決して手を抜いてはいなかった。


 少し位、楽をしてもいいものを……。


 学力は校内でもかなり上位に居続け、上がることはあっても下がることは無かった。


 美術部での活動も元々好奇心が旺盛なのか精力的に参加していた。むしろ普通の部員より断然コンクールなどへの参加率は高いくらいだ。


 ……だからこそ鼻についた。

 

 今時の若者らしく自堕落に暮らしてくれればいいものを、彼女は一切そんな素振りを見せなかったから。


 俺達教師は生徒達に勤勉さを求める。

 やり方を教え、興味を引き、そして導くのが役目だ。


 けれど、全てが全てそうではない。


 ……いや、違う。

 自分は確かに人を導く仕事がしたかった。それは事実だ。


 現代の人間において学校というのは想像より大きな意味を持っている。その中で教師という部類は特にだ。

 

 俺は子供達に俺のような間違いをしてほしくなかった。だからこそ教師になった。


 けれど、こうも愚直なまでの真っ直ぐさで自らが成し得なかった『努力の姿』を見せつけられては、たまには過去の悔恨に引き戻されることもある。


 『彼女も、俺と同じマイナスからのスタートラインなのに』と。


 こう考えてしまったのは、きっと疲労のせいだけではない。


 俺が彼女の六度目の描き直しをシュレッダーに入れた後、五十嵐は呆然としたまま謝罪の言葉を口にした。


 自分でも屑だと思うが、その瞬間に湧き上がったのは後悔と―――そして高揚感だった。


 ふらふらと扉に歩いて行く彼女に、自分と同じになればいいという思いすら抱いた。


 しかし同時に、嫌悪感も感じた。

 勿論、こんな真似をした自分自身にだ。


 若さと真っ直ぐさに、嫉妬と羨望を抱いた自分はとんでもないことをしてしまったと、指先が冷たさで痺れていた。


 嫌みで気分屋だと生徒達に言われているのは知っている。それは一々細かい事を指摘するからだ。


 気分屋であることは……まあ否定しないが。それでもここまではした事が無かった。

 生徒とはいえ、人の創作物を引き裂く事など。


 俺はここまで矮小な人間だったのかと、最低な行為をした最低な自分に絶望した。


 ただ眩しすぎたのだ。

 目を瞑った瞼が、痛むほどに。


 部屋を出て行く彼女の力無い背中を見ながら、俺は当時の悔恨を思い出していた。


 学生時代、五十嵐みちと同じ学生だった頃の自分。


 扉が閉った後に再び珈琲カップに目を向けると、なぜか次第に記憶がぼんやりと遠ざかっていく気がした。


 飲み干した筈の濃茶の液体が、ごぼりとそこから噴き出すように湧き上がってくる。


「あ……?」


 一瞬、薄らと我に返りそうになったところで、湧き出したカップの中の液体がゆらり、と揺らめいた。


 『同じマイナスからのスタートライン、か。成る程面白い。ならば、その背景を見せていただこう』


 職員室の蛍光灯の光が濃茶の湖面に反射して、そこに誰かの瞳が見えた。珈琲よりももっと深い、黒い瞳が。


 まるで一流の奏者が弾き始めたコントラバスの音のように、太く低い、落ち着いた声が水底から響いて。


 そうして―――全てが、セピア色に染まっていった。

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