第8話 コーギー室長のお悩み解決法 〜他人の背景〜
人は。
失った時間を懐かしむと同時に、その刻を取り戻したいと願う。
歳を重ねれば重ねるほど、かつての悔恨を思い起こし、あの時ああしていれば、もっと努力していればと、当時の不足を嘆くのだ。
『自分が頑張れなかった時間』
自らが無駄にしてしまったその時を、有意義に、余すところなく成長の為に活かしている若人を目の当たりにした瞬間―――【彼】が何を思ったか。
そして【彼女】に、何をしたのか。
それはこの相談帖を読んでいる貴方ならばおわかりだろう。
ならばここで一つ、貴方に尋ねよう。
もしも、ただひたすらに前を向き、折れない人間を前にしたら―――【貴方】ならどうするか、と。
【彼】と同じようにその輝きを曇らせたいと、愚直なまでに真っ直ぐな精神をへし折りたいと。
そう―――考えずにいられるだろうか?
◆◆◆
「やあ、いらっしゃい」
明るい昼の光が照らす窓際で、英国式のサロンチェアに座る彼が言った。
「……ほんとに会えた」
「はは、第一声がそれかい?」
赤茶色した三角耳が、愉快げにぱたりと折れる。
それを見て、またここに来られたのだと嬉しさが増した。
確かに『また会えたらいいな』と思いながら眠りについたけれど、本当に出来るとは。
「だって、夢なら一度きりの可能性の方が大きいでしょ。また来たいなって思ってたけど、まさか本当に来られるなんて思わなかった」
私がそう言うと、コーギー室長は長い口元をふふ、と綻ばせた。
彼の衣装は前回と同じ探偵姿だったが、今日は長い鼻の上に丸い眼鏡を掛けている。
おかげで、ちょっとばかり老成して見えた。犬の見た目年齢については、知識は無いけれど。
小さな膝の上に帖面らしき物が乗っている。どうやら何か書き物をしていたようだ。
艶やかな漆黒と金のラインが美しい万年筆を、犬の手で器用に持っていた。
「今回はここ、お昼なんだね」
「そういう時もあるさ。だってここは……」
「夢の中だから、でしょ」
「ふふ、聡い女性は好きだよ」
「それはどうも」
小気味よく会話のキャッチボールを弾ませて、私とコーギー室長は互いにくつくつ笑った。
学校で友達と交わすのとは少し違う、自分がちょっとだけ大人になれたようなやりとりに、なんだか楽しい気持ちになる。
……なんだろ。
コーギー室長と話すの、穏やかなんだけどすごく楽しい。
友達と他愛ない話で盛り上がるのとはまた違って、ちょっとだけビターな感じの楽しさがある気がする。
「今日はね、君のお悩み解決法として、少々見てもらいたいものがあって呼んだんだ」
「見てもらいたいもの?」
「ああ」
コーギー室長はそう言うと、膝に置いてあった帖面と万年筆をサイドテーブルに置き、すとんと椅子から降りて壁際のミニキッチンへ向かった。
見れば、ちょうど抽出済みの硝子のサイフォンが、濃茶の液体を日の光に透かしている。その珈琲を通ったセピア色の光が絨毯に落ちて、ゆらゆらと踊っていた。
「みち。人間にはね、それぞれ育ってきた背景というものがある。学校という場所で見えているものを前面だとすれば、家に帰ってからや、もしくはそれまでの人生が背面と呼べるだろう。僕はそれを『他人の背景』と称しているのだがね」
「他人の……背景?」
室長は戸棚から食器を取り出しながら、世間話をするように話し始めた。
彼のふかふかの手には、カフェオレボウルがのっていた。
どうやら今日は前回とは違う珈琲を飲ませてくれるらしい。
コーギー室長の小さな手が手際良く動いているのを眺めながら、彼の言葉を復唱すると、オレンジの香りと共に頷きが返ってきた。
「そう。物事には全て背景がある。むしろそれを無くして全ての事は起こりえない。人間という生命に文明が与えられた事も、日本という国が腰元の刀から銃を持つようになったのも、悲しき大戦の始まりも、今日君の身の上に起った全ての事にも、必ず『背景』は存在している」
「……?」
なんとなく、わかるような、わからないような。
そう思いながら室長の横顔を眺めていると、先ほどまでオレンジの香りがしていたところに、珈琲の深く香ばしい香りがふんわりと、空気の中に混じったのに気がついた。
室長はキッチンの下部に作り付けになっている冷蔵庫から銀色のボウルを取り出し、中にあった白い塊をスプーンですくってカフェオレボウルに浮かべた。
「みち、君が父を亡くしている事や、家に帰った後で洗濯や掃除をしているように、君の心を折った人間にも、家に帰った後にする事や、これまで過ごしてきた五十年以上の時間という背景があるということだよ」
「五十年以上って……」
「そう。君の描いた絵を、心と共に無残にも切り刻んだ男のことだね」
何を作ってくれているのかと推理を働かせているところに、室長は誰を差しているのか明確に分かる答えをくれた。
それに一瞬だけ、あの時の痛みを思い出して胸が軋む。
コーギー室長の手は、最後の仕上げとばかりにカフェオレボウルの上で優雅に舞っていた。
「池村……先生が?」
彼が差している人物の名前を口にしてみると、室長はこくりと頷いた。それから、完成したらしいカフェオレボウル二つとスプーンを銀色トレイに乗せてちょこちょこ歩いて戻ってくる。
室長の顔は、珈琲の上に浮かんだホイップクリームみたいに、ほんわりした柔らかさに満ちていた。
「彼については僕が調べておいた。勿論、彼がしたことは決して許せるものではない。他人の夢や尊厳を踏みにじる権利など、誰にも無いのだからね。しかし、みち。もしかすると、君もいつか彼と同じ思いを経験することがあるかもしれない。これはある意味人生の勉強だよ。それに、知りたいとは思わないかい? なぜ池村良昌は、君にだけあんな真似をしたのか」
「それは……」
室長は笑顔でカフェオレボウルを私に手渡しながら言葉を続けている。
彼が作ってくれたのはホイップクリームのせ珈琲のようだった。
香りからしてオレンジリキュールも含まれている。
仕上げに何かしていたのは、クリームの上に細かく砕いたキャンディを散らしていたからだ。
室長の言葉を考える。
正直、思い出したいかと言われれば答えは否だ。
だけど、どうして先生が私にだけあんな態度を取ったのかは気になった。
確かに元々嫌みな先生だし、生徒に好かれているとは言い難いけれど、あそこまであからさまな事をしたことはなかったのだ。
悲しさと、憤りと、嫌悪とすら呼べる感情が交じり合っていて、自分でもずっと整理はついていない。
だけど知りたくないかと言えば、こちらも答えは否だった。
「これは君の悩みを解決するために必要不可欠な事だ。特に仲が良い訳でもない。むしろ攻撃されたに等しい人間の背景を知るのは、中々に勇気のいることだろう。しかし、だからこそ問おう。みち、君がほんの少しでも前に進みたいと願うなら、その悩みを解決するための糸口を、僕と共に探しにいかないか」
「室長」
「さあ、飲んでごらん。みち、今日の珈琲は格別だ。本日のメニューは『カフェ・マリア・テレジア』。オーストラリア公大妃のかの女帝については君もご存じだろう。これは彼女が愛した華やかで気品あるメニューだね。しかしやはりメインは珈琲。苦みは必ず含まれている」
カフェオレボウルからスプーンでクリームをすくい口に含むと、ふわりとした軽さとトッピングのキャンディの甘さが広がり溶けた。そして最後には深く香ばしいほろ苦さも通り過ぎていく。
その意味を知りたくて、目の前の椅子に腰掛けたコーギー室長の黒瑪瑙の瞳を見つめた時。
まるで珈琲の湖面の中に吸い込まれていくような感覚がした。
夢の海から、さらに深い底に落ちていくような。
そうして全ては―――濃いセピア色の世界になった。
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