第5話 描けない少女と飾られた絵


「とまあ、それから絵が全然描けなくなっちゃったの。悩みって言えばそのくらいかな」


 あまり思い出して楽しい話では無いので、なるべく明るく言った。


 コーギー室長はあれから私を落ち着いた雰囲気の布張りソファに座らせ、自分も向かい側にあったソファの真ん中にちょこんと座っている。

 そして時折、骨ガムパイプに手をやり、ふむふむと頷きながら話を聞いてくれていた。


 夢の世界でも時間はちゃんと経過しているのか、窓の外はもう夜の帳がおり、空には星々が煌めいている。


 普段ならお母さんが仕事で不在の中、一人で食事を取っている時間帯だ。食べたら洗い物を片付け、お風呂に入って一人で眠るのがあたしの日課。


 ああでも。

 『あの頃』だけは、一人じゃなかったなぁ。


「―――なるほど。そのくらい、で片づけるには少々難しい悩みだね」


 ふと懐かしい面影が浮かんだところで、コーギー室長の言葉に意識を戻した。

 どうやら、私の言い方が気に掛かったようだ。


「そう、なのかな? でもね、確かに先生のした事がショックだったのもあるんだけど、その時気付いたこともあったの。ああ、私って、褒められたくて絵を描いてたのかな? って。きっかけは確かに褒められたからだったけど、途中からはただ絵が好きで描いてたはずなのに、いつから人の言葉を気にするようになっちゃったのかなぁって、なんかそんな……自己嫌悪みたいなのもあって。だから、先生にされた事だけが原因じゃない気もするんだ」


「ふむ。人のせいにしないという君の性質はとても素敵だね。不器用で、不格好だが美しい。しかし、とても損をする」


「あー、うん。自分でも器用な方ではないと思う」


「僕にはとても好ましいがね」


「あはは、ありがとう」


 例え相手が探偵姿の犬だろうと、誰かに好ましいと言われて悪い気のする人間はいない。むしろ可愛らしいコーギーが相手となれば、ちょっと照れくさいくらいだった。


 沈んだ気持ちに、一瞬爽やかな草原の風が吹いたような、嬉しいのにそんなむず痒い気持ちになる。


 こんな風に心の傷をさらりと話してしまえたのは、やはりここが夢の中だからだろうか。それとも室長の穏やかな雰囲気と、あの黒瑪瑙の瞳が持つ不思議な光のせいだろうか。


「話してくれてどうもありがとう。さて……喉が渇いただろう。みち、君はコーヒーはお好きかな? と言っても、ここにはコーヒーしか用意がないのだが」


「甘めなら飲めるよ。ミルク多めだと嬉しいかも。でも、犬……じゃない、室長ってコーヒー飲んでも大丈夫なの?」


「かまわないさ。なんと言ってもここは夢の中だからね」


「そっか。じゃあお願いしようかな。砂糖とミルク多めで」


「了解した。ならば出来上がりまでゆるりと寛がれよ。お嬢様」


「お嬢様って……私の柄じゃないなあ。でも、ありがとう」


 まるで英国紳士みたいな態度にちょっと苦笑いする。


 だって見た目はどう見てもあの胴長短足コーギーなのだ。探偵服を着ていて、直立不動(ズボンの丈がすごく短い)で歩いているけど。

 見た目と言動がアンバランスで、すごくシュールだ。


 室長はソファからとんっと絨毯の上に下りると、とことこ壁に向かって歩いて行った。


 部屋に入った時は気付かなかったけど、作り付けの本棚の間、花柄の壁紙のかなり下に簡易キッチンがあったらしい。高さがコーギー室長に合わせてあるからか、私の視界からは外れていて見えなかったようだ。


 木目と青いタイルの綺麗な小さなキッチンで、大きさはちょうど室長二人分くらいの幅だろうか。


 室長はキッチンについている戸棚から珈琲ミルと焦げ茶色の袋を取り出し、短い手で器用に袋の口を開けた。

 袋には黒く小さな楕円形の粒が沢山入っていた。たぶん珈琲豆だろう。


 室長は豆を木製スプーンでざっと掬うと、年季を感じさせるミルに入れてがりがりと豆を挽き始めた。濃く飴色になったミルの持ち手が赤茶と白の毛に包まれた手でくるくる回されている。


 室内に、ほんのり薄く香ばしい香りが漂った。


 私からは豆を挽くコーギー室長の横顔が見えている。

 犬が珈琲ミルをくるくる回している姿と室内に漂う香りは、なんともまったりした気分にさせた。

 こんなに寛いだ気分になれたのは、とても久しぶりだ。


 コーギー室長はやがてミルを回していた手を止めると、キッチン下からどこか科学的な趣のある硝子のサイフォンを取り出した

 フラスコだったりロートだったりと、私も小説でサイフォンについては読んだことがあるけれど、実際に目にするのは初めてだった。その形状から、ちょっとだけ理科室を思い出す。


 私がぼんやり眺めている内に室長は手早く準備を済ませると、アルコールランプに火を点けフラスコ部分を暖め始めていた。

 

 やがてフラスコの底からポコポコと水音がすると、フィルターをセットしたロートに手挽きした珈琲粉を入れて、フラスコに差し込む。

 ロートにお湯が上がっていき、透明な硝子に濃茶の液体が抽出されていく様はとても綺麗だった。


 ちんまりした身体なのに手慣れた仕草は、見ていて感心するほどだ。


 豆を挽いていた時とは違う深みのある香りを堪能していると、私が座っていたソファの前、小さめのテーブルに白い薔薇柄の珈琲カップが置かれた。


「……待たせたね。さあ、召し上がれ」


 珈琲カップとソーサーを手に取ると、カチャリと陶器の音が手に響いた。

 深い濃茶の湖面がゆらゆら揺れる。立ち上る湯気に混じる香りは、芳しいという表現が似合う。


「いただきます」


 サイフォンで抽出した珈琲なんて、小説の中でしか知らないからわくわくした。


「砂糖とミルクは、大丈夫かい?」


 そのまま口元に持っていこうとすると、既にソファに腰掛けていた室長に尋ねられた。

 小さなテーブルの上には、カップと同じ白い薔薇柄のシュガーポットとクリーマーが置かれている。


「最初はそのまま味わった方がいいかなって」


「ふむ。何事も挑戦は必要だね」


 コーギー室長はそう言って、ふっと瞳を緩めた後、自分のカップに口を付けた。長い口なのに器用に飲むな、と思いながら、私も自分のカップに口を付ける。


「……美味しい」


「だろう? 何しろ、この私が淹れたんだからね」


「謙遜しないんだ」


「自信があるものについては、謙遜は時として自分を卑下することになってしまうからね」


「なるほど……」


 他愛も無い会話と、美味しい珈琲。


 まさか夢の中で、こんなに楽しいひと時が過ごせるとは思わなかった。

 少々雑多ではあれど、壁をぐるりと取り囲んだ作り付けの本棚や並んだ本達、外国製のランプや置き時計に書斎机も、こうしてみるととても素敵だった。絨毯の上に転がった紙くずでさえ、ちょっとしたアクセントに思える。


 そんなことを思いながら、珈琲片手に部屋を眺めていると、突然一つの絵が目に入った。

 

 果物模様の金縁が美しい、小さな額に飾られている絵。

 さっきまでは無かったと思うのに、その絵はいつの間にかそこに出現していた。


 これって夢なんだよね。

 なら、そんなこともあるのかな。


 特に不思議に思わず、飾られている絵をじっと見て――――あまりに強い既視感に、私は驚いて目を見開いた。


「あ、あれ……」


 そして、珈琲カップを持ったまま、目の前に座る探偵姿の犬を凝視する。


「ああ、綺麗な絵だろう? 僕はとても気に入っているんだ。あれの描き手は年若い少女でね。もちろん技巧なんてものは無いが、彼女の心根が良く出ている。とても爽やかで、清々しい、気持ちの良い絵だ」


「どうして……ここにあるの」


「さあ? どうしてだろうね。ただ一つだけ知っておくといい。みち、君の絵をとても楽しみにしている存在が、世界に必ずいるということを」


「そんなの……」


「いないとどうして言える? 君は君の絵を見た人が感じた気持ちを感じ取れるのかい? 誰がどう思うかなど誰にもわからない。それは一人に限定されることではないものだから。たとえ耳にしなくとも、声で聞こえずとも、君の描く絵が好きで、待っている存在がいる。誰であろうと否定できないさ。たとえ千々となった絵でも愛しいと思っている君のファンは、君がまた描いてくれることをずっと願っているよ」


 コーギー室長は、黒い瑪瑙の瞳でじっと私を見ながら、珈琲の香ばしい香りが漂うなか言った。


 壁に飾られていたのは、あの時先生にシュレッダーに入れられ刻まれた筈の―――私が描いたあの『六回目の描き直し』だった。


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