第4話 少女が描けなくなった理由
―――絵が上手いだとか下手だとか。
そんなのは、小さな頃に誰でも言ったり言われたり、あっただろう。
私もそうだった。
でも、自慢でも何でも無く本当に、絵に関してだけは褒められる事の方が多かった。
だから調子に乗ってしまったのだろう。
私の名前は、五十嵐みち。
たぶん人から見れば、ちょっとだけ絵が得意な、どこにでもいる中学生だと思う。
小学三年生の頃、図工の授業で先生やクラスメイトに鶏の絵を褒められた私は有頂天になった。
母子家庭で母一人子一人。
家計を支えるために仕事をかけもちしていた母は、忙しさと疲労もあってか家に居るときはいつも寝ていた。
学校に行く時に帰ってきて、眠るときに仕事に行っていた母。
女手一人で育ててくれていた。それは今も変わらずで。
だけど、そのせいで母との会話は手紙の上でするのが多かった。
白い紙に書いてくれる『ありがとう』の言葉は十分嬉しかったけれど、私はそれよりも、母に褒めて貰いたかった。
謝罪を含んだ感謝の言葉より、ただ『すごいね、えらいね』と言って撫でて欲しかったのだ。
……でも一人で寂しい思いをさせているという罪悪感の為か、母からその言葉を貰えることはなくて。
でも絵を描けば、皆が褒めてくれた。
先生も、友達も、家の為にしている掃除や洗濯じゃなくて、私自身が好きでした事を褒めてくれた。
それがとても嬉しかった。
あの時初めて皆に褒められた鶏の絵は、小学生の『動物絵画コンクール』で金賞を取った。
おかげで、私は父が亡くなってから初めて母の笑顔を見ることができたのだ。
母は『貴方は絵が好きだったお父さんにそっくりね』と言って頭を撫でてくれた。
そして久方ぶりに、すごいね、頑張ったね、と私を褒めてくれた。
元々絵が好きだった私は、そのことがあってから絵を描くことが余計に好きになった。
それから私は描き続けた。
当時は新聞に挟まっている広告の裏面だったり、落書き帳だったり、とにかくどんな紙であれ描けるものなら何にでも描いた。
絵を描くことが趣味という友達もどんどん増えた。趣味のランキングでは基本五位以内には入っている部類だったのも理由なんだろう。
そんな私は、中学で美術部に入った。
一年の時はただ楽しかった。一番下だから上級生が可愛がってくれたし、うちの学校の美術部は女の子ばかりだったから異性にも関わらずに済み平和だった。顧問の先生も優しい女性の先生だった。
だけど。
二年生になって。
「―――はあ? 何コレ。 また何描いてきてんの? こんなの絵じゃないし」
「……っ」
嫌悪と侮蔑の混じった低い声が、職員室に響いた。
秋の終わり、夕日も沈みかけているせいか、室内に他に人の姿は無くて。
五十も半ばだという、皺と血管の浮いた先生の手が私の描いてきた画用紙の端をぐしゃりと潰した。
同時に大きな溜息を吐き出しながら、そのまま机の横にあった四角い灰色の箱の上に持っていく。
まるでそうするのが、当たり前みたいに。
私はそれを動けずにただぼうっと眺めていた。
雨のように筋の入った入り口に、私の描いてきた画用紙が差し込まれる。
そしてガーっという機械音と一緒に、じゃりじゃりいいながら画用紙は箱に吸い込まれていった。
下の透明な箱に千々に切られた絵がまるで素麺みたいに流れていく。
私の頭は真っ白になっていて、驚いているのか悲しんでいるのかもわからない。
ただ、一歩たりとも動けなかった。
「あのさあ。六回も描いてこんなんなら、部活なんてもうやめれば?」
憎々しげに侮蔑を込めた目で言われた言葉を、頭が上手く受け取ってくれない。
仮にも教師、そう、相手は先生なのだ。
私が入部している美術部に今年から顧問となった人。
中年の男性教師で、家族はいるらしいがあまり話した事が無いので特には知らない。
本人が言うにはベテラン教師らしかった。
「すみま……せん、でした」
奥歯を噛み締め両手を握り締め、なんとか絞り出せたのがこの言葉だった。
どうして謝らなければいけないのかわからないまま、ただ相手が欲しているだろう言葉を告げた。
俯いた私の視界に、先生のグレーのスラックスと、とんがった革靴が見えていた。
六回目の描き直し。
その末路は、灰色のシュレッダーにかけられ千々にされることだった。
中学二年、相変わらず忙しい母の代わりに炊事洗濯をこなしながら、それでも部活にはちゃんと参加していた。
最低限の出席だったことは否めないが、課題は必ず提出していたし、コンクールなどにも他の部員より積極的に参加していた。だるい、と言って部活をサボる子の気持ちがわからなかった。
だって、絵を描くことが大好きだったからだ。
好きだから、疲れていようが、睡眠時間が削られようが、描いて、出していた。
だけど私の描く絵は、先生にはお気に召さなかったらしい。
去年までの顧問の先生は、よく褒めてくれたけれど。
一体自分の何が駄目なのか、てんでわからなかった。
描き直しを言われて、六回目の提出になった今日。
残業で残っていた先生に何度もすみません、と謝罪の枕詞をつけて描いた絵を見せた。
先生は見た瞬間、太い眉を歪に歪め、まるで汚い物を見たような顔をした。
舌打ちをして、先ほどの台詞を言い捨て、机の横にあったシュレッダーに絵を入れた後に言われた「部活やめたら?」の言葉に、私の中の何かが壊れた。
夕暮れの職員室で何度も頭を下げて、自分の上靴と先生の横顔を繰り返し見て、手であっち行けと促されるままに部屋を出た。
夕日と濃い影が窓枠の形を廊下に浮かび上がらせていて。
私の足の指先と頭が、寒さで痺れるように温度を失くしているのがわかった。
シュレッダーで原型を失くした自分の絵。
その光景が、脳裏に焼き付いて。
―――そうして私は、この日から絵を描けなくなってしまった。
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