あなたの骨を透明にします。だから、

咲いた咲いた咲いた

あなたの骨を透明にします。だから、

新宿で中央線に乗り換え、30分程電車に揺られて立川駅に降り立つ。改札を抜けると、がたいのいい男がスマホ画面をちらちら見ながら辺りを見渡していた。元々LINEで伝えられていた外見とその男が一致していたため、構内を横断する人の流れに直行して男の方に歩み寄る。向こうもこちらが探していた人物であると気づいたようで、画面を暗転させたスマホをボディバッグにしまいながら片手を軽く上げた。彼はさわやかに笑いながら、私に軽く自己紹介をした。

 家までは歩くと30分程掛かるそうで、駅のすぐ近くの駐車場に停めてあるという男の車に乗せてもらうことにした。

 男は運転にあまり慣れていないと言っており、確かに、車を走らせ始めると途端に表情が固くなっていた。初めて会う人が運転する車の助手席はどうも心が落ち着かない。新車の匂いと沈黙で悪くなった空気が不快感を一層強めていた。

 バックミラーに映る男の顔を目の端で捉えながら、先ほど電車の中でしていた考え事の続きを行う。

 やはり私の存在は、彼ら近親者たちには不審に思われているのではないか。カナデさんの遺志を尊重したいという彼らなりの考えもあり、彼女の遺骨は私に渡されることとなった。彼女の遺体は既に焼き終わっているそうだ。後は、私が彼女の遺骨をもらうことで、ご家族の元からカナデさんの体が完全になくなってしまう。

 男は難しい顔をして、なぜ遺骨全てをこの人物に渡すことになったのか、自分達はカナデさんから信頼されていなかったのか、それとも自分達が全く知らないところで家族や恋人も超えて深い関係を築いていた存在がこの人物なのではないか、と考えているのかもしれない。ぎこちなくハンドルを握る彼には、言葉を選んでそのことを私に尋ねる余裕はなさそうであるが。

 私がこうしてカナデさんの遺骨を全て預かることとなった全容を知るためには、彼女との不思議な出会いと奇異な会話について、私以上に深い理解をする必要がある。


 それは、今から三カ月程前、冬に差し掛かった日のよく晴れた昼下がりのことだった。私は大学に入ってからというもの引きこもり一歩手前のような生活をしていた。幸い比較的裕福な家庭に生まれて実家暮らしで大学まで通っていたため、ちょっとした物欲を補うため以外ではバイトをする必要もなかった。ベッドに寝転がったり椅子の上で体育座りをしたり、ころころと姿勢を変えて本を読み、家族と挨拶程度の言葉を交わし、たまに人として社会と関わる生活をする。そんな精彩に欠けた毎日で若い時間を消費していることに危機感を覚えた私は、月に二度程、暇な平日に重い腰を上げて定期券内の駅の街を散策することを自分に課していた。

 その日も、いつものように街をぶらぶらと歩き、ウィンドウショッピングをして時間を潰していた。2時間もすると人がそこかしこにいることに疲れてしまう。そういう時は決まって目についた商業施設の屋上に行くこととしている。新宿や渋谷程の大都会であれば、屋上に行っても人で溢れかえっており、心を休ませることもできないが、ここのような中の上くらいの街では、どこの屋上も決まって閑散としているのだ。

近くの商業施設の階段を上り切ると、雲一つない青空と鼠色のコンクリートの地面に天地を挟まれ、緑色の金網で四方を囲まれた無骨な屋上の空間が目に映った。外へと開かれた扉から覗ける景色は閑散としており、遠方の東京タワーを望むように一台のベンチが置かれているのを見つけ、私はそこで小休止をすることにした。覚えたてのタバコに火をつけ、最近お気に入りの曲を口ずさむ合間にスローペースで煙草を吸い始めた。ビル街の上を吹き抜ける風が随分と冷えて澄んでいた。

 都心の超高層ビルと比べると幾分も低い建物ではあるが、それでもこの町では一番高い建物であり、屋上からは辺りを一望することができた。平日の午前中ながらも同年代らしい若者の姿がいくらか散見されたが、それも含めてこれと言って変わったことのない街並みである。地上の景色は、葉のない街路樹を中心に据えた大通りが一際目立って見えた。大通りを辿るように体をひねって視線を動かしていると、屋上の隅に立つ一つの影が視界に映り込んだ。自分一人だけの世界だと思い込んでいた私は、意識外から突然現れた存在に驚き、鼻唄まじりに口ずさむのもやめてしまった。人影は、私と同じくらいの歳の女性のもので、こちらには目もくれずに、胸の高さまで手を掲げ、掌に乗せた何かを真剣に見つめていた。彼女は、屋上の入り口から見て、ちょうどドアで死角となるような場所にいたらしく、それが原因で見つけることができなかったようだ。

 彼女は私が視界に入らないような方向に顔を向けて、集中した様子で掌に載せた白い物体を見つめていた。私は次第に彼女に意識を奪われていった。注意して見ると、彼女は右手の掌に薬包紙のような一枚の薄い紙を乗せており、その紙の上でなだらかな山を形成している白い粉を見つめていること分かった。彼女の浮世離れした雰囲気から粉末状の違法薬物の山ようにも思えたが、彼女はビル風が山を切り崩しても気にすることはなく、じっとしていた。

 彼女がこちらを振り向きそうにないのをいいことに、私は遠慮なく観察を始めた。彼女を眺め続けていると、次第に不思議な感覚に襲われた。彼女は今あの場所に立っていながらも、あそこには存在していないかのような、奇妙な非実在性を感じたのである。

指がほんのりと温かくなっていることに気付き、手元に目を向ける。煙草の火が肌の近くまで燃え進んで指を熱し始めていた。ほとんど燃えカスになった煙草を地面に捨て、足で火を躙り消す。私がこのような行動を取る間も、彼女はこちらを意識している様子はなかった。彼女は黒いコートにグレーのマフラーを巻いていた。顔を見ようと視線を頭に集中させていると、突然、彼女の手元の白い粉が正面に吹き上がり、宙に舞った。どうやら、彼女が粉の山に向かって息を吹いたようで、粉塵は軽やかに風に乗せられて、煙のように街の空に溶けて行った。彼女の行為の意味は上手く理解できなかった。しかし、あの粉は何か曰く付きの物体であって、ああして風に混ぜ込んで消してやりたいものなのであろうと根拠なく思った。彼女は、残った少しの粉と一緒に薬包紙のような紙を吹き飛ばした。粉のように空気に混ざることのできない薬包紙は、ひらひらと舞いながら、街中のゴミへと変わっていった。彼女は空いた右手を上着のポケットに突っ込んで、そのままの姿勢で街を眺めていた。あの物体がもし本当に薬物だとしたら、かなり高額なものではないだろうか。そんなものをなぜ吹き飛ばしてしまったのだろうか。薬を断とうとしているのだろうか。

 そんなことを考えていると、彼女がこちらにちらと目を向けた。図らずも、彼女の深い瞳と私の視線が交差する。彼女は、本当にこちらをちらと一瞥するだけのつもりだったらしく、再び視線を正面に戻そうとしていたが、私が自分を見つめていたことに気づいたようで、驚いたような表情でこちらを二度見した。

 この屋上には私達二人以外誰もいない。いつもの私ならば気まずく思いなあなあにするようなこの状況を、今日の私はなぜだか好機と捉えた。ベンチから立ち上がり、彼女の方に近寄りながら上着のポケットに手を突っ込み、中のものを引き出した。そして、彼女の二三歩手前で、

「良ければ吸います?これ」

と手持ちのラッキーストライクを差し出しながら、思い切って声を出した。

 煙草を手渡しできる距離まで近づいてみると、彼女は私と同じくらいの年齢であることが分かった。一重であるものの存在感のある目にすっきりと通った鼻筋、少し長い人中に程よく薄い唇がついていた。

 彼女は、無言で目を白黒させ、おずおずと私の差し出した煙草に手を伸ばした。

「火ぃもらっていいですか」

 随分と澄んだ声だった。私は少年期以来の格好つけを拗らせており、ライターではなくマッチを常用している。上着の胸ポケットに手を突っ込み、マッチ箱を彼女に差し出そうとして、あることに気づいた。彼女の左腕は、生地が重力に引かれるままにぶらんと垂れ下がっており、裾からは何も出ていなかった。彼女は左腕がなかったのだ。私がマッチを箱から一本取り出すと、彼女は煙草の箱を慣れた手つきで振り、ちょうどよく箱から飛び出した一本を口に咥えてこちらに突き出した。マッチを擦り、緊張で硬くなった手つきで彼女の煙草に火をつけてやると、彼女はふっと肩を揺らして笑い、微笑を浮かべた。

 こうして私と彼女は知り合った。彼女の名前はカナデと言うらしかった。

 カナデさんが煙草を吸ってからしばらく、二人の間には沈黙が流れていた。初めて会った人と共有する沈黙にしては、やけに落ち着く時間だった。ラッキーストライクが半分程灰になった頃、

「さっきのなんだったんですか」

と、特に身構えることなく聴くことができた。

「なんだと思う」

 カナデさんは表情を変えることなく、間を置かずに私に聞き返した。

「危ない薬か何かですか?」

「危ないのは正解だよ」

 話したくないためにこういう態度を取っているのではなく、相手が強く興味を持って尋ねてこなければ詳しく教える必要性を感じないというような心境なのだろう。実際、突然深く立ち入られそうになったら嫌がるのだろうが。

「だから、その、こっちの方が堂々と吸えるだろうから、こっちにハマった方がいいと思って」

 そう言って、彼女が咥えていた煙草を指差した。カナデさんは、なにそれ、と薄っすらと口元を歪ませて、

「本当に危ない薬吸ってる子にそういうこと言わない方がいいよ。嫌われちゃうかもしれない」

と呟き、煙草を捨ててこちらに向き直った。私より頭一つ分背が低いカナデさんは、上目遣いになりながら目を細めて私の顔を見ていた。

「これはね、人骨なの」

「人間の骨ですか」

「うん」

「散骨ってやつですか」

「そうだね」

 散骨と言えば、海や所縁のある山など、大自然の中で行われるイメージがある。こうして街中で行われるという話はあまり聞かない。そもそも人の生活圏で公に散骨をすればなんらかの罰則を受けそうではあるが、そもそも死んだ後にまで社会の中に骨を埋めようという人もあまりいないのかもしれない。

 散骨となれば、当然誰の骨なのかという疑問が生じてくる。私が死んだら街の空に骨を撒いてくれ、とカナデさんに伝えた人がいるのか、などと考えていると、

「これね、私の骨なの」

と、カナデさんが衝撃的な発言をした。彼女は自分の左腕の袖を掴み、ゆらゆらと揺さぶってみせた。私は、彼女が彼女自身の左腕の骨を撒いているところを見ていたのである。


 それから、私達は屋上から立ち去り二人で街をぶらぶらと歩いて遊んだ。カナデさんはその中で、ぼつぼつと自分のことを話してくれた。

 最初こそ、なにか躊躇している様子であって、目の前にある商品を話題に当たり障りのない会話をしていた。しかし、一度、

「骨を撒いていたのではなく、世界が内包する空気という流体に私の焼け残りを溶かしこんでいた」

と口にすると、それ以降は私の質問を待つような素振りを見せ始めた。

 わざわざこうして街中で骨を捨てるのは何か意味があるのか、と尋ねた。カナデさんは、街中という場所に拘りはないと言っていた。むしろ、街や海、山など、特定の場所に拘れるってしまうと、世界に上手く溶け込まないような感覚があるらしい。

 また、骨を砕かずに墓に埋めてはいけないのか、どこかに埋めて自然に還す方が手っ取り早いのではないかとも尋ねた。まず、墓に埋めるというのは論外の行為だそうだ。そして、どこかの目立たない場所に埋めるというのも、なかなかいい選択ではないそうだ。カナデさんも尺骨を持って秩父線に揺られたことがあるらしいが、いざシャベルを手に持ってサクッと穴を一掘りして出来た穴に尺骨を置いてみたところ、その骨に土を被せる行為を思い描くと、自分が骨を捨てているという事実に向き合わされてしまう。一度そう考えてしまうと、なかなかその骨が世界に混ざってくれるという感覚にもなれなかったらしく、結局尺骨とシャベルを鞄にしまって、何もせずに家まで帰ってきたそうだ。

 私は、この時はまだカナデさんの考えを肯定的に捉えることはできていなかった。

 カナデさんと巡る街並みは普段より楽しかったが、街並み自体がいつもと違って見えると嘯ける程、彼女との世界に溺れることはできていなかった。

 客入りの少ないハンバーガー屋で昼食を取っていると、カナデさんは散骨のことについてぼちぼち話してくれた。

 死んだ後自分の骨はどうなるんだろうか、とカナデさんは言った。

「私たちの骨は、どうすれば一番綺麗になくなってくれるんだろうね」

 彼女曰く、現状最も良いと思われる方法が先程の散骨のような方法なのだそうだ。彼女はあの時、屋上で何か考え事をしていたそうだ。考え事の中で骨を世界に撒くのが、カナデさんなりの正しい所作らしい。それも、一度に撒く骨の量はあの薬包紙で包めるくらいごく少量の方がいいそうだ。

 カナデさんは、粉末状にした骨の一部を薬包紙の中心に置いて零れないように織り込み、小さいポリ袋に入れていつも持ち歩いているらしい。そして、何か立ち止まって深く考えたいような悩み事がでてきたら、薬包紙を先ほどのように掌に乗せる。

暫く熱中して考え事をしていると、次第に自分の思考では絶対に立ち入られそうにない領域があることを感じられてくる。それは果たして、ノーベル賞を取るくらい頭が良い人なら踏み入ることのできる領域なのだろうか。また、人間という種には思考できないものなのだろうか。そういうことを考えていると、ふと自分の肉体の感覚が完全に消えていた時間があることに気づく。それと同時に胸の前に掲げた掌を見るそうだ。その時点で彼女自身の粉がもう既に風に飛ばされてなくなってしまっていたとしたら、それで骨は綺麗に存在を消して見せたということになる。もし残っていたら、ふっと息を吹いてみる。目の前に綿毛があったから息を吹きかけてみるような反射的な行動として、思考を廃してパウダー上の骨の山を吹き飛ばしてみる。そうして、自分の燃え残りを肉や体液が消えて行った世界へと溶け込ませる。今のカナデさんには、こうやって世界が向こうから骨が溶かしてくれるのを待つくらいしかよいやり方を思いつかないらしい。

 そう言った話が終わると、カナデさんは磨りガラスを見つめながら余韻に浸り始めた。

「さっきの歌、良い歌詞だね」

「ああ、聞いてたんですか」

と私は答えた。一人でいる時の油断した歌声を他人に聞かれるのが往々にしてそうであるように、この時の私もやはり恥ずかしかった。

「透明なものって何なんだろう。もしかしたら私がなりたいものも透明なのかもしれないね。でも、透明になりたいと思って自覚的に行動をしたとして、その結果透明になれると思えないや」

とカナデさんは言った。

 この発言を聞いて、なぜ彼女が自分の骨を墓に埋めようとしないか、そして、なぜここまで骨の処理方法に拘っているかがなんとなく理解することができた。

 私は、カナデさんに私なりの考えを話してみた。彼女は私の拙い話を真剣に聞いてくれた。当時の私はこの手の思想に疎く、偏った経験に寄り過ぎた論拠を並べ立てて話をしていた。それでも、飛躍した論理になっていないか、彼女に寄り添い過ぎた意見になっていないか、そういうことが頭の中をぐるぐると廻りながらどうにか語り続ける私の話を彼女は真剣に聞いてくれていた。私が最後の言葉を言い終え、もごもごと口籠っていると、

「そういうこともあるかもしれないね」

と、カナデさんは切ない表情で目を細めて微笑んでいた。彼女の表情から自分が間違ったことを言ったのではないかとそわそわする私を見てさらに続けた。

「私が好きな詩があってね。私たちの魂は一度自分の社会を選んでしまうと、もう二度と他の社会には関心を抱かなくなるんだって。もし、人と交われないような社会を魂が選んじゃったとしたら、その魂の持ち主は一生孤独になっちゃうのかな」

 そして、自分の燃え残りを世界に溶かし込むことで、私の魂が宿っていない私の肉体を魂が選んだ社会へと送ってあげることができると思っている。カナデさんはそう言って微笑んでいた。

私たちはハンバーガー屋を出て、午後も街をぶらぶらとしていた。一人では決して立ち入らないようなブティックや用途不明の雑貨で溢れかえっている店などを回り、私は安っぽい手作りの金属製キーホルダーだけ買った。

 ネットで有名なクリエイターの個展を見て、屋外に出ると、既に日が暮れ始めていた。茜色に染まるビル街を見て、そろそろ帰りましょうかと、公園で遊ぶ小学生のような提案をした。

 駅まで歩く道の途中で、SNSアカウントを登録し合った。カナデさんのアカウントのアイコンは、コンクリートの壁を何かで引っ掻いてできた白い跡によって描かれた、デフォルメされた猫の絵だった。最終投稿日は8カ月程前で、それ以外にもほとんど何も投稿されていなかったが、たった今、今日の空の写真が無加工のまま新しく追加された。連絡先を交換できたことを確認してスマホをしまうと、カナデさんは左腕の根本部分を動かして、袖をゆらゆらと揺さぶりながら、

「良ければなんだけど、私が死んだら、残りの骨をあなたに託してもいいかな」

と、突然私に問いかけた。カナデさんが自分の骨を他人に託すということの意味を考えると、その役割が私に適しているとはなかなか思えなかったが、適していないとも言い切れなかったので、

「私でよければ」

と答えると彼女は、

「そう言ってるじゃん」

と笑った。

 彼女は、実は人の骨を砕くのはそれほど難しくないことやキッチンにあるすり鉢は使わない方がいいということなど、なかなか経験できないことを楽しそうに話していた。

 駅に着くと、また来週会えるかのような軽い挨拶をして、名残惜しむことなくお互いそれぞれの帰路についた。


それから三カ月後、

「一週間後にここに電話をして」

というメッセージが一つの電話番号と共に10日程前に届いた。あの日以来彼女とは一度たりとも連絡を取っていなかった。

 カナデさんが亡くなったことを知ったのも、その番号に電話を掛けた時が初めてだった。電話には、彼女の母親を名乗る女性が出た。カナデさんは、病死だったそうだ。彼女の左腕もその病気が原因で切断したらしい。もしかすると、後5年もせずにこうなるかもしれないかとは思っていたが、こんなに早く彼女が亡くなるとは思ってもみなかった。

 当日、カナデさんが生前付き合っていたという男の車で、最寄りの駅から彼女の家まで送ってもらうこととなった。

車の中で男は難しい表情をしており、やはり、私が何者で、カナデさんとどういう繋がりがあったのかを知りたがっているように見えた。

 本当は近親者の方たちには、自分のことを正しく伝えるべきなのかもしれないが、自分にはそうすることができなかった。カナデさんとの思い出を独り占めしていたいという疚しい考えもあったが、それ以上に、彼女が私に求めていたことを誠実に果たすためにはあのことを言わない方が良いという薄っすらとした予感があった。彼女の彼氏に車で送られているという異質な状況が、その予感の根拠を言語化する余裕を奪い、私は何も話せないまま後部座席に座り続けた。不透明な意志で大事な話を黙っていることが酷く不誠実なことのように思えて居心地が悪かった。

「私はカナデさんの中学時代の友達で、昔、彼女が死んだら私に骨を渡すという口約束をして、今でもそれを反故にしなかった彼女のおかげで私はこちらにお伺いすることができました」と口から出任せを言ったのは、彼女の実家に着いて、カナデさんの両親に私のことを尋ねられた時だった。

 カナデさんの両親は、この国の中流階級によく見られる、優しそうな中年夫婦だった。

 私が彼らに話したのは怪しまれてもおかしいストーリーだったが、彼らは死に際のカナデさんから遺骨を全て私に渡したいというような話を聞いていたらしく、特に滞りなく話は進み、私は骨壺とカナデさんが生前用意していた紙袋を受け取って家を後にした。カナデさんの彼氏を名乗る男は私を駅まで送ろうかと申し出たが、少し一人で歩きたい気分であり、駅に向かうのであれば立川駅の高いビルの方角に歩けば迷いそうになかったため、申し出を丁重に断った。

 ぼんやりと辺りの風景を捉えながら帰路を進み、電車をいくつか乗り換えると、いつの間にか自宅の前まで来ていた。骨壺と紙袋をドアの前に置き、鞄をごそごそと漁って鍵を取り出す。鍵よりも一回り大きく無駄に重いキーホルダーを眺めていると、そういえば彼女の身の上については何も聞かされていなかったな、と今になって少し悲しくなった。

 自室に入ると、疲れがどっと出た。部屋の明かりもつけずに、彼女が生前に用意したという紙袋の中身を確認した。紙袋の中には包装紙で包まれた大小二つの箱と、一封の茶封筒が入っていた。

 中身に傷をつけないように封筒を開封すると、一枚の手紙が入っていた。手紙には次のようなことが書いてあった。

「よければ、私の骨を大事にしてください

 あの屋上にはもう二度と行かないでください

 

追伸:必要であればこれを使ってください」

 大きい方の箱は、新品のすり鉢とすりこぎが、小さい方の箱には、チャック付きポリ袋と薬包紙が入っていた。ラーメンのどんぶり程の大きさのすり鉢を箱から取り出して机の上に置き、布で包まれた骨壺の方に手を掛けた。風呂敷の結び目を解くと一通の封筒が入っていた。封筒の中には、カナデさんを焼却したことの証明書が入っていた。

骨壺の蓋を持ち上げると、緑色の付着物や黒い焦げのようなものがこびりついた白い物体が壺いっぱいに入っていた。割れせんべいのようなちょうど良い大きさの骨を一かけら取り出してすり鉢に入れた。骨壺の中には、まだたくさんの骨が残っていた。

すりこぎの尖端部分を叩きつけ、骨をすりつぶしやすいサイズに砕く。そういえばこの骨はどこの骨だったのだろう、などと思いついた頃には、すり鉢に入れた骨は既に元の形からはかけ離れていた。ちょうど良い大きさまで砕いた骨をすり鉢の壁面に押し付けて、ごりごりとすり潰す。

 確かにこの行為に力は大して必要がなかった。しかし、左腕を焼却した時点で片腕となっていたカナデさんにとっても、この行為は簡単にこなせるものだったのだろうか。

 恐らくカナデさんは地面に胡坐をかいて、組んだ足の中心にすり鉢を固定した状態で、残った右手で骨をすりつぶしていたのだろう。

 こういうことを考えていると、いつの間にか骨はさらさらとした粉になってしまっていた。

すり鉢を傾けて、薬包紙の上に粉を乗せる。大きなすり鉢から薬包紙に粉を移す行為はなかなか繊細な手さばきを必要としており、机の上に一部の粉が零れてしまった。両手の私でもこうなるのだから、片手のカナデさんが全く溢さずに骨を集めるのは至難を極めただろう。すり鉢の壁面の凹凸に、遺骨の粉末が詰まってしまっていた。これはどうやっても取れそうになくて、確かにこれを調理用のすり鉢でやったら使い物にならなくなってしまうな、と彼女の発言を思い出して感慨に耽った。

 机に白く積もった粉もどうにか集めて折りたたんだ薬包紙をポリ袋にしまい、再び外に出た。

 冬の太陽は既に沈み始めており、住宅街は街灯の光によって見通しが確保されていた。コートのポケットに手を入れ、先ほどのポリ袋を弄びながらあてもなくふらふらと歩き出す。

 今回の作業で使った骨は全体の1%にも満たない。残り全ての骨を使い切る頃には、私は何歳になっているのだろうか。恐らく、私が独り立ちする頃にもまだカナデさんの骨は残っているだろう。一人暮らしの引っ越し先まであの骨を持っていくことになる。そして、会社に行って上司にしごかれて社会に揉まれてくたくたになって家に帰ってくると、彼女の骨壺がリビングの机の真ん中で待っているかもしれない。

 カナデさんは、こうして私の生活の一部に溶け込むために自分の遺骨を託したのだろうか。

 意識が精神世界の中で鮮明になっていく。しかし、帰宅時間の住宅街で白い粉を手に掲げるわけにもいかない。カナデさんの骨を袋から出すのは、ここから歩いて10分程の場所にある高台の公園までお預けにした。

 公園へと続く坂は、葉が枯れて禿げた雑木林に囲まれていた。傾斜を登り切って、ベンチと水飲み場しかない辺鄙な公園に着いた頃には、既に日が沈んでしまっていた。この公園は日中ですら人がいるところを見たことがなく、今日も相変わらず無人だった。公園から住宅街を臨める方角には金網が設置されており、白から橙の家の明かりで彩られた美しい夜景を見ることができた。

 ベンチに座り、ポケットから取り出した薬包紙を広げて右手の掌に乗せる。風が少し強く吹いており、遺骨の山はすぐに一部分が吹き飛ばされた。

 すーっと深く息を吸い、今の自分が抱えている朧気な不安の正体を鮮明にしようと努める。


 カナデさんはなぜ私に遺骨を託したのだろうか。先ほどの様子では、家族や恋人との生前の関係が悪かったという風にも見えない。

 あの日私とカナデさんがしたことと言えば、ちょっと街をぶらぶらしながら散骨についての意見交換をしただけだ。

 ハンバーガー屋で、「あなたは自分が死んだ後に自分の意志の介入できないところで自分が囚われ続けるのが耐えられないのではないか」という個人的な見解をカナデさんに話した。

 今考えると、あの場で分かったように他人の内心を言語化しようとするのは酷く不躾な行いのように思うが、彼女が肯定をしなかったとはいえ、その考え自体は今でも正しいと思っている。

 そう考えると、「あの屋上には二度と行かないで欲しい」と彼女が言っていたのもなんとなく頷ける。私が彼女との思い出の場所で遺骨を撒くのは、彼女の近親者が彼女のことを思って骨を扱うのと同じように、彼女を私の世界に拘束してしまう行為なのだ。

 カナデさんは私に通常の形で偲ばれることを望んでいないだろう。私にできることと言えば、彼女の焼け残った部分を、彼女の魂がある場所に送ることしかない。

 それでは、彼女の魂がある場所とは、どこなのであろうか。

 カナデさんは、魂は自分の社会を選ぶというような詩を口にしていた。口ぶりからして、彼女の魂が選んだ社会は酷く孤独なものなのだろう。私は人付き合いを疎かにして生きてきたため、社会というものの生態を詳しく知らず、彼女の捉えている社会を正確に想像することができそうになかった。

もしカナデさんが生きていたとしたら、彼女と交流を重ねていく中で、その社会の領域を手探りに確かめていくことができたかもしれない。

しかし、そもそも、魂が見つけ出す社会というものがそうやって相互的な経験によってのみ捉えることができるものであるとすれば、カナデさんの魂がある場所を正確に捉えるという試みは、カナデさん亡き今完遂できないものとなってしまう。そうだとしても、私はこうして彼女の骨を預かった以上、骨壺が空になるまではこの使命を投げ出すつもりはない。

まず、カナデさんが言っていた詩を実際に読む必要がある。

それからまたたくさんのことを考えていこうと思う。

 この問いの答えを見つけるには、今の私は知識も経験も明らかに足りていないように思えた。

 ふと、思考が脱線し始めていることに気がついた。仕切り直して、カナデさんの遺骨のことに話を戻そうと試みると、今まで肉体感覚が消え失せるくらいに鋭くなっていた集中が途端に消え始めた。


意識を現実に戻す。薬包紙の上に乗っていた骨の粉は既に9割程度無くなってしまっていた。

 なるほど、彼女の行っていた「骨を世界に溶かし込む行為」とは、こういうものだったのかもしれない。

 これから長い年月を掛けてカナデさんを世界へ混在させることに向き合っていかなければいけない。そう考えると、行為の果てしなさに呆然とする一方、その際限ない不確かさが心地よくもあった。

溜息をつくように、ふーっと肺の空気を吐き出す。掌に乗った残りの粉末を薬包紙と共に風の流れに乗せる。

もう一度、生前の彼女のことを思い出す。詩について話す前の彼女は、どうしてあのような寂しく微笑んでいたのだろうか。

北風に巻き上げられた薬包紙はひらひらと夜景の上を渡っていき、カナデさんの焼け残りは既に人の視界では捉えられない形となっていた。

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