第19話 紋章  

 静けさに包まれていたウルディード城内が急に騒がしくなった。人々が慌ただしく行き交い、外からは陣太鼓や金属楽器を吹き鳴らす音も聞こえてくる。人々の喧騒はガイウス大帝の到着を告げていた。貴賓室の入り口で気配を探っていたクロエは顔を上げた。


「ガイウス大帝の艦隊が現れたみたいです。リリー殿下、そろそろ参りましょう」

「ええ、そうね」


 リリーは短く答えて椅子から立ち上がる。すると、ソフィアがそっとリリーの前髪へ手を伸ばした。


「リリー、前髪はもう少し横へ流した方がいい。その方が綺麗だ」

「……」


 ソフィアが髪型を気にしてくるのは珍しい。リリーはきょとんとした顔つきでソフィアを見上げる。ソフィアは細い指先でリリーのひたいにかかる前髪をわずかばかり横へ流した。


「ほら、この方が似合ってる」

「ありがとう、ソフィー……」


 優しげに微笑むソフィアを見てリリーは複雑な感情にとらわれた。真紅の甲冑をまとうソフィアは美しさと強さを兼ね備え、まるで神話に語られる戦乙女バルキリアのようだった。


 戦乙女バルキリアは、愛といくさつかさどる『戦神せんしんフレイヤ』に仕える女神。戦場で死者を選定する役目をうが、自身は愛する英雄の手によって悲運の死をとげる。


 リリーはソフィアの美しさや強さの影に言い知れないはかなさやもろさを感じた。自分が反乱を望まなければソフィアにも違った生き方があったのではないか? と、今さらながら考えてしまう。不安に思っているとクロエの明るい声が部屋に響いた。


「ねえ、ソフィー。わたしの仕事を取らないでよ!! ほら、リリーも暗い顔をしてないで行くよ!!」


 クロエは頬を膨らませながらリリーの手を引く。リリーとソフィアは一瞬だけ目を合わせ、互いに苦笑いを浮かべた。



×  ×  ×



「リリー殿下、おはようございます」


 リリーたちが軍港につくと儀仗ぎじょうへいを率いるジョシュが挨拶をしてきた。ジョシュや儀仗兵たちは式典用の甲冑をまとい、帝都の貴族たちにも負けない勇壮な姿をしていた。


「ジョシュ、おはよう。出迎えに感謝いたします……」


 挨拶もそこそこに、リリーはレインを探した。自分から『相手にしない』と言っていたのに、無意識のうちにレインの姿を探してしまう。すると、ジョシュが笑顔になった。


「レインならまだ来ていません。婚約者を待たせるなんてとんでもないヤツです」

「え、ええ……」


 ジョシュにはリリーが『王子を探す可愛らしい姫君』に見えたらしい。からかい半分で声をかけるとすぐにソフィアが睨みつける。ジョシュは困り顔で肩をすくめた。


「おいおい、ソフィア。睨みつけんじゃねぇよ」

「……睨んでなどいない」

「そうか? 眉間に皺がよってるぞ」


 ジョシュは何気ない仕草でソフィアの眉間に人差し指を当てる。そして、そのまま軽く上に上げた。呆気にとられたソフィアはされるがままで微動だにできなかった。


「あはは、変な顔だ」


 ソフィアの整った眉が傾斜をつくるとジョシュは面白そうに笑う。リリーとクロエもクスクスと笑い始めた。ソフィアは見る間に顔を真っ赤にさせてジョシュの手を払った。


「ふざけるな!!」


 周囲の目を気にしたのか、ソフィアは小声で怒り始めた。


「もうすぐガイウス大帝が到着なさるんだぞ。少しは場をわきまえろ!!」

「わかってるって」


 ジョシュは口元にたたえた笑みを消した。


「リリー殿下やレインに恥をかかせるようなマネはしねぇよ。じゃあ、またあとでな」


 ジョシュの表情は戦士のものへと変わり、整列する儀仗兵のもとへ向かう。ジョシュが立ち去るとソフィアはため息をついた。


「まったく……何を考えているんだ」


 ソフィアが呆れているとリリーとクロエが面白そうに話しかけてきた。


「ソフィー、もう仲よくなったのね」

「そうそう、やるじゃん」

「……」


 リリーとクロエの笑顔はどこか意味深だった。ソフィアは二人を無視することに決めて親衛隊へ号令をかける。


「親衛隊は三列縦隊さんれつじゅうたいにて待機!!」


 皇女親衛隊が統率された動きで整列すると、ソフィアは無言のまま隊列の中心へと向かう。その様子を見ていたクロエは小声でリリーに話しかけた。


「ソフィー、怒っちゃったかな?」

「そうかもしれないわね」


 リリーが苦笑しているとロイドとサリーシャが現れて最前列に並び立った。そして、少し遅れてレインも軍港に現れる。ウルド国の軍服を着たレインはとても凛々しく、将来を約束された青年将校を連想させた。


──レイン……。


 リリーはいつの間にかレインを目で追っていた。気づけば、心のなかで名前を呼んでいる。二日ほど会っていないだけだが、『しばらく会っていない』という感覚がしてうまく声をかけられない。すると、クロエがリリーを肘でつついた。


「リリー、レインが来たよ」

「え、ええ。わかってるわ」

「早く挨拶しようよ」


 クロエは黒い日傘をさしながら催促してくる。リリーは頷き返すとレインへ声をかけた。


「レイン・ウォルフ・キースリング」


 リリーの声が聞こえるとレインは足をとめ、少し慌てた様子で近づいてくる。レインの戸惑う顔を見たリリーはにこやかに微笑みかけた。


「おはよう、レイン」

「おはようございます、レインさま」


 リリーとクロエが挨拶をするとレインの顔は見る間に緊張で固まった。


「おはよう……リリー」


 レインの顔ははた目にもわかるほど赤くなった。リリーをにすることで精一杯の様子で、戸惑いを隠せずに目を伏せている。そんなレインを見たリリーは優越感を感じて余裕が生まれた。


「ちゃんと名前を呼んでくれましたね。嬉しいです」

「……」


 リリーが優しく微笑みかけるとレインの顔がさらに赤くなる。何か言いたげだが、言葉が出てこない様子だった。


──本当にわかりやすい人……。


 気後れするレインを見ていたリリーは軍服に目をとめた。胸元で輝く『狼』の紋章が傾き、外れかかっている。


「レイン、紋章が少し傾いていますよ」


 リリーはレインの軍服に手を伸ばして胸元の紋章に触れた。銀で縁取ふちどられた紋章を慣れた手つきでとめ直した。レインは緊張しているのか沈黙したままで、軍服越しにも身体が強張こわばっているのがわかった。


「『狼』の紋章が泣いていますよ……ほら、もう大丈夫です」


 紋章をとめ直すとリリーはレインの胸をぽんと軽く叩いた。


「ありがとうございます」


 レインは何故か暗い眼差しをしており、困惑した様子で頭を下げる。リリーは眼差しの理由を『緊張からくるものだ』と考えた。


──これからガイウス大帝おじいさまと謁見する。ましてや、隣にはこのわたしがいるのですもの……緊張して当然だわ。


 レインの反応に満足したリリーは無邪気に微笑んでみせた。


「わたしの紋章も変わるのね。『狼』の紋章だなんて素敵だわ」


 リリーの唇は妖艶な動きをして『狼』の紋章を褒め称えた。レインが大切にするものを最大限に尊重してみせる。男というものは国旗や紋章といった象徴に敬意を払われれば歓喜し、喜んで死んでいく。そのことをリリーは熟知していた。そして……。


 美しく、可愛らしく見せれば見せるほど男は緊張し、操りやすくなる。そう思いこんでいるリリーは自身の美貌に絶対的な自信を持ち、レインの心を懐柔かいじゅうすることに集中していた。

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