第6話 帝都出立

 リリーがウルド国へ向けて出発する日、帝都グランゲートは見事な晴天に恵まれた。キラキラと輝く紙吹雪が摩天楼の谷間を舞い、沿道を埋め尽くす人々は小旗を手にしてリリーの到着を今か、今かと待っている。


 いくら『傾国姫けいこくき』と噂されていても、リリーは神聖グランヒルド帝国にとって初めて嫁ぐ皇女。帝都は期待と祝福で沸き返っていた。しかし……。


 リリーは依然として『昏い静寂の塔アグノス』の前にいた。塔がそびえる広場にはリリーの他にソフィアとクロエしかいない。二人ともリリーの後ろに直立し、静かに皇女を見守っていた。


 リリーは軍服をした青いドレスを着ている。二の腕部分には黒い喪章が巻かれていた。帝都をつ晴れの門出にしては不吉だが、ソフィアとクロエも同じように弔意を表す腕章を片腕に巻いている。


──お母さま……。


 リリーは胸の前で手を合わせると、指を絡ませながらそっと目を閉じた。まぶたの裏に遠い記憶が蘇る。それは、やつれゆく母ルシアの姿だった。



×  ×  ×



 10年前、リリーの母ルシアはガイウス大帝より『餓死刑』を賜った。それは、父ルキウスがアルメリア共和国との戦場でたおれてから2年後のことだった。


 リリーの兄であるアレンが皇太子に決まると、『子貴母死しきぼし』というまわしい因習が復活した。『子貴母死しきぼし』は次期皇帝の生母を殺すことで、『生母やその外戚の専横を防ぐ』というのが名目だった。


 何故、突然に『子貴母死しきぼし』が復活したのか? 宮中で権力闘争でもあったのか? ……幼いリリーにはまったくわからない。ルシアは宮殿の一角に幽閉され、リリーは最愛の母と引き離された。


 リリーにとって最も残酷だったのはルシアとの面会が許されたことだった。リリーは毎日ルシアの幽閉先を訪れ、日に日にやせ細ってゆくルシアをその青い瞳に焼き付けた。


 普通ならば母への理不尽な仕打ちに怒り、嘆き悲しんでもおかしくない。だが、気丈にもリリーはそうしなかった。『死にゆく母』の前で笑顔を絶やさなかった。


「お母さま、ソフィアというお友達ができました。今度、ご紹介いたしますわ」


「お母さま、宮廷音楽家の先生に歌が上手くなったと褒められました。今度、聞いてくださいね」


「お母さま、王庭おうていでウサギの巣を見つけました。親子で元気に飛び跳ねておりましたのよ。今度、一緒に見に行きましょう」


 『今度』なんて絶対にないとわかっている。それでも、リリーは日々のできごとを朗らかな笑顔で伝えた。それは、明るく振る舞うことがルシアを悲しませない唯一の方法だと考えたからだった。だが……。


 ある日、リリーはルシアのもとへ向かう途中で転んでしまった。普段なら泣かないが、リリーは大声で泣いた。大して痛くもないのに「お母さん痛いよ!!」とついに泣き叫んだ。侍臣じしんや侍女たちが飛んで来たが、彼らを無視して母のところへ向かった。


「どうしたの、リリー。泣かないで」


 ルシアは鉄格子の合間からやせ細った手を伸ばした。そして、自分と同じ銀色の髪をなでながら、


「皇女たるもの簡単に涙を見せてはいけません。その涙のために死ぬ人もいるのですから」


 と、優しい口調で諭した。飢餓と戦う人間とは思えないほど、威厳と慈しみにあふれる態度だった。リリーは真っ赤になった顔を上げ、泣きはらした目でルシアを見つめた。


「はい、もう泣きません。お母さま、約束いたします……」


 リリーがドレスの袖で涙を拭いながら告げるとルシアは安心したように柔らかな笑みを浮かべた。


「わたしの可愛いリリー、誰も恨んではいけませんよ。わたしは今から遠くへ行ってしまいますが、わたしの温もりや感触はあなたのなかに息づいています。どうしても悲しくなったらこの手の温もりを思い出して」

「……はい」


 ルシアは愛おしそうにリリーの頬をなでる。どれほどその手を握りたかったか……リリーは奥歯を強く噛んで我慢した。今、母の手を握ってしまえば、きっとまた泣いてしまう。約束を破るわけにはいかなかった。


 やがて……。


 死期が迫るとルシアは「『昏い静寂の塔アグノス』を見たい」と朝廷に願い出た。ガイウス大帝や宰相サルトールたちは「前皇后の最期の願いだ」として聞き入れた。


 『昏い静寂の塔アグノス』のある宮殿広場に現れたルシアは正視せいしえないほどやつれていた。華やかな宮廷ドレスですら重々しい枷のように見える。そんなルシアを見るのを拒んだのか、5人の子供たちのなかで広場にやってきたのはリリーだけだった。


 リリー、ガイウス大帝、サルトール、侍臣じしん、侍女……大勢が見守るなか、ルシアは覚束ない足取りで『昏い静寂の塔アグノス』の前まで歩いた。そして、骨と皮だけになった手で漆黒の壁面に触れる。すると……。


 ルシアの触れた部分にひと一人ひとりが通れるくらいの穴ができた。見守っていた侍臣じしんや侍女、果てはガイウス大帝やサルトールまでが驚きの声を上げる。広場がどよめくとルシアは振り返った。


 限界まで肉が削ぎ落ちた頬、カサカサに乾いた唇。ルシアは窪んだ青い瞳を爛々と輝かせて広場をひと睨みする。その凄まじい形相ぎょうそうに誰もが言葉を失い、広場はしんと静まり返った。ルシアは誰かを探すように首を動かし、広場の片隅で立ち尽くすリリーと視線が合った。


──お母さま!!


 リリーは喉元まで出かかった言葉を呑みこんだ。何故かわからないが、「お母さまを呼び止めてはいけない」と思えたからだった。すると、そんなリリーを見てルシアは微かに口を動かした。



「……」



 聞き取れない言葉を残すとルシアは両手を広げ、『昏い静寂の塔アグノス』のなかへ後ろ向きに倒れた。身体は闇に溶けこむように消え失せ、穴も瞬時に塞がった。


「「「ルシアさま!!」」」


 我に返った侍臣や侍女たちが慌てて駆け寄るが、叩いてみても『昏い静寂の塔アグノス』の壁面が再び開くことはなかった。ルシアはどんな炎やはがねも通さない漆黒の塔のなかへ旅立った。


 ルシアが消えたことは伏せられ、かわりに『先帝皇后ルシアは神聖グランヒルド帝国の繁栄を願いながら死んでいった』と大々的に喧伝された。『子貴母死しきぼし』に懐疑的だった臣下や国民も『なんという女傑。さすがルシアさまだ!!』と拍手喝采し、遺体がないまま盛大な国葬が執り行われた。しかし……。


 リリーは国葬の場で涙一つ流さなかった。むしろ、平然と涙を流すガイウス大帝や国民たちを醒めた目で見つめていた。子供らしからぬ冷徹な眼差しを見て人々は「感情が欠落した子供」と決めつけた。


 大人たちは真実を嘘で塗り固め、平気で事実を捻じ曲げる……幼いながらも、そのことに気づいたリリーは世界を見る目が変わった。


 餓死刑を命じたガイウス大帝も。


 餓死刑を止めなかった兄弟や廷臣たちも。


 餓死刑を褒めたたえる国民も。


 リリーには神聖グランヒルド帝国のすべてが腐臭を放つ醜悪なものに見えた。



──醜いものは浄化しなければならない……。



 それは、幼いリリーが抱いた純粋な決意だった。



×  ×  ×



──あのとき、お母さまは何とおっしゃったのですか? 塔のなかで何をご覧になったのですか? 


 今まで何度、そう問いかけただろう。広間での光景を思い出すたびにリリーの胸は締めつけられる。


──お母さま、わたしは少しの間だけ留守にいたします。すぐに帰ってきますので、それまでどうか安らかに……。


 黙祷が終わるとリリーは静かに目を開ける。太陽に黒光りする『昏い静寂の塔アグノス』は何も語らず、いつも通りリリーを見下ろしていた。リリーにはそんな塔が何よりも傲慢な存在に思えた。


──このわたしに不遜な態度をとっていられるのも今のうちよ。


 リリーは塔を見上げながら不敵な笑みをこぼした。


「『昏い静寂の塔アグノス』よ、わたしは必ずとなって戻ってきます。再び相まみえる日を楽しみに待っていなさい」


 リリーは塔に背を向けて喪章を外した。その姿を見てソフィアとクロエも喪章を外す。リリーは二人の間を歩きながら手をかざしてサッと振り下ろした。


「リリー・ルキウス・グランヒルド・フレイヤの出陣である。ソフィア・ラザロ、クロエ・ベアトリクス、供をせよ」

「「畏まりました。仰せのままに」」


 ソフィアとクロエは声をそろえて頭を下げる。そして、リリーが通り過ぎると後ろに続いた。3人が広場を出ると整列した『皇女親衛隊』と『皇女近侍隊きんじたい』が出迎える。


 リリーは車体が金銀で装飾された儀装馬車ぎそうばしゃに颯爽と乗りこんだ。儀装馬車は皇族にのみ使用が許されており、屋根には黄金色こがねいろの『翼竜よくりゅう』をいただいている。宮殿を出た儀装馬車はすぐに国民たちの目にとまり、大きな歓声に包まれた。


「「「リリー殿下、ご結婚おめでとうございます!!!!」」」


 熱狂的な祝福の声を聞いたリリーは暗い馬車のなかで薄い唇の端を微かに上げる。誰をも魅了する青い瞳には、世界を凍てつかせる狂気の炎が揺れていた。

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