前のエピソード――第４話　友情と忠誠

　長い夜が終わろうとしていた。今頃は『リリーの結婚』を伝える急使が帝国中へ向かって出発しているだろう。リリーは足取りも軽く、ソフィアとクロエを伴（ともな）って浴場へ向かった。

　フレイヤ神殿の浴場は神殿内部の高所に造られている。巨大な長方形で、まるで帝都にある水泳競技場のようだった。周囲は円形の石柱で囲まれ、その合間からは宮殿内の城塞や帝都の街並みが見下ろせる。

　浴槽は大理石でできており、竜頭（りゅうとう）を模（も）した三つの注ぎ口からは絶え間なく温水が流れ出ている。すべてが神殿の主（あるじ）であるリリー・ルキウス・グランヒルド・フレイヤのために造られていた。

「クロエ、ホックを外してちょうだい……」

「了解～」

　浴場につくとリリーはドレスを脱ぎ始めた。後ろではクロエが背中にある小さな金具を慣れた手つきで外してゆく。

「リリーの前だと、どんな華美なドレスも霞（かす）んで見えるね……」

　クロエは露わになったリリーの裸体を見てため息をついた。きめ細やかな肌は微（かす）かな湿気をおびて真珠のように光沢を放ち、うっすらと浮かび上がる血管は艶やかに息づいている。

「本当に綺麗……」

　何度見ても感心せずにはいられない。クロエは『帝国の珠玉』と謳われる主（あるじ）を誇りに思い、仕える喜びを噛みしめていた。すると……。

　突然、リリーが何かを投げ捨てた。カシャンという音がして瑠璃（ラピスラズリ）の嵌めこまれた短刀が大理石の床に転がる。クロエはドレスを抱えたまま首を傾（かし）げた。

「リリー、これは？」

「サリーシャ将軍からもらった短刀。ガラクタよ」

　リリーは醒めた口調で言いながら浴槽へ向かう。すると、近くにいたソフィアが短刀を拾い上げ、たしなめるような眼差しをリリーへ向けた。

「これは武人からの贈り物。しかも、サリーシャ将軍は形式上とはいえ、リリーの義母（はは）となるお方だろ？　リリーもそう言ってたじゃないか……」

「わたしとレインが無事に婚礼を挙げれば……ね」

　リリーは挑発的に言いながら水浴びを始め、禊（みそぎ）をすませると浴槽へつま先を伸ばす。そのとき、思い出したかのように短剣を一瞥（いちべつ）した。

「わたしは神聖グランヒルド帝国の皇女。砂漠の作法なんて知らないわ」

　リリーは淡々とした口調で言い放つ。サリーシャにとって短剣がどれほど大切な意味を持つか……そんなこと、リリーにしてみればどうでもいい話だった。ありがたくもなければ興味もない。そもそも、レインと添（そ）い遂（と）げる気なんて、さらさらなかった。

「わたしに剣は必要ないわ。だって、わたしはすでに『リリーの冷たい狂剣（バルサルカ）』を持っていますもの。そうでしょう、ソフィー？」

「それは、そうかもしれないけど……」

「わたしは誰の指図も受けないわ」

「……」

　ソフィアは不服なのか、短刀に視線を落としたまま無言になる。リリーはそんなソフィアを尻目に、膝まで張られたお湯のなかを歩いた。そして、ソフィアの無言が続くと苦笑しながら振り返る。

「ソフィーはサリーシャ将軍を尊敬しているのね」

「うん。剣に生きる武人としてサリーシャ将軍を尊敬している」

　ソフィアは短剣を持ったまま浴槽の縁（ふち）を歩いた。リリーの近くまでくると伏し目がちに口を開く。

「リリーだって……皇女なら、帝国のために戦うサリーシャ将軍を無下（むげ）に扱っちゃダメだ」

「なるほどね。確かに、そうかもしれないわ」

　リリーは膝を屈めると湯舟のなかをソフィアのもとまで泳いだ。そして、大理石の縁（ふち）に両腕を重ね、その上に顔を乗せる。柔らかに微笑みながらソフィアを見上げた。

「ソフィー、友人としての忠告なら受け入れるわ。短刀はわたしの護身刀（ごしんとう）とします。でも、その短刀が血を吸うのなら……それはきっと、わたしの血よ」

「リリー……」

「だって、わたしはソフィーやクロエみたいに戦えないもの。そのときが来たら潔（いさぎよ）くココを掻（か）き切るわ。手首なんてまどろっこしいことをしない。美しい鮮血に塗（まみ）れながら華々（はなばな）しく散るわ」

　リリーは少し顔を傾けると人差し指で白い首筋をトントンと叩いてみせる。表情と声色は明るいが内容は暗い未来を暗示していた。

──リリーの言う「そのとき」は、わたしとクロエが斃（たお）れて目的を果たせなかったとき。リリーならやりかねないな……。

　ソフィアはリリーの美しい裸体を見下ろしながら再び黙りこんでしまった。すると、静寂を見計らったかのように石柱の間から夜風が吹きこんだ。

　一陣の風は浴場に立ち昇る湯気を運び去ってゆく。そのとき、フレイヤ神殿を押し潰すような低い唸り声が浴場全体に響き渡った。声は神殿よりも高く、遥か上空から聞こえてくる。クロエもドレスを畳んでいた手をとめて天井を見上げた。

「『昏い静寂の塔（アグノス）』が哭（な）いてる……」

　クロエは不安げに呟くと足早にリリーとソフィアのもとまでやってくる。賊を恐れない『皇女（こうじょ）近侍隊（きんじたい）』の隊長も出所不明の咆哮は苦手だった。ソフィアはそんなクロエの頭をそっとなでる。

「クロエ、これは帝都の上空を流れる気流が『昏い静寂の塔（アグノス）』にぶつかって逆巻（さかま）く音……」

「そうなんだ……」

「ああ。こんなにはっきり聞こえるのは珍しいけど……わたしとリリーも何回か聞いたことがある。そんなに怖がることはない」

「そっか。教えてくれてありがとう」

　安心したのか、クロエはソフィアを見上げながら顔をよせて「ソフィーは物知りだね」と付け加える。甘えた仕草を見せるのはクロエなりの愛情表現だった。すると、二人の話を聞いていたリリーが湯舟から上がった。

「わたしだって、色んなことを知っているわ」

　リリーはわざとらしくソフィアに対抗する。大理石の縁（ふち）に腰を下ろすと湯舟の上で足を組んだ。

「『昏い静寂の塔（アグノス）』の頂上は前人未踏なの。昔は頂上を目指す国家事業まであったそうよ。でも、結局は失敗した。どんな偉大な皇帝も、勇敢な英雄も、誰も塔の頂（いただき）を見ていない……」

「え……その話なら知ってるよ。有名じゃん」

「そう？　じゃあ、このお話は？　国教であるラト教の異端書で語られている伝説よ……」

　クロエが気まずそうに言うとリリーは少し前屈みになりながら視線を外へ移した。風が運び去った湯気の向こうには闇よりも濃い『昏い静寂の塔（アグノス）』の影が見える。

「異端書によれば、『昏い静寂の塔（アグノス）』は怪物を封じるための杭（くい）なんだそうよ。地中深く、星の核となる場所にはとんでもない怪物が潜（ひそ）んでいるの。『昏い静寂の塔（アグノス）』は怪物の身体に刺さる楔（くさび）。ひとたび抜ければ、怪物が復活して星のすべてを破壊し、人間は滅んでしまうのだとか。わたし、思うのですけど……」