第5話 人間性
爪吉のところに行かないと————
けど、爪吉の居場所がわからない。猫ちゃんは「衝動に従って道を選べ」と言っていた。衝動と言っても、ぼくが逃げるルートは初めから決まりきっている。
それは学校の外だ。マガツはぼくを追いかけてくる。そんな状況でみんなのいる学校のなかにいるわけにはいかない。
そういうわけでぼくは植物園から出たあと、裏庭にある出口に向かっていた。あそこなら人は滅多に来ない。植物園からも近い。
裏庭を走って突っ切り、裏口にたどり着いた。
学校を囲うフェンスと一体になった扉。そのノブに手をかける。
回して引っ張ってみるが、手元がガチャガチャと鳴るだけで開く気配は一向にない。
鍵がかかっているんだ。
鍵をもらいにいく? いやダメだ。そんな時間はない。それに校舎に入らなければならない。
こうしている間にもマガツは着々とぼくを殺しに迫ってきている。
ならば、フェンスを登るしかない。
そう決心したぼくは、近くにそびえる柵に手をかけた。
フェンスはぼくの身の丈の三倍以上、四メートルはあるだろうか。
縦横の金属線の隙間に指をかけ、つま先をねじ込む。
体重で指にフェンスが食い込んで痛い。無理やりねじ込んだつま先も体重を支えるには心もとない。
逸る気持ちを必死で押し殺しつつ、右手から左足へ慎重に確実に一つ二つと動作を積み上げていく。
額から出でて、頬を伝って下に落ちていく発汗の一生(すうびょう)が、まるで長時間のように、ぼくの肌に情報を届ける。
そんな危機感が引き延ばした時間のなか、やっとぼくはフェンスの頂上に手をかけた。
そのまま頂上をまたいで、向こう側に移ると、ぼくは意を決して地面に飛び降りた。
ぎりりと響くように痛む足をさすりたい気持ちを抑えつつ、間髪入れずに走り出す。
逃げ先の候補としては二つだ。一つは家。家に行くには住宅街を通らないといけないが、爪吉がいる可能性が高い。
二つ目は霊猫山。学校から霊猫山に行く道中には、なぜか民家がほとんどない。そしてお姉ちゃんが今日ここに行くと言っていた。
マガツが追いかけてくると考えれば、霊猫山に逃げるほうが正しい。
でも、早く助けを連れてこなければ、足止めをしてくれたあの猫ちゃんの死ぬ可能性がさらに高まる。それに、お姉ちゃんを連れてきたところでアイツを倒せるかどうかは分からない。
やっぱり、この状況を打破するには、マガツを倒してみせた爪吉のあの強さがほしい。
そう考えたぼくは、一つ目の候補を選んだ。ぼくが逃げ続ければ大丈夫。マガツはぼくを殺すことに夢中だ。だから大丈夫、みんなに危害は及ばない。
言い訳を口からも漏らしつつ、ぼくは爪吉目指して住宅街を突っ切っていく。
―爪吉視点―
「知らないなら教えてあげますよ。あなたたち爪、いや、霊猫町繁栄の裏側を」
弾んだ調子をつけながら、高不協和音とともにそうのたまうマガツ。
「単純なことです。霊猫町の住人は————」
「爪吉!」
聞き覚えのある声が聞こえた。その声の主は————
「碧…くん?」
「ほう、天瀬碧のほうから来るとは……少し意外でした。あなたも聞きますか? この町の真実を」
碧くんが来た。つまりボクが収爪できる。マガツにとっては危機に類する状況なのに、マガツの声は未だに落ち着いている。それどころか、声に喜色が混じっているような気さえする。
「まさか、共鳴者が到着しただけで勝った気になっているのですか?」
「えっ」
驚き声の主、碧くんのほうを見ると、なにやら足にまとわりついていた。見るとそれは無数の鼠。
「別に収爪をしてもらっても構わないのですが、まあ、楽に殺せるに越したことはないのでね。さて話の続きをしましょ————」
「なにが構わないって?」
その声が聞こえるのとほぼ同時、猛烈なまでの揺れが起きる。その場にいる全員の目は、その飛来物の奇妙な軌道を捉えていた。
今まで放物線を描いて飛来していたその物体、否、猫は、その自然なる放物線を突如強制終了し、物理法則が着地させるべき地点よりも手前にドシンと吸い込まれるように着地した。
その体躯に見合わぬ衝撃をコンクリートの地にもたらしながら、瞬時に勢力図を書き換えたのは————
「爪丸さん(つめまる)!」
「チッ」
マガツが舌打ちをする。ボクたちは安心する。遥か上空からすっ飛んできたのは一匹目の収爪、爪丸さんだった。
「はっ、収爪一匹が現れただけで勝った気でいるのですか? ……私たちを侮るなよ。収爪にだって勝てる、そのための準備も整え————」
言い終わらぬうちにマガツが吹っ飛ばされた。ボクには何が起きたのかわからない。ただ、マガツの元居た地点には、爪丸さんが立っていた。
「準備がなんだって?」
この一撃で、ボクたちは爪丸さんの背中に隠れるような形となった。爪丸さんは、こちらに視線を向けず、静かに言う。
「僕のそばを離れないように」
「安全地帯なんて……もうどこにもないですよォ」
マガツがニヤリとした声色でそう言う。その背後には、どこから湧いて出てきたのか、大量の鼠がいた。
「数揃えれば勝てるとでも? そんなのに捕まる僕じゃないことはもうわかっただろ」
「いいえ、あなたは捕まるね。あなたが私を蹴り抜くときに一瞬だけ止まった。不自然な停止だ。その速さは固有能力によるモノでしょう?」
「図星ですね」と間髪入れずにのたまうマガツ。対する爪丸さん。そんな煽りはどこ吹く風。
「結構強いね。僕のアレが蹴りだってわかるんだ」
「あなたの固有能力は加速といったところですか。それに共鳴者が近くにいない。長続きしませんね。その姿」
「さあね」
沈黙に突入し、一瞬で————ボクたちがそれを“沈黙”だと認識したのとほぼ同時に両者は動いた。
ボクたちが、マガツと爪丸さんの残像同士の衝突をやっと視認したころ、勝負はついた。
「————断頭(だんとう)重爪(じゅうそう)」
包囲するように爪丸さんを襲おうとしていた神鼠弾。その決死撃(けっしげき)はあえなく躱され、無駄死を積み重ねた。爪丸さんはマガツがのんびりと自身の残像と衝突ごっこをしている間に上へ飛んでいた。上空こそは爪丸さんが最大打点を生み出す必殺領域(テリトリー)。
標的の首に向けて、全体重、否、全可重重量を後ろ脚に搭載して潰し裂く、爪丸さんの固有能力“重爪(じゅうそう)”を最大活用した生体絶殺技(ギロチン)————
「は? えっ、なにが————」
「オマエは負けたんだよ。とっとと死ね」
事態を受け入れられぬマガツ。そこに爪丸さんが非情に言葉をぶつける。
「……そうですか。残念ですねぇ死ぬのは。あなたたちはいつ負けるのです? わたしたちと同じ悪でしょう? 六百年の時を経た剪定木にはさぞ————」
「うるさい」とマガツの頭部を縦に真っ二つにする爪丸さん。
「頭だけでいつまで生きるつもりだよ」
マガツを斃した爪丸さんはこちらに振り返り、指示を飛ばす。
「爪御ちゃんは僕と一緒に。碧くんは……爪吉くんを家に、あと葉月に電話を。爪吉くんは絶対助かるから安心して」
―天瀬碧視点―
「霊猫町の真実ってなに? お姉ちゃん」
「碧…? どこでそれを」
場はぼくの自宅である天瀬家。その一室。爪吉と爪丸専用の部屋にぼくたちは集合していた。
マガツ騒動は一旦解決した。特別強かったあのマガツが斃された途端、他の鼠たちは撤退したらしい。
「マガツが言ってた。ぼくたちが悪だって。どういうこと?」
さっきからずっと気になっていたことをお姉ちゃんに訊く。同席している白猫の爪御ちゃんもお姉ちゃんのほうを見る。
「それは……でまかせ。マガツがわたしたちを分断するための————」
「葉月。もう……いいんじゃないか? この子の判断を信じても」
爪丸がお姉ちゃんの言葉を遮る。
「僕たちがやってきたことは、別に悪行じゃない。ただ、みんなの幸せを願っただけじゃないか。きっと碧くんも受け入れてくれるよ」
「でも、そんなの……そんなの」
お姉ちゃんが下を向いて言いよどむ。
「醜い? 間違ってる? なら壊すか? 残すも壊すもきみが望むのなら僕はなんだってする。
きみは怖いんだろ? 辛いんだろ? 人間できみ一人だけが真実を知っているということが、その責任が」
「でも、わたしがやらなきゃ……」
お姉ちゃんがなんだか小さく見える。“霊猫町の真実”は、お姉ちゃんの人生にとても深く関わっているのか……
「あと何年やるつもりだ? きみが死ぬまでか? 先代のように記憶を消して次代に託す気もないだろ。雫ちゃんの人生を閉ざす気なんて。爪の寿命は短い。ぼくだってずっとそばにはいてやれない。あと十年も生きられれば大往生。
僕がいなくなればきみは一人になるんだぞ!」
「わたしがちゃんとする。大丈夫」
食い入るようにお姉ちゃんが静かに言う。その目線は下がっている。
「きみはいつもそうだ。そうやってすべて一人で抱え込んでしまう。きみだけが頑張る必要なんてどこにもない! 容赦なく、みんなを巻き込めばいいんだよ なんでもできる天才ぶるのはやめろ! だって、きみは……普通の女の子じゃないか」
「……!」
お姉ちゃんの顔が赤くなって歪む。目いっぱい顔を力ませて涙をこらえるその顔に、なんだかぼくは親近感が湧いた。
「じゃあ、碧。説明するね」
その後、お姉ちゃんは、顔を抑えてしゃくりあげながら爪丸と外に出た。
そしてしばらくして戻ってきた。
ぼくは、今初めてお姉ちゃんと目を合わせたような気がした。正面には正座したお姉ちゃん。ぼくの隣には、食い入るようにお姉ちゃんのほうを見る爪御ちゃん。
ぼくの背後には重傷を負った爪吉。お姉ちゃんの背後には爪丸がいた。爪丸は心配そうにお姉ちゃんにくっついている。爪吉の様子はぼくには見えないけれど、はずだけど、なぜか、こちらを心配そうに見つめている様が、映像のように確信できた。
「ショック……受けるかも。でも決めてほしい。許すかどうかを」
お姉ちゃんとぼくの視線は、紐で繋がれたように会いっぱなしだ。
「碧、単刀直入に言うよ。わたし以外のこの町の人間にはね。負の感情がほとんどないの」
「えっ」
口から驚きがこぼれる。自分のまぶたが全開になっているのがわかる。ぼくは聞き間違いを疑ったけど、続くお姉ちゃんの言葉がその疑念を粉々にした。
「そういう秘術……魔法のようなモノがあってね。昔の人がソレで、この町の人間の負の感情を取り除く仕組みを作った。怒りとか悲しみとかをね。
そうすることで、負の感情を元にした不幸が生まれなくなるって昔の人は考えたみたい」
ぼくの理性は、それを別に問題ないことだと捉えていた。怒りや悲しみがなくなれば、それを発端とした不幸の連鎖が丸ごと消える。それは何の問題もない良い事だと、ぼくの理性は冷ややかに判断している。だけれど、衝動はそれに強烈な拒絶を示していた。ぼくには、その理由がわからない。とにかく嫌な気分だった。
「実際、その考えは的中した。負の感情に振り回されないこの町の住人は、無敵のポジティブシンキングを軸に日々を最適化して幸せになっていったんだ。そして、今やこの町は日本一の幸福を得るに至った」
ぼくの心で理性と衝動がせめぎ合うなか、お姉ちゃんは「けどね」と話を続ける。
「けどね、取り除いた負の感情は、消えてしまうわけじゃない。降り注ぐ雪のように、着々と溜まっていく。そして、それが爆発した。年単位で降り積もった負の感情は、厄災となってこの地方の住民に降りかかった」
それは洪水となり、飢饉となり、疫病となって当時の人たちを蹂躙したらしい。
そこで、ご先祖様が考えた方法が————
「そこで、わたしたちのご先祖様は、その厄災たちにカタチを与えることにした。そのカタチこそが鼠というわけ。カタチがあれば殺せるからね」
その後、この町の住人は、負の感情が宿った鼠たちを積極的に殺し続けたらしい。いくら殺せど鼠は減らず、むしろ増える一方だったという。なんとも酷い話である。罪のない鼠たちは、人の都合で殺されたのだ。
「で。そんなことを続けているうちに、特別強い鼠が現れたの。ソイツは人間を一方的に殺せるほどの力をもっていた。
それが禍津神、マガツってわけ」
お姉ちゃんが語ったのは、とても現実にあったこととは思えない話だった。しかし、ぼくはそれを信じ切っていた。当然、実際にマガツを見ているからである。でも、“普通”ならこういう場合、分かっていても信じられない、そういう反応をするんじゃなかろうか。
ぼくはその可能性に気付いた瞬間、自分の合理に寒気がした。
「ご先祖様はまた困った。人間の知恵を総動員してもマガツは殺せなかったから。マガツは生物としての規格を二つほど飛び越えた身体性能と人間にも比肩する頭脳を持っていた。だから、御先祖様は、町に充満する正の感情からマガツを殺す手段を生み出した。正の感情を猫に宿らせ、守護者とした。それが————」
「爪一族」
思わず被せてしまった。驚きはしなかった。マガツの話が出てきた時点で予感していたことだ。爪一族とマガツ。両者はコインの裏表のような存在なのだとお姉ちゃんは語ってくれた。
最終的に爪一族を生み出したことで、人々は安心して幸福を謳歌できるようになった。
今はそんなゆがんだ「めでたし」の後————
そう締めくくると、お姉ちゃんは話を終えた。
人間の都合で戦う猫と鼠。ぼくたちはその犠牲の上、戦いの表で生きている。それが今までぼくの感じていた嫌な気持ちの正体、だと思う。引っ掛かるところはあるが、ぼくの理性と衝動はそれで譲歩した。
「許すかどうか」多分、このことだろう。ぼくは、お姉ちゃんに頼られているのだ。ぼくの回答次第で、全てが終わり、全てが続く。
正直、ぼくには大きすぎる話だった。この場で決めるにはあまりにも。
お姉ちゃんは無理に結果を出す必要はないと言ってくれた。記憶を消すことで、今まで通りの生活に戻れるとも。
でも、ぼくにはなぜかその選択肢が論外なモノに思えた。
必死に悩んでなお決めきれなかったぼくは、お姉ちゃんに返事を待ってもらえるように頼んだ。
その頼みを聞いたお姉ちゃんの表情は、なんだかいつもよりも柔らかく見えた。
あとがき
はい。ここまで読んでいただきありがとうございます。
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