第3話 一変
―碧視点―
「いってきます爪吉」
いつも通りに見送りをしてくれた爪吉の頭をそっと撫で、後ろの健太に振り返る。
「お待たせ。でもいいの? 撫でなくても。まだ時間あるけど」
「いいんだよ。爪吉撫でてたらまた遅刻しちまうだろ。遅刻はよくない」
確かに遅刻はよくない。健太の言うことは正論だった。けど、少し違和感があった。合理の上では間違いなく正しい、だけど————
「そんなことよりさ。こないだの肝試し楽しかったな」
「………あっうんそうだね。……ってまたその話? これで何回目だよ。いい加減しつこいよ」
————言い過ぎた。数瞬ののち、下がった健太の眉を見て気づく。謝らなくてはならない。けど、謝罪の一言が、相手を思いやる、思いやっているはずなら出てくる言葉が、喉まで出かかっているのに出てこない。いや、これはむしろ————
「ご…ごめんな。本当に楽しかったんだよ。ごめん」
謝るべきなのはぼくなのに、健太に謝らせてしまった。健太は“楽しかった”ということをもっとぼくと共有したかっただけだ。そこに責めるべき点など微塵もない。悪いのはぼくだ。謝るべきなのはぼくのほうだ。
だけど————
「いいよ。別に。うん」
そっけない返事しか口に出ない。「こちらこそごめん」それだけなのに出てこない。簡単なのに、簡単なはずなのに。
「そ、そうか」
健太は下を向いて押し黙ってしまった。尾を引くように沈黙が場を満たす。
こんな登校は初めて。しばらくの沈黙の後、健太がこちらを向き、重々しく口を開いた。
「……さ…最近どうしたんだ。碧。なんかおかしいぞお前」
いよいよ健太に苦言を呈され……ああ、違う。
健太の顔を見ると、涙目になっていた。心配してくれているのだ。こんなぼくを。
「なんでもないよ。心配しないで。ただ、ただ昨日夜遅くまで勉強してたから寝不足で、こっちこそキツく言ってごめん」
やっと言えた。ぼくはなんて往生際が悪いヤツなんだ。
なにも返さずにジッとこちらの顔を覗きこむ健太。向き合うぼくと健太。
しばらく見つめ合った後、健太は口角を上げた。
「そうだな。変なコト訊いてごめんな!」
目は笑っていない。未だに心配が燻っていた。
「今日のテスト社会かぁ。おれも勉強してきたから負けないぜ」
こちらを見ずにそう言う健太。こちらも逸らすように前を向いていると、いつのまにやら校門が視界に入っている。
「ちょっとトイレ行くから先教室行ってて」
「そうか。なら教室でな」
健太はすんなりと了承してくれた。顔を背けているので意図なんて言葉にしかこもらない。そうしてぼくたちは別れた。
事を済ませ、手洗い場の蛇口をひねる。目の前には鏡がある。そこには一つの悩みが映っていた。
鏡のなかの自分と目が合っている。力みとは無縁そうな顔。
目も口も頬もなよっちい。
肩幅もみんなと比べて狭い。
心のうちの半分はもう十一だと焦り、半分はまだ十一だと俯瞰している。
これは本物の悩みだ。以前、見様見真似で粗探しのようにでっち上げた悩みとは違う。好奇心から作られたニセモノがホンモノになって帰ってきたのだ。
これだけじゃない。なんだか最近、悩みが増えてきた。
勉強のこと、外見のこと、そんな悩みたちが最近になって一気にあふれ出てきたのだ。
「……いや、今までがおかしかった」
不意に口から出たそんな言葉。確かに、今まで悩みらしい悩みがなかった。テレビとかでよく見る“悩み”に憧れて、自分でそれを作り出すなんておかしいのかもしれない。
「はあ、まあいいや」
自分に言い聞かせる。そうしてハンカチで手を拭うと教室に向かった。
教室に向かうと健太がいた。クラスは分かれてしまったが、ヒマさえあれば遊びに来てくれる。
「おっ、碧! おそかったな大丈夫か?」
「うん、ありがとう。大丈夫」
健太はそう言ってぼくを心配してくれた。健太はやさしい。いや、みんなやさしい。みんながみんなにやさしさを与えて与えられる、そんな美しい循環。
ぼくはその中からはぐれてしまった。この降ってわいた悩みのせいで。
悩みなんてなくなってしまえばいいのに、心からそう思う。
「もう時間だし、おれ行くよ。一時間目は社会のテストだな。お互いがんばろうぜ」
「うん。そうだね」
始業の時間、始まりのチャイムが鳴る。
目線の先には最後の問題が解かれたテスト用紙。しかし、そこに至るまでにはいくつかの空白がある。当初の予定じみた目標である満点はおろか、七十点も取れていなさそうだ。
諦めずに、問題用紙をひっくり返しながら、空白を埋めるヒントを探しているが未だに成果はない……つまり、この答案用紙がぼくの限界なのだ。
薄々そんな予感はしていた。昨日の勉強に身が入らなかったからだ。
ただ、毎回ケアレスミス以外では満点を取っていたので、今回もなんやかんやでそんな点数を取れるのだと思っていた。
(ぼくはお姉ちゃんや雫とは違う)
意図せず、そんな思考が浮上する。ぼくは自分があの二人と同じような完璧人間だと思ってた……思ってたのに、二人と違って勉強していたのは……知っていたからだ。ぼくは二人のようにはできないって。もしかするとそれを認めるのが怖かったのかもしれない。
だって、ぼくはお姉ちゃんの————
「せんせー。ゴキブリがいるー」
なんだゴキブリか。別にどうでもいいじゃないか。ゴキブリなんて、……でもこっちに寄ってきたら嫌だな。————あれ?
「先生。ゴキブリ捕まえました」
「………………えっ」
その言葉は、隣の女子生徒、田中(たなか)さんから発せられていた。
無邪気に目いっぱい高く掲げられたその手には、確かにゴキブリがいた。
握られている、というより手で覆われているという表現のほうが正しい。
あまり力がこめられていないせいなのか、不規則小刻みにブンブンと翅を鳴らしている。
もちろんやさしさの意図はゴキブリを傷つけぬように、だ。別になんてことはない普通で理にかなった行動、教室をただ移動していただけのゴキブリを殺すことは悪いこと。田中さんは当たり前のことをしているだけ。
————なのにぼくはその光景から目を背けた。強烈な違和感と身体の奥底がうごめくような嫌悪感に襲われた。
「ならよかった。ゴキブリの羽音はうるさいですからね。そこの窓から逃がして、その後、手を洗いましょう。ゴキブリにはばい菌がいっぱいついてますから」
違う違う違う。ぼくの脳みそが先生の間違いを訴える。だけど、どこが間違っているのかはわからない。先生の言うことを何度頭で繰り返してもそこに間違いなどは見受けられない。先生の言ったことは当たり前のことだ。
しかし、ぼくは先生の言葉に間違いの匂いを感じ取っていた。
「はい!」
元気よく返事をして、窓へ歩いていく田中さん。その手に包まれたゴキブリは、脱出しようと必死にうごめいていた。
その不規則に鳴る羽音が妙に耳に残る、いやこびりつく。その音が聴こえるたびに身体に鳥肌が立ってくる。こんなことは初めてだった。
「もう入ってきちゃダメだよ」
そんな言葉をかけながら、飛び去るゴキブリに向かって手を振る田中さん。
固唾を飲んで見守っていた僕以外のみんなは、その様子を見て安堵したようだった。
なんてことはない普通の光景、なのにぼくは嫌悪感を抱いていた。
まるで知らない世界に放り出されたかのような疎外感。
その疑問に思考回路を支配されているうちに時は経ち、結局答案を埋められないまま、終了のチャイムが鳴った。
―爪吉視点―
「碧くん大丈夫かな」
霊猫小学校屋上。となりに爪丸さんはいない。当代二匹目の収爪を成したボクは、同時にアイデンティティーを確立し、成体と成った。
「一回だけならひと月で元通りになるらしいけど、ボクがここを任せられてるってことは……そういうことだよね」
いざというときは、碧くんと収爪を結べということだ。
冗談じゃない。そんなの許容できるわけがない————と前のボクなら思っていただろうな。
でも、成体と成って本当のことを知った後だと、それも悪くはないと思うのだ。
もしかすると幸せにはなれないかもしれない。だけど、自由ではあるのだ。
しゃらんと首元の鈴が鳴る。それも五つ同時に、まるで抗議しているように。
「でも……」
それはただ、“自由”に碧くんを突き落とすだけじゃないのか、自由というその響きにあの子の未来を丸投げしているだけではないのか。このまま、家族や友達といっしょにこの町で生きて死んでいく、それでいいんじゃないのか。
————でも、それは人間だと言えるのだろうか。家畜なんじゃないのか。
爪丸さんはどう考えているのだろう。
ああ————
「人間ってなんなんだろう」
「さあ? 私たちの生みの親ではありますね。お猫さん」
「えっ」
耳が上遠方に高不協和音を捉えたのと同時、そんな声が頭のなかに流れ込んできた。
音からの距離に無比例して、声は肝試しのときと変わらないくらい明瞭で————震え上がるような殺意を孕んでいた。
「上か!」
敵のおおまかな位置は音で特定している。だが、以前のように一方的に切り裂くことはできない————ならばやることは、一つ!
足に地を踏み砕かんばかりの力を込める。それと同時に耳に意識を集中する。捉えるは風切り音、出来うる限りの最高高度でマガツを迎撃する————
「やあ、こんにちは。では死んでくださ————」
「オマエがな」
ドンピシャのタイミング。跳び上がり、落下し、互いに対敵する両者、先手を取ったのはボク。ボクの伸爪(しんそう)、その制空圏にマガツが入った瞬間、前足で敵を弾き飛ばした————
「ぐ」
狙い通り。マガツは学校敷地外に吹き飛んでいく。いくら多数の猫地蔵による結界があるとはいえ、学校では戦いたくない。
ぼくも空中で方向転換し、吹き飛んでいったマガツを追う。収爪がなくともボクはマガツから町のみんなを守ることができる。それを証明するのだ。
ボクが上、アイツが下だ。こちらの圧倒的有利。今の伸爪の最大射程は三メートル、それも一瞬しか伸ばせない。その距離まで近づいて————切り裂く。
ぐんぐんと空中で距離を詰めていく、地上まであと十メートル。そして、マガツまであと五メートル、四、三————今!
「籠目伸爪(かごのめしんそう)!」
前方三メートルを十の爪撃で満たす、この状況では回避は不可能、いかにマガツといえども無事ではいられない。
「それがナギを斃した一因ですか。危なかったです……収爪だったならね」
決まった————と思った、だがマガツには傷一つついてはいない。感触も軽かった。なぜか? その答えは、ボクが代わりに引き裂いたモノにあった。
引き裂かれたのは、なんの変哲もない鼠だった。けどその程度で完全防御できるほどボクの爪は甘くない。よく見ると鼠の身体がへこんでいた。いや、へこんでいるというよりも“く”の字に折れ曲がっている。
「オマエまさか」
「ええ、その通りですよ。少し心苦しかったのですが、踏み台になってもらいました」
つまり、コイツはどこからともなく鼠を取り出し踏みつけて推進力を得、爪撃の籠を回避したのだ。
「どこから出したんだよ」
「それは企業秘密です」
思わずツッコむ。しかし、状況は悪い。このままでは相手が先に、地に足をつける。次に攻撃を受けるのはこちら。当然、モロに食らえば即死。
それだけはなんとか防がねば————
マガツの後ろ脚が地面につく、ボクが降って射程圏内に入ってくるのを待ちわびているようだ。爪か? 牙か? どちらだ。爪ならば受けるのは不味い、片前脚で抑えられて、もう片方で一撃入れられる。牙ならば回避は難しい、後ろ脚の推進力を合わせた突進のような噛みつきを見切ることはできない。この二択、外せば即死。だが、マガツの動作にはどちらの予兆も現れてはいない。いや————これは。
「それでは、さようなら」
「なにが、だよ!」
三つ目の選択肢があった。それは鼠。鼠でこちらを牽制し、続く攻撃を確実なモノにする、それがマガツの選択だった。マガツの身体で鼠を隠せる場所は一つしかない。
隠しているのは体内、ならば出てくるのは口から。それを読んだボクは、逆に身を翻して吐き出された鼠を踏んづけ、落下地点を修正する。
「この狸め」
「鼠です」
マガツの攻撃を躱したボクはやっと地に足をつけた。しかし、状況は悪い。ボクとマガツでは基礎能力に隔たりがあるからだ。ならば守りに徹して時間稼ぎ? 幸い救難は首の鈴で送っている。いや、ダメだ。相手だって増援が来ることは分かっている。ここは住宅街、ボクが時間稼ぎをすると見たら人間たちに矛先を向けるだろう。それに取り巻きの気配もある。救援を待つなんて悠長なコトは言ってられない。
————なら覚悟を決めるしかない。
「こいよ、マガツ。そのデカい図体切り刻んでやる」
「いいですねぇ、積極的なのは私好きですよ」
あとがき
はい読んでくれてありがとうございます。感想などなどいただければ今後の励みになります。
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