◎5

 ツクモは四次元の槍をサイコロの展開図のように一時的にほどくと、キンタロウとカビルを包囲するように幾重にも分かれた羽衣が襲いかかった。カビルは翼の水気が蒸発したせいもあって翼のリングが小さいまま飛べずにいた。


 キンタロウは襲い来る羽衣の猛攻を黒刀でいなしさばいて徹底抗戦するが徐々に押さえ込まれ、腕や足を鋭い刃物で削がれたように傷つけられた。この戦いの中でキンタロウはひとつ気づいたことがある。それは四次元の羽衣に触れた瞬間、三次元の物質が次々と消えているのだ。削るのとはまたすこし違い、消しているために損傷箇所の破片や肉片がこぼれないのだ。


「そういえば先生の心臓も消してやがったな」


 ちなみに黒刀が消えていないのは纏っている炎があるからだろう。炎は折衝した部分は毎回きっちり消火されていた。オシリスの黒刀でもってしても切れない、燃えない、破れない不破の羽衣にキンタロウは苦戦を強いられる。

 そんななかツクモは竜面をずらすと嫌らしく口を歪めて舌なめずりする。その舌の先には竜の指輪が嵌まっていた。ペッと天に向かって指輪を吐き出すと、空中でくるくると乱回転する。そして地球の重力を借りてツクモの立てた右手の人差し指に指輪は吸い込まれるようにスッと嵌まった。


「親愛なる我が魂の友輩ともがらよ。森羅万象輪廻しんらばんしょうりんねの輪と繋げたまえ」


 ツクモはそう詠唱した――次の瞬間、四次元の羽衣はまるで生き物のようにうねると包み込むように世界竜を貪食どんしょくした。飲み込まれた世界竜の闇菌は剥がれ落ちて骨だけとなる。奇怪なことに羽衣はみるみる肥大化して赤黒く染まり不気味な成長を遂げた。


きゅうりゅうのまにまに」


 ツクモがこいねがうように口ずさむと、それから羽衣はツクモの腕や足や胴体に巻き付いていく。やがて赤黒い羽衣の十二単を形成した。さらに十二単の上からツクモの全身を白い竜骨が保護しており、白兜からは長く伸びた二本の羽衣が昇り龍のごとく立ち昇っている。その竜骨に幾重にも巻き付いた十二単は鯉のぼりが揚がるようにはためていた。絢爛豪華なお召し物にあの朱い竜面が埋もれてしまうほどである。


「アクタリュカ・【双劉骨九十九川産衣そうりゅうこつつくもがわうぶきぬ】」


 ツクモは拳を握りしめて十二単骨鎧具足じゅうにひとえこつよろいぐそくの着心地を確かめた。加えてツクモの手には先ほどよりも長さも太さも格段に増した赤黒い四次元の大槍が握られて――は、いないにもかかわらず空中に未確認飛行物体のように大槍は浮遊していた。

 キンタロウは瞬く間に竜を制して空の覇王となったツクモを疎ましく見上げた。それから飛べない竜となってしまったカビルを見やると、キンタロウは自らの平温のおでことカビルのひんやりとしたおでこをつき合わせた。


「カビル、まだやれるか?」


 そのキンタロウの投げかけた言葉にカビルは小川の流るるような声音で啼き返した。次の瞬間、キンタロウの心臓と菌臓が暴れ出してキンタロウはぐっと胸を強く押さえる。竜化が一段階進行してキンタロウの左前腕までを覆っていた灰のような竜鱗が右手にも現れ、さらに面積を拡大させると首筋にまで到達した。両手の爪が鋭く伸びて左こめかみの実体の希薄な菌角も比例するように発達してたくましくなった。そしてキンタロウは黒刀をその場に突き立てると左手を貫手に構えたのち、深呼吸してからあろうことかその貫手を自分自身に向ける。


「悪りィ。これで最後になるかもしれねェが後生だ。俺に力を貸してくれ」


 そうキンタロウは長年連れ添った相棒に断った。


「一丁かもしてやろうぜ――アスペルギルス・オリゼー!」


 そう言ってキンタロウは左貫手で自身の右胸をグサッと刺した。正確には菌臓を貫いたのだ。――その刹那、血液とともに膨大な量の灰色の菌が漏出した。竜化の影響で灰色に染まった麹菌は瞬く間に辺りを埋め尽くし、果てはプトラプテス王国全土に蔓延り倍々に増殖した。


 菌。

 菌菌。

 菌菌菌菌。

 菌菌菌菌菌菌菌菌。

 菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌。

 菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌。

 菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌菌。



「気持ちわるっ!」


 それはあのツクモをしても閉口させてしまうほどだった。集合体恐怖症の人でなくともこれだけの菌の嵐を浴びれば卒倒してしまうだろう。しかしそんなことなどお構いなしに菌の爆心地に苔の生えたように佇みながらキンタロウは黒刀の柄頭に両手を束ねた。


灰麹菌床はいこうじきんしょう――《天地衣空灰海てんちえくうかいかい》」


 雲海のような菌の海が辺り一面に広がり空と地の境界線をぼやかすようにすべてが等しく菌海に沈んだ。イースト菌によって膨れ上がったパン生地のように忍者警察の死体がパンパンに発酵する。カビルはその菌の海のプランクトンをしとるように食すと透明な翼がみるみるうちに元の大きさに戻った。その隣に立っている二段階竜化を果たしたキンタロウを見下ろしてツクモは尋ねる。


「村人A。おみゃー、ほんとにニンゲンかい?」


 その判りきった問いにキンタロウは遅ればせながら自己紹介した。


「俺は火山灰菌太郎だ」

 

 キンタロウは竜鱗に覆われた右手で地面に突き立った黒刀の柄を握り直して引っこ抜いた。その返す刀で天に向かって一太刀振りかざす。菌海が叩き割れてブッシャーンと波音が鳴った。キンタロウとツクモの視界が一直線に通る。


「カビル、頼む」


 そのキンタロウの願いを叶えるようにカビルは姿勢を正すとマーブル模様の心臓核がものすごい勢いで自転しだすのが透けた体から確認できた。その心臓核の自転は光速域にまで達しているんではないかというほど回転して青白く光った。それからカビルは口に七色のエネルギー体を溜め込むと上空のツクモめがけて発射した。


隔靴掻痒かっかそうようだっつーの」


 ツクモは赤黒い十二単をはためかせながら手をかざすと虹のブレスを大槍の穂先で受け止めた。虹は槍に直撃してツクモの背後の四方に散っていく。するとなんと驚くべきことに天翔る虹のブレスの上をタッタタッとキンタロウは黒刀を構えながら橋代わりに駆け昇り始めたではないか。

 しかし、その間に白い竜骨を先端に持った赤黒い十二単が次々と伸びてキンタロウに襲いかかった。キンタロウは燃える黒刀で熾烈に迫り来る十二単を弾きいなしながら虹の架け橋を渡っていく。ツクモの眼前まで駆け上がったキンタロウは青黒く燃えた黒刀をツクモめがけて振り下ろそうとした。しかし近ければ近いほどに十二単の猛攻は凄まじく迸り十二本の羽衣が一気にキンタロウを穿ち貫こうとした。


「――ッ!」


 咄嗟にキンタロウは黒刀で防ぐも一点に集中した力は計り知れずパキンッと無情な音を立て黒刀はへし折れ、見るも無惨な姿に変わり果てた。それだけでなくキンタロウの両腕はスパッと切れ味鋭い羽衣で亜空切断された。両腕は完全に断ち切られて白い骨まで丸見えとなりもがれた翼のように空を落下する。あと一歩のところでツクモに届かない。


「たったひとりの人間に何ができんだよ? なあ?」


 ツクモは冷淡に言い放つと、ハシゴを外すように虹のブレスを大槍で弾いた。そのまま返す刀でキンタロウを貫かんとする。しかしその刹那、キンタロウはカブトムシのように左前頭部に生えた角で赤黒光りする大槍を受け止めた。そして言う。


「ひとりじゃねェよ」

「なぬぽ」


 鳩が豆鉄砲を食ったように面喰らうツクモ。


「俺には星の数の百倍の菌がいている」


 その次の瞬間、キンタロウの切断されて落下する腕と根元の切断面が納豆の糸を引くように何本も結ばれた。そのまま引き寄せられるとキンタロウの腕は合体して骨や筋繊維、果ては血管や神経までもが元通りとなる。


「人間のくせに菌糸の縫合を使えるとは魂消たまげた」


 上から目線で物言うツクモ。


「で? それがどうしたの?」


 ツクモの言うとおり、それでも未だキンタロウが徒手空拳であることに変わりはない。しかしそれがどうしたのがどうしたと言わんばかりにキンタロウは右拳を握り込んだ――次の瞬間、天使の輪のような虹のリングがその竜拳の前に直列して架かる。その波紋のような円状の虹は七重にも架かっていた。


虹麹菌にじこうじきん――」


 行き当たりばったりのその場しのぎで奇跡的にツクモの懐に入ったキンタロウはこの千載一遇の好機を絶対に逃すまいと、七色の虹麹菌のリングを纏った拳に全身全霊を込めた。この身果てようとこの一撃に全ての思いを乗せる。そしてキンタロウはツクモめがけて七色の拳をぶっ放した。


「《アスペルドラ・ウリュート》!!!」


 しかしツクモも大槍をキンタロウの角から組みほどいたのち七色の拳に突き当てる。赤黒い大槍と七色のリングの架かった拳が衝突して辺りの菌海の波が引くように吹っ飛んだ。そんななかキンタロウはすぐさま劣勢に立たされた。というよりは劣勢に立つほかないのである。キンタロウには足場と呼べる足場がなくそれはツクモ側も同じだったが、向こうには超常的な羽衣の浮力がある。

 一方のキンタロウは虹の橋を飛躍したのに加えて虹の拳を放った勢いで突き進んでいるに過ぎず作用半作用の法則からはやはり逃れられない。勝負を決めるならば虹の拳の初速で決めなければならなかったのだ。しかしツクモに受け止められてしまった今となっては待ち受けるのはジリ貧である。さらには拳の虹のリングの一輪にピキピキとひびが入り始めていた。


「クソッタレめ」


 キンタロウがツクモの大槍の貫通力に上から押し潰されそうになっていた――まさにそのとき、下空からカビルの虹のブレスの援護射撃があった。しかしそれはツクモを狙ったものではなくキンタロウめがけて一直線に架かるではないか。虹のブレスはキンタロウの足を押し上げるようにして体ごと虹拳を加速させた。地上から見ればまるで飛行機雲のようにキンタロウの足下から虹が噴射されているような格好である。これで土俵は整い、あとはキンタロウとツクモの魂の力比べが始まった。


「オリゼェヱァァアアアアァァアァッアァアアァアアアアァアアアァ!」

「ツゥーックゥウウウウウゥウウウウウウツゥーッウウウウウウウゥ!」


 大槍の捻れた穂先と真円の虹拳が組み合っていたが虹のひとつがピキンバリンと割れた拍子に絶妙なバランスを保って組み合っていた大槍と拳に若干のズレが生じた。それは須臾しゅゆの出来事だったが命懸けの真剣勝負においては決定的だった。回避する時間も引く距離もなく、あとはもうノーガードで最後まで攻撃を遂行するしかない。臆したほうが死ぬ。キンタロウとツクモは両者ともども暗黙のうちに理解していた。お互いに攻撃を相手になるべく早く当てなければならなかったが、ここで武器のリーチの差が出た。キンタロウの拳よりもツクモの大槍のほうが早くキンタロウの胸を深く深く貫いたのである。


「グアッ!」


 渋面を作るキンタロウだった。がしかし、刺し貫いたはずのツクモのほうがなぜか驚きの反応を見せていた。それはキンタロウの貫かれた部分を見れば謎はすぐさま解ける。なぜならツクモの大槍はキンタロウの右胸部を深く深く深すぎるほどまでに貫いていたからだ。つまりツクモはキンタロウがすでに先ほど自傷行為として貫いた部位を重複して突いてしまったのである。そうしてしまった原因はツクモの焦燥だけではなかった。


「誘いやがったね、コロヤノー」


 戦う相手のすでに傷を負っている部分に追加で攻撃を仕掛けるのは常套手段である。立ちションをする際に目標物があったらそれめがけて放尿するようなごく自然なことだった。だがそれにしたってキンタロウはノーダメージとは言えない。右の菌臓は元より右肺も機能を完全に失ったはずである。しかしキンタロウは肉を切らせて骨を断つように大槍を左手で掴んでからもっと深く押し込む。その反動を利用して七色の虹の架かる右拳をツクモの胸部に向けて重く突き放った。

拳骨こいつめえだァ!」


 キンタロウは雄叫びを上げながらツクモを覆う竜骨の外骨格鎧がいこっかくよろいをメリメリメリと粉砕骨折させる。生身の深部の奥の奥まで波紋のように力が伝達される。ツクモの体を守っていたはずの肋骨たちはボキボキに折れて、今度は逆に十二単の中で鋭い凶器となり宿主に歯向かった。そのままキンタロウの重い一撃はツクモを空の彼方へと吹っ飛ばして超巨大キノコ雲ごとボッゴンと貫いた。そのぽっかりと空いた雲間からは太陽が燦々さんさんと顔をのぞかせる。


「…………」


 しかしせっかくの日の目を見る気力も体力もなくキンタロウの足下に架かった虹がスッと消えると、大槍の突き刺さったままキンタロウは自由落下した。その下に待ち構えていたカビルの透明な翼にポヨンと柔らかく受け止められる。その軟水の中でキンタロウの右胸を貫いた大槍が背中側からヌルッと抜かれるとカビルの透明な翼に赤いドジョウのような鮮血が広がった。透明な翼は邪悪な大槍をポンと吐き出すと、明後日の方向の地面に突き立つ。

 一方のキンタロウはつるんとウォータースライダーのようにカビルの透明な体内器官を巡って口から吐き出されると地球の大地に帰還した。カビルの前足に背中をもたれながら満身創痍のキンタロウはむせっ返りながら鼻血を垂らす。加えてとどめとばかりに吐血する。


「わかってらァ、そう急かすな。今そっち行くからよ」


 もう永くはないだろうことは誰の目にも明らかだった。


「すまねェな、セツ」


 妹への謝罪を遺言としたのちキンタロウが息を引き取ろうとした瞬間、カビルが俊敏な動きでキンタロウを突き飛ばした。

 ――刹那、その透き通ったすらりと長い首に赤黒い大槍がチャプンと突き刺さる。カビルは超音波のエコーロケーションのような啼き声を上げた。


「カビ……ルゥ!」


 倒れ伏しながらも呼びかけるキンタロウが顔を起こすと、そこには思わぬ人物が現れた。それはツクモだった。といってももはや原型はない。胸部から首にかけて吹き飛びながらも羽衣を細くチューブ状にして何本も自身の血管と結びつけてなんとか生存している。右腕はかろうじて繋がっており左腕と首から上は羽衣血管で棒人間のように繋がっていた。しかし、その羽衣血管は途中でピュッピュッと破けて出血が認められる。そんな変わり果てた姿で現れた瀕死のツクモ。まるで地獄の使者である。


「邪魔すんな、ドブゲロ竜がよ!」


 カビルに毒づきながらボロ雑巾のような羽衣でブチブチと容赦なくキンタロウの首を絞める。宙吊り状態となるキンタロウは呻き声を上げながらも、もはや抵抗する力は残っていない。何の誇張もなくキンタロウは空っぽになっていた。


「……なんだ、こいつは」


 するとその直後、空っぽのキンタロウの心の隙間に新たな影がじわじわと浸食していく。その影はやがて肉体を蝕み、視界を奪っていく。キンタロウの目玉はひっくり返りブラックホールのように光を失った。右胸の傷が塞がり全身を竜鱗が覆う。尾てい骨から長い尻尾が生えた。さらには獅子のたてがみのように髪が伸びていき、キンタロウの脳味噌が暗闇に支配されて侵されていくとともに右前頭部からも角が生えて合計二本の頭角が現れた。そして背中からは二対の青黒い重瞳ちょうどうのような模様の翼を獲得した。


「完全に竜化しやがった」


 ツクモは予想外とばかりに呟く。すると自我を失った竜のバケモノは言葉になっていない声を発した。自身の首を締め付けるボロボロの羽衣を掴んだのち鋭く尖ったギザギザの牙で野蛮にも噛みちぎった。


「保有菌で竜化を抑えていたようだけど菌臓を貫いたんだ。菌断症状による竜化促進。もはやステージの竜化を妨げるものはないぜ」


 興奮を隠しきれない様子で状況確認しつつツクモは竜の指輪の嵌まった人差し指をクイクイッと動かした。大槍がカビルの首から引っこ抜け、そのまま狡猾にも竜のバケモノへと向かった。しかしバケモノは歯牙にもかけない様子で大槍に向けて手を翳した――刹那、パンッ! と、木っ端微塵に消し飛ばした。

 一方、大槍が抜けて自由の身になったカビルが心配そうに竜のバケモノに近づく。だがしかしバケモノは親友にまで牙を剥く。水面を叩きつけるようにカビルに向かって裏拳を放つとそれはカビルの全身に波紋が広がるほどの衝撃を与えた。カビルは為す術なく飛び散って30メートルばかし吹っ飛ばされた。

 そして竜のバケモノはツクモに向き直った瞬間、ツクモの体に初めて戦慄が走った。


「ツゥーックックック。竜の本能と人間の本性の融合化かかかかか」


 ツクモは地面に尻餅を着き、あとずさる。竜の指輪を嵌めた人差し指で小さく無限大を描くと羽衣の破片がバケモノの背後で寄り集まった。そしてその羽衣の破片は元の大槍を形作る。ツクモは自身の今や欠損してしまった胸の前に人差し指を構えて挑発するようにクイクイッと屈伸させた。大槍は竜のバケモノの背中めがけて急発進した。


「死んじゃいなよ、You」


 しかしその刹那、竜のバケモノは忽然と姿を消した。


「な……に!?」


 そして行き場を失った大槍は当然ツクモめがけてまっしぐらに突き進み、そのトレードマークである朱い竜面ごと左眼を貫通した。


「イッツクァアアア!」


 大きな悲鳴を上げるツクモ。その次の瞬間にはツクモの目と鼻の先に竜のバケモノは現れた。そして後ずさるツクモを逃がさぬようにバケモノはツクモの左眼に突き刺さった大槍を掴む。しかし、その左眼の痛みよりも恐怖の勝ったツクモは患部の摩擦など関係なく力尽くで後退すると、大槍がずるずると左眼窩ひだりがんかからすっぽ抜けた。ツクモは左手で左眼を押さえながら右人差し指を上げたままバケモノを差してわなわなと震わせる。

 竜のバケモノは獲物の目玉や肉片しかついてないただの大槍に興味を失ったように放り捨てたのち、ツクモとの距離と詰めた。そしてその差し出された手頃な人差し指を竜の指輪ごとバケモノは噛みちぎった。


「――ッゥク!」


 あまりの激痛にツクモは悲鳴を噛み殺すほどの苦悶を浮かべた。それを無視して竜のバケモノは指輪ごと根元から噛みちぎった指をゴクリと飲み込んだ。人差し指の元あった場所から真夏のソフトクリームのように溢れる血を眺めながらここまでくるとツクモも笑うほかなかった。


「そうだ。これだよ。これが生きてるぅーッつーことだもんなぁ!」


 死を目前にして最高にハイになっているツクモの金髪天パをバケモノは無感情にガシッと掴み上げ宙吊りにする。それから竜のバケモノは鋭い歯ののぞく口許に青黒いブレスの源となるエネルギー球体を溜めた。それは邪悪な原子の惑星のように円循環して無遠慮にさらに拡大していく。


「やれよ! 殺せ!」


 ツクモは煽るように言った。

 青黒い球体がアンパンの餡子くらいになった――まさにそのとき、とある白い影が忍び寄った。その白い影の手にはなんとが収められていた。それを竜のバケモノの顔面に押しつけるようにその白い人物は被せた。その際、蒼い竜面に押し潰された青黒球はバケモノの口の中に押し込まれ、鼻と耳の穴から気体となって抜ける。


「おみゃー、なぜ生きてん?」


 ツクモが驚くのも無理はない。

 なぜならその人物はツクモ自らが確実に息の根を止めて葬り去ったはずなのだから。

 しかしその幽霊はツクモの質問には答えない。

 代わりにおよそ死人とは思えないほど感情豊かな声音で呼びかけた。


「人に戻ってきて。あなたは人よ――キンタロウ」


 生前と1ミクロンも何ら変わりない様子でアルコは懇願した。本来、変わらないものなどこの世にないというのに。

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