第3菌 世界竜降臨

◎1

「キンタロウ……どうしてこの場所が?」

「知らねェよ。俺はただ導かれるままについて来ただけだ」


 アルコが尋ねるとキンタロウは気だるげに答えた。

 しかし見たところ案内人などは見当たらないが……。もしやカビルではあるまい。

 アルコが疑問に思っているとキンタロウは目線を下にずらして問う。


「つーか、どうして竜爺がここにいるんだ? 説明してみそ」

「えっと……それはですね」


 アルコは腕の中の浅い呼吸の竜爺を見下ろしながら言葉に詰まってしまった。


「まあいい。今は逃げるほうが優先だ」

「は、はい」


 アルコは竜爺をお姫様抱っこしてからキンタロウとすれ違うかたちで廃工場の出口へ向かう。するとそのすれ違いざまにキンタロウは真剣な口調でアルコに懇願する。


「背中は俺に任せろ。だから竜爺を頼む。先生」

「え?」


 アルコは呆気にとられる。キンタロウの顔はうかがえなかったがアルコは真摯に答えた。


「はい!」


 しかしそのアルコの的の大きい背中にホワイトエース先生は追撃する。


「簡単には逃がしませんよ」


 パシュン! ストンッ! と注射銃が撃たれたがその針はアルコに届くことはなかった。なぜならキンタロウが右手のひらで受け止めたからである。手編みの手袋をはめた手のひらに針が貫通して紫の液体が切っ先から漏れ出た。


「ちっとも効かねェな」


 キンタロウは自身の手のひらから注射器を引っこ抜いて収穫したのち、カランと床に投げ捨てる。


「さてはあんたヤブ医者だろ?」

「僕は僕の患者を僕のやり方で治すだけだよ」

「きひひ。俺の知ってるヤブはみんなそう言うぜ」


 キンタロウは外套を脱げ捨て両手の手袋を外してズボンの後ろポケットにぶら下げる。キンタロウの右手のひらの血管は黒く変色しており、それを覆うようにして自身の両手を握った。すると突如、両手の中からムクムクと黄みがかった大きな菌塊が膨れ上がった。


「一丁かもすぜ」


 ブッシュームワワワァーン! と、なんとも香ばしいにおいが廃工場内に立ちこめた。かと思えば、キンタロウの拳からフィアライドが花びらのように放射状に伸びてその先端には分生子がぶら下がっており、それはまるで数多の小さな手が生えているように見える奇妙な拳だった。


「すごい菌の量だね。おもしろい。それがきみの保有菌か」


 興味深そうにホワイトエース先生は呟いた。するとその横をヤク中の男たちが発狂しながら駆けてキンタロウに群がる。

 その次の瞬間――


「では僕もそろそろ本気を出そうか」


 ホワイトエース先生が軽くステップを踏むと足下を中心にピキピキと次第に凍り付く。あっという間にスケートリンクのように廃工場内が整氷された。そしてヤク中の男たちの足が止まる。一瞬、何が起こったのかわかっていない様子の男たちだったが、自身の足下を見ると徐々に太ももから腰にかけて凍っていることに気づいた。だがもう遅い。男たちは叫ぶ間もなく全身氷漬けにされてしまった。


氷人形アイスドールの完成だ」

「あんた、氷結アイス菌の保菌者だったのか」

「意外かな?」

「いんや、どおりで寒い野郎だとは思ってたよ」


 そう言ってキンタロウは拳を大きく振りかぶった。それに呼応するようにホワイトエース先生は空気中のわずかな水分をアイス菌によって凍らせ、右手の指と指の間に三本の氷でできたアイスメスを握り込む。


「ではさっそく縄張り争いと洒落込もうか」


 二人からあふれ出る無数の固有菌たちは生存競争を繰り広げ、廃工場の中心を境にぶつかりせめぎ合う。冷たくも香ばしい雰囲気が醸し出されるなか、カビルはツルツルと氷上を滑るとついには昆虫のようにスッテンコロリンと仰向けになってしまった。


「……ッ!」


 キンタロウの固有菌はアイス菌に押され始め、ホワイトエース先生が余裕の笑みを浮かべた。というのもだいたいの菌は寒さに弱く温暖な気候のときに活発化するのだ。それはキンタロウのも例外ではなかった。

 そして劣勢を強いられながらキンタロウが顔をしかめた、まさにそのとき――


 グジュグジュグジュッ!


 と、廃工場の天井が真っ赤に染まった。かと思えばその次の瞬間、青い火柱がキンタロウとホワイトエース先生の間に貫き立った。お互いの保有菌たちは爆風ではじけ散った。一方で氷漬けの男たちは業火に包まれると一瞬にして氷は蒸発し悲鳴が解凍される。皮膚が黒く焼け焦げた男たちは青い火の海を溺れるようにもがき、そのうち倒れて動かなくなった。


「チッ、何が起こってやがる」


 キンタロウはぼやきつつ火柱を隔てた向こう側のホワイトエース先生にひと睨み加えたのち、カビルを抱えて廃工場から脱出する。外に出るとアルコと合流した。しかしアルコはキンタロウには目もくれず満開のケシの花畑に呆然と立ち尽くしており灰色の空を見上げていた。

 まさしく青天の霹靂。超巨大なキノコ雲が稲妻を生み出しながら無菌城のすぐそこまで迫っていた。アルコは絶望した。


「どうして、こんなときに世界竜が……」


 世界竜。

 それはこの星の生態系の頂点に君臨する存在。そしてすべての元凶の始まりだ。

 超巨大なキノコ雲を竜の巣として棲み、日夜世界中に竜痘菌の胞子を撒き散らしている。空を覆う体躯に山を砕く爪、雲を噛みちぎる牙、そして星を払いのける尾を持つと言われ、全貌はうかがえないが超巨大なキノコ雲に巨影を落とす。ピカッと雷鳴が轟くとキノコ雲の中に長い首と二本の角、太い四肢と尻尾、そして悪魔のような翼のシルエットが浮かび上がった。


 すると超巨大なキノコ雲から青い炎がディカリア王国全土に降り注ぎ、それは無菌城も例外ではなく雪よけ用のドームがホワイトチョコレートのようにドロドロと溶けて無菌城の尖塔に浴びせかかった。


「……お父様、お母様」


 アルコはその場に膝をついて竜爺をケシ畑に降ろすと胸元の菌呼びの笛を握り締めて祈る。

 ――どうかまだ鳴らないで、と。


「いよいよ逆鱗に触れてしまったようですね」


 パリンと廃工場の窓を凍らせて割ったのち、難なく脱出したホワイトエース先生。


「竜痘菌のコントロールが許されているのは世界竜だけですから」


 ホワイトエース先生は白衣に刺さったガラスをはたき落としつつ意味深に呟いた。そんなホワイトエース先生を怪訝そうにキンタロウが睨んでいると、


「竜お爺さま! しっかりしてください!」


 と、隣のアルコからただならぬ声が聞こえた。


「……竜爺の容態は?」

「息をしていません」


 アルコは涙目で報告する。


「心臓の鼓動も止まっています」

「…………」


 キンタロウは目を見開き、動揺を禁じ得ない様子だった。

 しかしアルコは最後まで諦めずに竜爺に強心剤カテコールアミンを打ち、心臓マッサージを開始した。竜爺の被ったままの蒼い竜面にアルコが手をかけようとしたところでキンタロウがそのアルコの手を掴み、制止させた。


「もういい」

「でも……!」

「ありがとうな、先生」


 あまりにも穏やかなキンタロウの声にアルコは気圧されて逆らえなかった。

 そして、そのまま竜爺は息を引き取った。


 私は無力だ。医者の卵なのに誰も助けられていないではないか。アルコは自らの無力さを痛感しながら竜爺の亡骸を抱いてむせび泣いた。


「すまねェな」


 キンタロウはなおも穏やかな表情でその辺の白いケシの花を千切ると亡骸に献花した。


「安らかに眠ってくれよな。竜爺」


 すると花の匂いに誘われるかのようにどこからともなく幸せを運ぶ青いモルフォチョウが舞い始め、花びらとともに狂喜乱舞する。突如、竜爺の遺体から青白い綿毛のマリモのような物体が浮遊した。それはまるで魂が抜けるように。


「これは……竜玉りゅうだま菌」


 アルコは実際に見るのは初めてだった。それは竜痘菌の患者が亡きあとに生まれる産物といわれている。竜爺の竜玉菌のまわりをモルフォ蝶が誘導するように旋回して天に昇っていくと、キンタロウは躊躇なくその竜玉菌に手を伸ばした。しかし紙一重で捕まえることは叶わない。

 私も目の前の人物がお母様だとしたらキンタロウとまったく同じ行動を取っただろうとアルコは思った。まるで肉体は土に還り、魂だけが天に昇るようでそれを地上の人間は喪に服して見送ることしかできない。


 竜爺、永眠。


 ケシの青い焼け野原にわずかに焼け残ったケシの花の蜜を吸う蝶が青く燃えて灰になった。

 するとそこでキンタロウから復讐心とともに黄みがかった菌が溢れだした。


「絶対に許さねェ」

「おやおや、どうやらこちらの逆鱗にも触れてしまったようですね」


 ホワイトエース先生と真っ向から対峙するキンタロウ。

 花粉を濃縮したような菌が拳に集約するとキンタロウは焼け野原を走り出してから待ち構えるホワイトエース先生に突撃した。


破精はぜろ!」


 キンタロウは左手を右胸の菌臓部に添える。そして右拳に全体重を乗せて突き出した。


「《アスペルギルス・オリゼー》!」


 ブッシューン! オリオリオリオリ!


 と、キンタロウの血液中のタンパク質をニホンコウジカビアスペルギルスオリゼーが分解して爆発的に繁殖する。辺りは黄みがかった霧に包まれた。しかしそのキンタロウの拳がホワイトエース先生に届くことはなかった。ほどなくしてキィーガッシャーンと廃工場が焼け落ち、霧が晴れるとキンタロウの前にアルコは立ちはだかっておりホワイトエース先生をかばっていた。

 キンタロウは低い声で問う。


「どういうつもりだ?」

「これ以上争うのはやめてください」

「はあ? そんなヤツ生かしておく価値ねェぜ」


 アルコはガスマスクを外した。面喰らったようなキンタロウの瞳を直接見返してから決然と言い放つ。


「今は国難です!」


 アルコの瞳は青く燃えていた。


「自国民同士で争っている時間はありません。それに私刑は犯罪です。この国難が去ったあと、ホワイトエース先生にはしかるべき処罰が下されることでしょう」

「その国が存続できるかもわからねェだろうが」

「そうですね。でもセツちゃんはきっと悲しむと思います」

「…………」


 ディカリア王国王女の言葉ではなくアルコ個人としてのその言葉を聞いて、キンタロウは舌打ちしてから右拳を左の手のひらの中に収めた。そんなかつての教え子の大きくなった背中に守られたホワイトエース先生は懐かしむように顔を綻ばせる。


「昔から変わらない。きみはしゃらくさいほどやさしいね」


 そう言い終わるやいなや、ホワイトエース先生は喀血して倒れた。白いケシの花に赤い血がポタポタと滴る。


「ホワイトエース先生!」


 アルコはあわてて抱き起こしてホワイトエース先生の腕をめくるとそこには痛々しい注射痕と黒い雪の結晶構造のような血管が浮き出ていた。


「まさか……先生自らドラオペを接種されたのですか?」

「……」

「なんで……どうして!」

「さあどうしてだろうね」


 ホワイトエース先生は自嘲気味に笑った。


「どんな名医でも人間の愚かさまでは治せないということなんだ」

「それは……どういう意味ですか」


 そのアルコの問いかけには答えずにホワイトエース先生は逆に問う。


「アルコ、薬は誰のためにあると思う?」

「それは患者のためです」

「違う。馬鹿な医者のためだよ」

「…………」

「だが、あいにくと困ったことに馬鹿につける薬はないんだ」

「……先生」


 医薬が巨大ビジネスなのは現実だ。今どき製薬国家なんて珍しくもない。この人は私の知らない世界を知っている。そこでずっとひとりで戦い続けてきたのだ。そしていつしか巨大な闇にとうとう自分までもが呑み込まれてしまった。


「あなたは医者失格です」

「ああ。すまなかった」

「謝るくらいならひとりでも多くの困ってる病人を救ってくださいよ! この国には先生が必要です!」


 アルコは必死に訴えた。まだここでホワイトエース先生を死なせるわけにはいかない。

 絶対諦めてたまるもんか。

 アルコはなりふり構わず、見守っていたキンタロウに水を向ける。


「キンタロウ、お味噌はありませんか?」

「あんた、こんなときに何を言ってんだ? 正気か?」

「はい。私はいたって正気です」


 アルコは頷いてから衝撃的な事実を告げる。


「私の行った研究によると実は味噌に含まれる麹菌――アスペルギルス・オリゼーが竜痘の進行を食い止めていたことがわかりました。だからセツちゃんは五年もの間、生き延びていられたんです」


 その衝撃的な事実を受けてキンタロウとホワイトエース先生は同時に目を丸めた。


「菌の代謝産物による医薬品はあるが……しかし、まさかアスペルギルスが……」


 そう独り言のように呟いてからホワイトエース先生は目を細めてふっと笑みをこぼした。


「でもアルコ、僕はもう手遅れだよ。それに竜痘の変異株であるドラオペに効くかどうかもわからない」

「諦めちゃダメです!」


 アルコは昔自分がホワイトエース先生に言われた言葉をそっくりそのまま返した。


「だいじょうぶ。先生はひとりじゃありません。治るまで私がついていますから」


 アルコは自然と涙があふれてホワイトエース先生に泣きすがる。そのポロポロと落ちる涙は氷結菌の働きによって氷の結晶に変えられキラキラと輝いた。


「私、知ってましたよ。先生が無償でモルド街の人々を治療していたこと」

「それは……単なる気まぐれだよ」

「たとえそうだとしても……」

「いいかいアルコ、医者は万能ではない。この世に万能薬なんてものは存在しないんだよ」


 ホワイトエース先生は諭すように言った。

 病を受け入れるのもひとつの手なのかもしれないがアルコは納得できなかった。


「本当は先生は竜痘に罹った人の苦しみをすこしでも取り除くためにドラオペを開発したんじゃないんですか?」


 たとえそれが患者の生までをも取り除く結果になったとしても。ホワイトエース先生はきっとすべてを説明したうえで患者に納得してもらって法外な治療を行っていたはずだとアルコは思っている。

 アルコはすべての安楽死が悪いとは思わない。殺して生かす。そんな華道のような美しい考え方があってもいいだろう。しかしけして他人に生殺与奪の権を握らせてはいけない。それは本当の意味で生きているとは言えない。ならば医者は患者の生殺与奪の権を握っていないと果たして言えるだろうか? その肉体を生かす行為自体が患者の心を殺す行為ではないと、どうして言えるだろうか?


「僕はもう疲れたよ」


 ホワイトエース先生はゆっくりとまばたきした。


「人の死に触れるのに慣れてしまった。そして生きることに飽き飽きした」

「そんなこと言わないでください」

「これは正しくない行いをした報いだ」

「それなら……! 私には何が正しいのかわかりません」


 もっとわかりやすい世界に生まれたかったとアルコは強く思った。


「それでいいんだよ、アルコ」


 ――ご立派になられましたね。


 そう言って、ホワイトエース先生はやさしく笑うと、髪の色素が抜けて白く染まる。ケシの花と勘違いしたのか一羽の青い蝶がその白髪に止まった。


「ASAP。もう行きなさい。アルコまで巻き込まれてしまったら国王に会わせる顔がない」

「……でも、先生」

「きみは僕みたいになるんじゃないよ、アルコ。きみだけは綺麗なままでいてくれ」

「ホワイトエース先生!」


 私に医学の素晴らしさを教えてくれた先生。

 そして私に初めて恋を教えてくれた大切な人。

 そんな在りし日の思い出はケシ畑とともに青く燃え盛り、ホワイトエース先生と竜爺の竜玉菌が空に昇っていく。それ以外にもディカリア王国の各地から無数の青白い竜玉菌がキノコ雲に吸い込まれていった。まるで夢でも見ているような幻想的な光景が広がっていた。

 しかし今まさに国民たちが命を落としている。王女に悲しんでいる暇などない。


「待っていてください。私が全国民の命を救ってみせます」


 アルコは涙をぬぐって毅然と立ちあがった。

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