◎2
ここは足の踏み場もないほど雪に一面を囲まれたモルド街のとある廃工場内。足跡を覆い隠すほど前からアルコは息を潜めていた。すると情報どおり痩せぎすの背の高い男性がやってくる。髪は長く白衣を纏い、その手にはジュラルミンケースを所持しており高級な腕時計をしきりに気にしている。さらにそこへ背の低い人物が歩いてきて合流すると白衣の男性はジュラルミンケースを渡した。
「例のブツと報酬だ。受け取れ」
「はいですじゃ」
いやに聞き覚えのある声がしてアルコは確信を強めた。しかしここまで来た以上いまさら引き返すわけにはいかない。
「そこまでです!」
アルコは木箱の物陰から立ちあがって声を上げると静まり返る廃工場内で痩せた中年男性と対峙する。床には粗悪な注射器が散乱しゴキブリやネズミが這い回って逃げていった。
そのなかで白衣の男性は薄笑いを浮かべる。
「おやおや。こそこそ嗅ぎまわっていたネズミはやはりきみだったのか、アルコ」
「私はマウスじゃありません」
「いいや、きみは袋のネズミだよ。それともモルモットのほうかな?」
「いいえ。私はマウスでもモルモットでもありません」
アルコはこれまた的外れな否定をした。そして言う。
「――私はドクターです」
正確には医者ではなく医者志望である。
しかし構わず、アルコはその白衣の人物の名前を呼んだ。
「あなたもそうだったはずでしょう。ホワイトエース先生」
アルコとホワイトエース先生は同じ目線の高さで見つめ合った。
実はアルコが医者を目指した理由のひとつはホワイトエース先生に憧れたからだ。身長は追いついたはずなのに、しかしあの頃とは違い、ふたりの見ている景色は雲泥のように違っていた。
「残念です。こんな形でまたお会いすることになろうとは」
「僕も同じ気持ちだよ」
そうしてホワイトエース先生から目線を横にずらすと、先生の陰に隠れた身長の低い人物とアルコは目が合った。特殊な方言を聞いたときからもしやとは思っていたがその嫌な予感が的中していたようだ。
「竜お爺さままで……どうして」
受け取り人は竜爺だった。蒼い竜面の奥の瞳が丸くなったのち無言で顔を伏せる竜爺を見て、アルコは頭が真っ白になってしまう。かける言葉が見当たらない。
「まさかふたりともお知り合いでしたか」
察したようにホワイトエース先生は言った。それからわざとらしく手を打つ。
「そうだ。これも何かの縁です。ここは一旦アルコも手を引きませんか?」
「ふざけないでください!」
アルコは怒りでなんとか正気を取り戻した。
「あなたはモルドの人々を利用して非人道的な人体実験をした」
「人聞きが悪いですよ」
悪びれる様子もなくホワイトエース先生はほくそ笑んだ。
「これは単なる治験だよ」
「いいえ、違います。あなたが行っているのはただの人殺しです」
アルコは怒りを抑えながら冷静に
「言い訳無用。先生のバックには世界大手製薬会社プリンスノーがついていることまで調べてわかっています」
「ふふふ。そこまで知られていたか」
ワクチン市場の寡占化は
それからアルコは竜爺の抱えるジュラルミンケースの中身を言い当てる。
「そのジュラルミンケースに入っているのはヘロインとHIV治療薬と殺鼠剤を与えた竜痘菌の変異株を利用した遅効性の
「よく調べたね、アルコ。正解だよ」
「なんておそろしいものを……! 先生!」
「人生の最後に一時的とはいえいい夢を見せてあげられるのならそれは立派な医療だ」
ホワイトエース先生は
「現実のほうがもっと悪夢なのだから」
「でもそれは……
「そうだとしても患者は
「あなたの自尊心を満たすためならモルド街の人はどうなってもいいって言うんですか!」
「仕方のない犠牲だ」
しかしアルコは納得できるわけがなかった。
ディカリア王国王女として、人として。そして何よりもひとりの医者としてこのダークサイドに堕ちてしまった恩師を見過ごすことはできない。
「それにモルド街の人々がいなくなっても誰も困らないさ。死体は外の花畑に埋めれば万年雪に覆い隠されて証拠は残らない。現に問題になってないだろう?」
「問題になってない……それが何よりも大問題なんですよ」
アルコは反省の色の見えないホワイトエース先生を睨んだのち、ジュラルミンケースを大事そうに抱える竜爺に視線を移す。
「竜お爺さま、どうしてこんなことを?」
「それは聞くのも言うのも野暮なこと……金のためですじゃ」
「そんなお金なんかのために……」
「ワシはあの子たちにモルドを出てもっといい暮らしをさせてやりたいんですじゃ」
竜爺は切実に訴えた。
「ですが、そんなことで稼いだお金では――」
「わかっとりますじゃ。じゃが老いぼれにはこうするほかないんですじゃよ」
哀愁漂う竜爺にアルコはかける言葉が見つからなかった。
「ASAP。お喋りはそこまでです」
ホワイトエース先生はそう言ってから指を鳴らし合図すると、どこからともなく不健康そうな男たちがカビのように湧いてくる。血管は浮き上がって目は血走っておりふらふらとおぼつかない足取りは薬物中毒者なのだと容易に想像がつく。その手には鉄パイプや角材が握られていた。
「まさか彼らに……」
「察しがよいですね、アルコ。そうです。彼らにはドラオペを接種してもらっています。なのでもっても時計の針が一周ぶんの命です」
「許せません」
「本人が望んだことです」
やはりホワイトエース先生は悪びれる様子もない。
アルコは自前の白いアタッシュケースを置いてからゴム手袋の裾を引っぱったのち、自身に向けた両手のひらを胸の前まで上げて
「ただちに殺菌します。濃度70%――!」
アルコはギュムギュムッ! と、拳を握り込むとアルコールがあふれる。
「
ビチャピチャッビチャチャチャチャチャチャッ!
と、湿った音とともに男たちの顔面が綺麗なパンチによって殺菌消毒されていき、血と体液と消毒液が混ざり合う。それからアルコは錆びついた鉄柱をタタタッと昇り伝ってジャンプすると空中でイルカのように態勢を整える。
「
ボキボキボキッとひとりの男の胸に綺麗なキックがヒットすると、その後ろにいた男二人を巻き込んでドミノ倒しになった。三人の男はうずたかく積まれた木箱の中に沈み木箱が破壊されると中から注射器と白い粉が舞い散らかった。アルコはその散乱した注射器を拾い上げて指と指の間に挟みノールックで背後に投擲すると、ストンと男の鳩尾に突き刺さり倒れる。
これで男どもは片付いたがガスマスクの下のアルコは息が乱れた。
「はあはあはあ」
アルコール菌が血中に回って頭がボーッとする。この調子では三分が限界か。ここに来る前に酔い止めの薬を飲んでくるべきだったとアルコは激しく後悔した。いつも後悔するのは酔ったあとだ。二日酔いの常套句を吐きながら、とはいえやはり心のどこかでまだ迷いが生じていたのかもしれない。ダメだ。気を引き締めないと。医者の迷いは手元を狂わせる。
続けてアルコはうちポケットからメスを抜き出すと、まったく同時にホワイトエース先生もメスを取り出した。師弟はシンクロしながら振りかぶると同じ動作でメスが投擲され空中でぶつかったのち火花が散る。
「医療道具をこんな使い方してはいけませんよ」
「あなたに……言われたくありません」
互角に思えたが、アルコのほうが先にクラッときて片足をついてしまう。酔いが回ってきたのだ。グニャ~と視界が歪み全身に力が入らない。それを見てニヤリと笑うホワイトエース先生は白衣のなかから
「竜痘は人間にしか感染しない。きみも竜痘を撲滅しようとすれば結局のところ最後は人で試すしかないのさ」
「だからって命の選別などッ……!」
ダメだ。力が入らない。アルコはその場から動けずにいた。ふと床に視線を向けると倒れていた男たちが「★※○▲&@■#!」と、次から次へと発狂して地面をのたうち回りはじめたではないか。
私もああなるのか。
5メートルほど先のホワイトエース先生が注射銃の引き金に指を掛けるとアルコは諦めたように静かに目を閉じる。そして発砲された。
パシュン!
グサリッ!
「…………」
しかしどうしたことだろう。
アルコは一向に痛みを感じない。針に麻酔成分でも塗られていたのか、薬物が鎮痛作用をもたらしたのか、どちらにしてもこんな即効性はないはずだ。アルコはおそるおそる目を開けると目の前に立ちはだかる人物がいた。
「竜……お爺さま」
竜爺はアルコ側を向いておりその青い瞳はやさしく笑いかけている。その竜爺のうなじには注射器がグサリと突き刺さり、続けざまにシリンジの中の紫の液体が注入された。
「そんな……!」
アルコは慌てて竜爺を全身で抱きとめるとうなじから注射器を引っこ抜く。しかし時すでに遅く竜爺のうなじ周辺には蜘蛛の巣状に血管が黒く変色していた。これがドラオペによる人体反応のようだった。
「このことは、どうか……あの子らには言わんでくれですじゃ。どうか」
最後の力を振りしぼり竜爺は言葉を発してからジュラルミンケースを指さした。
「あの中に大金が入っとりますじゃ。それをあの子たちに届けてくだされ……」
「なんてこと……なんてことを!」
アルコはホワイトエース先生に憤慨する。
「あなた、自分が何をしたかわかっているんですか!」
「きみこそわかっているはずだ、アルコ」
ホワイトエース先生はいたって真剣に告げる。
「きみは僕と同種の人間だよ」
「同じに……しないでください」
かつての私が憧れたあなたはもうどこにもいないのだから。
静かに怒りを滲ませて顔を伏せるアルコ。するとホワイトエース先生は白衣の内ポケットから新たなシリンジを取り出して注射銃にリロードする。
「医者という生き物は患者を治すためには手を選ばない。いや、他の手を選べない」
「先生の手はとうに汚れています!」
同じ道を歩みたかった。いつから分かれていたのかは知らないけれど。しかし私がケジメをつけなければならない。
アルコは決別するように言った。
「私はあなたみたいには絶対になりません」
アルコとホワイトエース先生が見つめ合い、火花を散らせていた――その次の瞬間、突如廃工場内が原因不明の熱気に包まれた。暖房設備などはとっくにお釈迦になっているはずである。そしてその驚くべき異常気象は廃工場の外でも起こっており、溶けるはずのない雪が溶け始め、雪化粧が剥がれた。そこから顔を出したヘロインの原料でもあるケシの蕾が一斉に開花をはじめた。ケシは一日花なので翌日には散ってしまうためこれは非常に珍しい光景である。
「何かが来る」
ホワイトエース先生はこのディカリア王国で異常な雰囲気が醸成されていることを本能的に感じ取った。まさにその瞬間、ギギギギィーと不気味な音が工場内に鳴り響いた。それは錆びついた大きな鉄扉が横に開かれる音だった。
「きっひっひっひっひ」
「ニャオーン」
と、続けて不気味な笑い声と鳴き声が木霊する。
「
まるで死の匂いに誘われるようにキンタロウとカビルは出現した。
「俺らも混ぜてくれよ」
そんなキンタロウたちの背後ではピカッゴロゴロゴロ! と稲妻が光り、今まさにディカリア王国に超巨大なキノコ雲が迫ろうとしていた。
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