第48話 呪い
一人の男がいた。
その男は呪いを背負っていた。
呪い、というとオカルティズムな雰囲気を醸しつつ、霊的な何かを感じさせる非現実的な言葉に聞こえるかもしれないが、この世界において呪いとは一般的な病気の一つとして扱われている。
風邪が人から人へと移る様に、呪いもまた感染力の大小こそあれど、物や人から人へと移るのだから、そう大きな差異は無いのだろう。
決定的な違いがあるとすれば、病気と呪いが違う名前で区別されている理由があるとすれば、それは感染後、発病の原因に魔力が使われているか否かにある。
医学の発展していないこの世界では、微生物の存在は認識されているものの、細かく彼らが何をしているかなどを理解しているわけではない。
しかし、魔力はそうではない。科学技術の普及に対して、スキルや魔法の存在によって魔力運用術が発展したこの世界では、病気のようにも見える症状が、魔力由来のものであるかどうかを見分けることができたのだ。
故に、魔力由来の病気のことを人々は呪いと呼んだ。
男は、そんな呪いに侵されていた。
「……誰、だ?」
呪いは病毒と同様に多岐にわたる種類がある。
体調面の悪化、肉体の変異、精神作用。それらはすべて、魔力によってその症状が発生していることを除けば、同じ呪いと言えど、共通点という言葉だけでカテゴライズするには広すぎるものだ。
「ああ……ああ……おい、お前――俺――俺は……」
そして、この男が背負う呪いもまた、世に蔓延る呪いたちとは、呪いというカテゴライズのみが同じだけで、それらの中でも取り分け治療の難しいものであった。
「俺は、誰だ?」
その呪いは心を奪う。
自分という在り方を、世界という景色を、過去という積み重ねを、ありとあらゆるあったはずのものを、泡のように消してしまう。
それが、とある最高難易度ダンジョンで彼が背負ってしまった呪いであった。
だから、彼は残そうと足掻くのだ。
馬鹿らしく、阿保らしく。明るく振舞い、気障ったらしく語り、世界に、我こそここにありと――たとえ自分の中の自分を失ってしまったとしても、自分というモノが其処に在った記録を、どんな形でもいいから残そうと足掻いた。
人から向けられる好意も、嫌悪も、その一つに過ぎない。
彼にとって、自分に向けられる感情が如何なるものであっても、それは等しく彼が存在したという証拠になるのだから。
それを女性に向けるのは、おそらくはその方がより記憶に残りやすく、また誘いやすいというのを、種を残すという生存本能が知っているからだろう。
肉体を鍛えることに執着しているのは、冒険者としての資本になるからではなく、精神的な積み重ねが無くなったとしても、肉体の積み重ねは無くならないからであろう。
そうして、記憶にない積み重ねを振り返って、自分が今まで残してきたものに安堵する。自分という存在が、確かに過去に存在したのだと安堵して、そうしてまた繰り返す。
未来の自分が、安堵できるように、と。
ただ――
「……昨日の記憶が、ない? 時間が、少なくなってるの、か……?」
問題があったとすれば、彼の呪いが、日を追うごとに強くなっていたことだろうか。
呪いを受けたのは、確か五年前のこと。それ以前の記憶が無くなった彼は、一週間と経たずに過去の記憶が失われていく呪いにかかった。
それから、常に自分の名前と目的をノートに書き記すことにしたが――ノートの存在すらも忘れてしまった。
それから、過去のない自分の孤独を埋めるように、何度女性を求めただろうか。それらしい言葉を並べ立てて、多くの女性を床へと導いた。しかし、それは彼女たちを使い寂しさを紛らわせたかったから。
過去が一つ失われるたびに――見ることのできない重しが肩に乗せられていく。そんな重さを、一人、また一人と女を抱き、忘れていく。
自分が過去に存在していたという痕跡を残すために、一時でもいいからこの寂しさを忘れるために。そう言い聞かせて、そう言い聞かせて――
彼は、ついに記憶が無くなった。
一日と経たずに失われていく記憶は、どれだけ必死に掬い上げようと手を伸ばしても、その隙間から零れ落ちていく。
気になっていた受付のあの娘も、肩を並べて戦ったパーティーメンバーの顔も、思い返すだけではらわたが煮えくり返るような因縁も、執着していたはずの花の名前も、彼の過去に消えていく。
世界は進み、自分だけの未来がやってくる。誰も居ない、何もない。今しかない未来がやってくる。
そこには、自分すらいなかった。
「俺は誰だ。誰だ。誰だ。誰だ。誰だ。誰だ。誰だ」
彼は知らない。なぜ自分が存在しているのかを。
「ここはどこだ。あれは何だ。どうしてここにいる」
彼は知らない。なぜ自分がここに居るのかを。
「何をする? 何をする? 何をする?」
空っぽになった自分の中に、何かが流れ込んでくる感覚だけがある。奇妙な充足感と、不可解な嫌悪感。それらは招かれざる客とでも言うかのように、親しみを込めて空白の彼の中に土足で入り込んでくる。
「ああ、ああ、ああ、ああ――」
彼は知らない。自分が何をすればいいのか。
彼は知らない。自分が何者なのか。
彼は知らない。自分に課せられた使命はなんなのか。
「――これは、なんだ」
彼は知らない。自らの手についた血が何を意味するのか。
彼は知らない。床にまき散らされた、仲間だったはずの肉片が何なのかを。
彼は知らない。心臓の奥底で渦巻く悲しみと怒りの真実を。
「お前は、誰だ?」
「……ブルドラ!!」
彼は知らない。
王座の間に続く大広間の中で、相対した彼がかつてのパーティーメンバーであったことを。
彼は知らない。
彼だけが知らない。
「ああ、くそっ! なんで……なんでこんなことになってんだよ!」
声が聞こえた。
目の前で喚く男の声を遮る様に、ブルドラの空っぽになったはずの記憶の中で、声が聞こえた。
殺せ、と。
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