第29話 獅子面の悪魔


 勘違かんちがいしていた。


 でも、そんな後悔こうかいをしたところですべては遅かった。


 スプーンのような見た目をした魔物だって? そんなものよりも、もっと連想れんそうするべきものがあっただろう。


 あれはかぎだ。そして、この深層における門番だったのだ。


 あれは私を強くしてくれるための試練じゃない。この先に進むための力量りきりょうはかるための試練だったのだ。


 細長いしっぽがれている。息絶えたはずの銀色の魔物が、何かに操られるように街の中央へと引っ張られていく。


 それは床に空いた奇妙な穴へと吸い込まれ、そして消えてしまった。


 そこで、私はやっと気づいたのだ。


 今のは、ただの階層ボスであったことを。


 ボス。それはダンジョンに時折ときおり存在する、強力な魔物のことだ。ダンジョン内で生態系せいたいけいきずいている魔物たちとは全く別の、階層を分けるために設置された門番。


 おそらくは、今の銀色の魔物こそがその階層ボスであった。となれば、今しがた聞こえてきた扉が開く音は、あの男が強くなった原因ではなく――次の階層へと続く扉が開いた音に違いない。


 でも、じゃあ、どうして――


「なに、この魔力は……」


 あの魔物との死闘で私の魔力は枯渇こかつ寸前すんぜん。ただ一人の花騎士すら維持できなくなった私に、戦う力すら残っていない。


 だからこそだろうか。ただ扉が開かれただけなのだというのに、ここまで恐れてしまうのは。


 怖い。全身が寒気さむけ立っている。体中がおぞましいと悲鳴を上げている。逃げ出したいと、私の命が叫んでいる。


 だから、どうか、お願いします。


 この恐怖が杞憂きゆうであってください。何事もなく、その扉はただ開いたままでいてください。


 決して――


「扉の底から、何も出てこないで……」


 震える体を抱いて、私はそう懇願こんがんした。さっきの戦闘のせいで、私の体は動かない。よくもあの魔物にとどめをさせたなと思う一方で、どうしてこんなことをしてしまったのかと自分自身を非難ひなんする。


 ああ、ああ。


 そうして最後に、私は気づいてしまった。


 あの扉の魔力が一層くなり、瘴気しょうきがあふれ出して、空気が騒めきだしたから。


 あの扉の奥底から、この低国ヴィネを地中に閉じ込める天蓋てんがいすらもくだいてしまいそうなうでが現れたから。


『あ、街の中央には近づくなよ!』


 あの男のあの言葉は、真に私の心配をしてくれたからこぼされたことなのだと。


 アイツにとって私は、13層から突き落とした張本人ちょうほんにんなのに。パーティーの利益りえき狡賢ずるがしこ寄生虫きせいちゅうだって、散々さんざんけなしてきたのに――


「あ……」


 終わった、と私は感じた。目で、肌で、音で、魔力で、魂で。

 地面に取り付けられた門からい出てくるうでれを前にして、私は自分の運命を悟った。


 恐るべき魔物。この低国ヴィネに巣食う最悪の怪物。


 知っていなくともわかる。理解できずとも教えられる。


 その威容いようが、その有様ありさまが、そのたたずまいが――


 この六腕獅子頭の魔物こそが――


 ――我こそが、このダンジョンの主であると。


『……』


 その魔物は人の形をしていた。へびのようにしなやかな腕が六本生えており、その威容いようはまさしく獅子のごとく。雄々しきたてがみえられた威厳いげんは、絶対的な強者としての品格ひんかくすらもそなえていた。


「あっ……」


 そんな魔物の目が私を捉える。その瞬間に――


 ――私の息は止まった。


 いや、ただ息を止めただけだ。たとえ話として息を引き取ったとか、その命が失われたとか、そういう意味ではない。


 ただひたすらに、そしてひたむきに、私は息を止めてしまったのだ。呼吸を忘れたと言ってもいいかもしれない。


 ああ、なんてことだろうか。


 呼吸をしなければ人間など、数十秒と経たずに死んでしまうというのに、私の体は目の前の魔物を、そんな数十秒のための呼吸よりも優先すべき対象として認識してしまったらしい。


 全身全霊を使ってその一挙手一投足いっきょしゅいっとうそく分析ぶんせきして、一秒と経たないその先に無くなっているだろう命を取り留めるために全力になっているらしい。


 だけど、すべては無駄なことだ。


 最初からわかっていたのだ。この魔物が姿を現した時から――いや、この魔物がい出てきた門が開いたその時から、私はわかっていたのだ。


 絶対に、私が生き残ることなんてできないって。例え魔力があったとしても、たとえ体力が残っていたとしても、たとえ万全ばんぜんの状態だったとしても――


 そして、天地がひっくり返ったとしても、私は生き残ることができないと。


 世界がゆるやかに失速しっそくしていく。死を覚悟したその瞬間に起きると言われている走馬灯そうまとうが、思い出の影を走らせる。


 その中で、何万分の一に減速げんそくした世界の中で、獅子面の悪魔が一歩を踏み出した。


 ただそれだけで離れた私の場所までかの獅子はたどり着き、その六本腕の一本を振り上げた。


 ああ、ああ。


 終わる。私の人生が終わる。ここまでひたすらに走って来た足跡あしあとが途切れてしまう。こんなところで、こんな誰にも知られないところで、私の戦いはまくを閉じるのだ。


 その最後の時の中で私は――


「あぁ……」


 泣いていた。


「なんで……なんで、私がこんな目に……今まで頑張って来たのに……」


 遊ぶことは許されなかった。自我じがを出すことは許されなかった。お母様の言う通りに動くだけの人形として生きてきたこの人生を、私は――


 私は――









「コルウェット。お前さ、運がいいとか言われない?」

「……え?」


 死を覚悟して閉じた視界の先で、聞き覚えのある声が私の頭をさぶった。

 止めていた呼吸が戻る。失われた時間を取り戻すように激しくなる呼吸の中で、私は男の手に抱かれていた。


「今度は半日ぶりだな。んで、これはどういう状況だ?」


 そこに居たのは、よく知っているはずなのに知らない男。


 私がゴミと、無能と、寄生虫と言っていたはずの、何も持たない持たざる者。


「なんで……なんで、私を……」

「なんで私を助けるのかって? 決まってるだろ。俺はお前の苦労を知ってるからだ」


 死のふちから落とされた私を拾い上げたのは、他でもない私が死のふちに突き落としたはずの男、ルード・ヴィヒテンだった。

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