リメンバーメモリーズ

空一

リメンバーメモリーズ

「あなたは、誰ですか?」

ある日、クラスメイトの女の子が僕だけの記憶を失っていた。


「おい、なんで…」

中二病がまだ抜けていない友達が言った。

「うそ…そんなの、嘘だよ‥」

恋多き、彼女の友達が嘆いた。

彼女の203号室に、異様な空気が流れる。

ただ僕は、黙って彼女をみることしかできなかった‥


僕と学園のマドンナ的な君が会ったのは、2年生の4月だった。

クラス替えが行われ、友達が離れ離れになったり、仲良い友達と同じクラスになれたことに一喜一憂しているクラスメイトの中、僕だけが静かに本を読んでいた。

特にここのクラスの盛り上がりは凄かった。学園のマドンナと呼ばれる女子生徒が、このクラスになったからである。

そして、そんな君は、奇しくも僕の隣の席になった。

「よろしくね。」

そういって、太陽のような表情を僕に照らす。僕は思わず顔を背けてしまった。

そんな僕の反応が好ましくなかったのか、君はよく話しかけて来るようになった。きっと今まで、誰かに無視されるという反応を味わってこなかった君だろう。君のその謎のプライドが、僕のプライバシーを脅かしていた。

帰り道に出会っても、彼女は根気よく僕に話しかけて来た。

「偶然だね。」なんて言って。

きっと君は、僕を惚れさせたいんだろうと思った。でも、今まで僕は誰かを特別な気持ちで見たことが一回もなかった。だから、君のしていることは無駄だったと思う。

でも、君といることによって、様々な人が僕に関わって来るようになった。

君の付き人的な人。

僕と君の関係性をよく思ってない人。

ただ興味本位な人。

今まで、話す機会がなかった人たちが、多く僕の元へ訪ねてきた。その人達に対応しているうちに、僕の交友関係は何故か広くなっていった。

友達、と勝手に呼んでいいか迷うほどに。

だから、ある意味無駄じゃなかったんだと思う。


そして、君が僕の記憶だけを消去している今、僕はこれからの行き先に迷っていた。

いや、迷う必要なんかないのだけれど。


ラッキーだと、思った。

もうこれ以上君と関わることはないし、やっと前の一人だけの生活に戻れる。そのはず、そのはずなのに、心はポッカリと穴が空いてしまったかのようにスッキリしない。

病室を出て、一人で公園のベンチに座っていた僕は、そんな気持ち悪さを感じていた。空から、しっとりとした雪が降っている。首筋に溜まった雪が、自分の体を蝕むように温度を奪っていった。でもこの冷たさの正体は、雪ではないような、ただそんな気がした。


あの出来事から結局、僕は病院に行かなくなった。

友達だと思っている奴らも、前みたいに話しかけてはくれなくなった。その友達の中の、あるバカに関しては、学校に来ない始末だ。あいつは一体何をしているんだろう。そんなことを、窓際から思っていた。

放課後になり、先日の反省からマフラーを首筋に巻いて、そのままただやることもなく帰ろうとすると、前まで友達だったヤンキーもどきから声をかけられた。

「なあ、お前。今日もお見舞い来ないのか?」

目をキツネみたいに細くして、そいつは尋ねる。僕はただ、ぶっきらぼうに

「僕が行く意味なんて、ないでしょ。」

と言った。

ガンっ

その瞬間、襟先のネクタイを掴まれて僕の体は、固く冷ややかな壁に押し込まれる。

「…お前、ふざけんなよっ。白石さんが一番大事にしていたのはお前だって、気づいてねえのかよ!白石さんは本当は、お前に一番会いたいんだよ。それをお前が記憶喪失だからって、勝手に諦めんじゃねえよ…」

瞳孔を開いて、目を赤くして訴えたこいつは、紛れもない僕の友達だった。ただ、何も言い返すことも、肯定することもできない自分が歯がゆく感じる。

「…よし、お前ちょっと来い。」

そんな僕の様子を見て、そいつは僕の腕を掴んで引っ張っていった。どこに連れて行かされるか分かってはいたけれども、抵抗する気力はなかった。外はまだ、雪が降って冷たかった。


純白という言葉がよく似合うのは、今目の前にある病院だけでなく、君も一緒だった。

彼女と一緒に、秋頃に、星が見える展望台へ行ったことがある。君は双眼鏡係で、僕は懐中電灯係だった。

「ねえ、北ってどっちかな?」あいにくのところ、方位磁針係はいなかったので、そこだけはアバウトだった。

僕が星で散り散りになった空を照らして、君が双眼鏡でお目当ての星を探す。時々交代しては、目の表面の君の温かさを感じて、うまく星は探せなかった。

「あ、見つけた。北極星。」

彼女が双眼鏡を覗き込みながら、興奮を押し殺した声で北極星に指をさす。彼女の熱気に包まれた人差し指の延長線上に、その星は映った。感想としては、ただ白かった。思わず小声で、「白いなあ」と呟いてしまうくらい、白かった。

「なにそれ。」僕が言った言葉に君がクスクスと笑う。「貸してよ、双眼鏡。」恥ずかしさを誤魔化そうとして、君から双眼鏡を奪い取った。

一定量の重さを目に近づけて、そのまま白い息を吐きながら上を見上げる。

前よりもずっと、綺麗に光って見えた北極星の白さは、どこか君みたいだと。

そう、心の中で思った。


世界中の誰も知らない、君との思い出だったあの日の出来事は、もう僕しか知らない過去になってしまった。

昔を思い出して、大きな病院を雪越しに見ている僕を気遣ったのか、ヤンキーそうな友達、もとい橋本が、僕の肩にゴツゴツした手を置いてきた。普通に痛いんだけど。

「お前、一回ここに来たから白石さんがどの病室かわかるな?」

「わかんないよ。だから、ついて来てよ。」

「い・や・だ」

ボンっと強く背中を押され、危うく雪に頭を突っ込みそうになる。押した張本人は笑って、

「203だからな!203!覚えとけよ、203!」

と強く念を押して帰っていった。僕は、はあ〜っと白くならないくらいのため息をついて、トボトボと歩き始めた。


僕はもう二度と、ここに来ないつもりだった。もう二度と、君に会わないつもりだった。だって意味がわからない。どうして、僕の記憶だけが抜け落ちているのか。ただ、その事実を受け入れて真実を知るのが怖かっただけなんだと思う。

思いの外、病院は静かだった。その静けさが、僕の鼓動を響き渡らせる。2階に登って、誰もいない廊下を一人歩く。ナンバープレートを確認しながらも、君の名前がここになければいいのに、なんて思った。でも、君の名前は確かにあった。

【203号室 白石雪乃様】

そう明朝体で冷たく、書かれてある。ドアノブを引っ掛けようとした手が、寒さと震えで動かない。このドアの向こうに君がいる。僕の記憶を無くした、君がいる。君とは思えないほど、冷たい笑顔をした君がいる。今も、これからも、この次も、このドアを開けた先でも君は、あの顔をしているんだろうか。

そう考えると途端に胸が苦しくなって、今すぐ病院の先生に診てもらいたいくらいだった。

でも、それでも僕は…

がららっ

君に会いたい。

「おっすー!」

「…え?」一瞬君が素っ頓狂なことを言ったと思ったが、そうではなかった。

あの学校を休んでいるバカが、何故かそこにいたのだ。そして、そいつと向かい合わせになって、病院のベットから身を乗り出している君がいた。

君は純白な笑顔をしていた。学園で天使と言われても、何も遜色ないほどに。

「おー、今な!相棒の話をしてたんだよ。」

おいおい、やめてくれよ…

「そしたらさー、意外にも白石さんにめっちゃうけてな!」

え…

「…うふ、ふふふ。葵くんって、面白いんだね。」

そう笑った君の笑顔は、やっぱり、君の笑顔だった。

あの日から何も変わってない、君の笑顔だった。


あのバカの友達、もとい高島に、学校に行くように言って、僕と君はふたりきりになった。

でも、途端にふたりきりにしたことを後悔した。

何を話していいかわかんないし、君はずっとニコニコ笑顔でどこか他人行儀な気がして、なかなか素になれなかった。

「私、葵くんとの思い出をもっと聞きたいな。」そんな空気、僕を見かねたのか、君から話題を振ってきた。真っ白な病衣を着て、興味有りげに身を乗り出してくる。きっと、あいつから面白い話を聞いたんだろうな。だったら、かなり荷が重いんだけど。僕、あんまり話得意じゃないし、「なんか面白い話して」って言われるのが嫌いだ。まあ、そんなこと一度も言われたことなんてないんだけどね。コミュ障だし。

それでも頑張ろうと思った。

「あ、えっと…。ぼくときみ‥白石さんは、結構いろんなところに、遊びにいってて…」場の空気で、”白石さん”とつい言ってしまう。

「えっと‥例えば、白石さんが、星が好きだからって言って、だから、プラネタリウムとか、行ってみたり…。えっと、僕はあんまり誘わないんだけど、いつも白石さんが、いろんなところに、連れて行ってくれて…。」

久しぶりの君との会話に、僕はごもってしまった。僕はこんな自分が嫌で、髪をクシャクシャした。

「大丈夫だよ。」

君の声がして、そっと顔を上げる。見ると、窓の外の雪は先程よりも強く降っていて、そのコントラストが、君の顔をより際立たせていた。君はまた、天使みたいだった。

「ゆっくりでいいから。話してみて。私、ずっと聞いてるから。」

そして、また一段階強く笑う。僕も連れられて笑ってしまって、緊張がほぐれた、そんな気がした。


ホタルがみたい!

またあの子が、そんな突拍子もないことを呟いた。いや、結構大きめに言ってたから、叫んだんだと思う。

「ねえ、それってどこにいんの?その、おしりから火を出すやつ。」

「光、光だよ!」

「まさか、また大阪とか東京とか、言わないよね。僕は親からイエローカード2枚出されているんだからね。」

「まさかまさか。今度は、すごい近いところ。」

「小塩地区、小塩川!」

今日の君は、いつにも増して自信たっぷりだった。


「わーすごい!ねえねえ、みてみて!いろんな美味しそうなお店が、たくさんあるよ!」

「君はお店を食べるのか。なかなか豪快だな。」

「違う!りんご飴とか、たこ焼きとかを言ってるの!そこまで私、食いしん坊じゃないもん。」

ぷくっと膨らませた頬には、ヨーヨくらいは入ってしまいそうだななんて思って、僕は少し後悔した。別に、その頬にヨーヨーが入らないことが分かって、落胆したわけではない。さっきから、僕らを見る目が少々痛いのだ。

近くだけあって、うちの学校の生徒も多くいた。その多くが、僕達二人の意外な組み合わせに、驚いている。とっさに僕は、彼女を人気のないところまで連れて行った。

「ほーほー、けっほう大胆だね。」いつの間に買ったのかわからないが、彼女は頬に何か詰めて答えた。よーよーか?

口の中のものを消化し終わったのか、満足気に不思議な顔で僕を見る。

少し気まずい時間が流れる。

「え‥ほんとにそっち系‥?」

「ち、ち、違う!」僕は少し動揺して、声が高くなった。

「君は、もっと君の立場を理解したほうがいい。」

「うん、理解しているよ。」

「してないよ‥。君は、僕なんかにいつまでも付きまとうより、もっと、自分のカーストにあった人といるべきだ。君の横に、こんな根暗がいるべきじゃない。」

僕は真面目な顔をして、君の顔を見る。奥に光る屋台のギラギラした光も一緒に目に入ってきて、少し不快だった。

君は、少し顔をそっぽに歪めて答える。

「私のこと、いや、かな…」

「いやとかじゃ、ない、けど…」

きっと昔の僕だったら、ここではっきりと嫌いと言っただろうか。でも、今の僕は、そんなことを言う気にはなれなかった。

「‥じゃ、いいじゃん。」

君が僕に向き直って、笑ってそう言う。

「私は、葵くんといることが好きだし、別に他人からの目なんて気にしてない。葵くんは、私の隣にいる葵くんは、『葵くん』だから。」

ホタル…

「あ、ホタルだ。みてみて、葵くん!葵くんの後ろに、ホタルが沢山!」

後ろを振り返って、その姿を確認する。小川を挟んで、その先に無数の光を放つホタルたちがいる。一つ一つが、自分の儚い命を削って美しい風景を作っている。

その姿を見て、どこか君は、やっぱりホタルみたいだなって思った。


「北極星の次は、ホタルなんだね。葵くんは、いろいろと私を物に例える癖があるね。」

ふふふっと笑って、君が冷たい病室の中を暖かくする。

「しかも、私がホタルみたいなら、私もうすぐ死んじゃうってこと?!」

「いや、別にそういう意味で言ったわけじゃ…」

「じゃあ、どういう意味だよっ!」言い返せなくて、肩をすぼめる。その姿を君がいひひと笑う。だって、そう思ったんだもの。しょうがないだろ‥。

あーもう、余計なことなんて言わなければ良かった。なんで僕はテンション高くなって、そんなことまで口走ってしまったんだろう。彼女の口から

「私、もうすぐで退院できることになったの。」なんて、言われたからだろうか。それで僕は、焦ってしまっているんだろうか。君が退院するまでに、もし記憶が戻らなかったら、僕はどう君に接していけばいいんだろうと。でももう、その時に出す答えは決めていた。もうすぐ桜が咲き始めて、春になる。


退院日になっても、君の記憶は戻らなかった。

久しぶりに外にでたから、久しぶりの外を案内してほしいなんて、君に言われたわけだから、僕は嫌々ながらもどこか寂しさを感じて、桜が咲く前の、河川敷沿いを君と歩いていた。

「わっー。ここに桜が咲いたら、もっときれいなんだろうね!」

「ここも、君が教えてくれたんだよ。」

「えっ…あっ、そっか。そうだったんだね。」

桜のつぼみが、しとりと僕の前に落ちる。

「…ごめんね。」

君は露骨に声が低くなって、申し訳無さそうに呟いた。とても小さい声だったから、囁いたって言ったほうが良かったかもしれない。そうやって強がって、僕は唇をギュッと噛み締めた。こんなこと、言わなければよかった。

春風が、子供の声と、雀の鳴き声を運んでくる。君はまだ、学校に来れないらしい。何回か検査が必要みたいで、あんまり頭を使ったり体を動かしたりはできない。キリがいいからと、3年生の4月から学校に復帰するつもりらしい。だから、今のクラスメイトとはもう、同じ教室に通えなくなってしまう。その辛い気持ちは、友達が多いともいえない僕でも、少し分かった。

河川敷がゴールに近づいていって、あれから何も喋らなくなった僕らも、解散しようという雰囲気が目に見えてきた。

「えっと、じゃあね。今日はとっても楽しかった。付き合ってくれてありがとう。」君が少し不器用な笑みを浮かべる。その表情に胸が苦しくなって、それでも僕は、君に問いかける。

「えっと、君の家にこれから行ってもいいかな。」

「…え、え、えええええええ?!」

彼女は、整った顔立ちに似合わないほど驚いていた。


君の顔はこれほどまでになく、緊張していた。そして僕は、「娘さんを僕にください!」のノリで、玄関に立ち尽くしていた。君の家は、とても立派な一軒家だった。だからなのか、年中無休のアパート住みの僕は、その大きいシルエットに萎縮してしまう。てか、おせえな。かれこれインターホン押してから30秒は経ってるんだけど。めっちゃ気まずいんだけど。あいつら本当に準備し終わったのか?そう、僕のこの発言で勘付いた人も多くいるだろうが、”この家”にいるのは”僕だけ”じゃない。

ガチャ

ドアノブが開いて、その奥から出てきたのは

〈『ハッピー、バースデー!!!!!』〉

2−4のクラスメイトたちだった。


「え、え、えー?」

君は、終始混乱している。何が何だか分からずに、ただ多くのクラスメイトが家をうろちょろしまくっている。彼女の親は、ティッシュを片手に泣いていた。実は僕も、混乱している。

「いやーでも、すごいね!まさか誕生日と退院日が一緒にかぶるなんて、おめでたいね!」

恋多き女子が、波長を高くして尋ねる。

「え…私まだ、誕生日じゃない…」

〈『え、え、ええええ?!』〉

会場にいる全員が、同じ叫び声を上げる。

「ここにいる奴らは全員バカなのか…」

「はあ?!あんたが雪乃の誕生日は今日だって、言ったんじゃん!美穂から聞いたよ!」

気の強そうな女子が、これでもかと僕に詰め寄ってくる。

それに押し込まれそうになったが、なんとか態勢を整えて言った。

「いや、僕が有岡さんに言ったのは、おめでとうパーティーをしようってことだけだ。別に僕、誕生日だなんて一言も言ってない。」

「あ、そういえばそっかも…。」

「美穂〜」

気の強そうな女の子が、わざとらしく肩を落とし、僕に平謝りをした。

「まあ、私大丈夫だよ!誕生日近いし!何より、こんなに盛大に祝ってもらえるなんて、とっても素敵!」

そういって君は、いつもの愛らしい笑顔で場の空気を暖かくした。パーティー会場に笑顔の輪が広がっていき、伝染していく。

「じゃあ、そういうことで。まずは、退院おめでとーう!」

『かんぱーーーーーい!』

鶴の一声のような体育会系の友達の声で、やっとパーティーは始まった。


君の退院パーティーあってか、会場はとても盛り上がっていた。中には感動して泣き出すやつもいたり…そんな、楽しいいつもの特別な時間だった。

ビンゴ大会、カラオケ大会、モノマネ大会。もはやこれ、退院パーティーに相応しくないんじゃないか?なんてものもやってきて、夜は少しずつ暮れていき、ぽつりぽつりと人がいなくなって、落ち着いてきた頃。

僕は疲れてベランダに出てしまっていた。

「わーっ、寒いね。…雪だね。」

ただ僕はぼんやりと、空から降るシンシンとした雪を見つめながら、白い息を吐いていた。そこに、わざとらしく寒そうにした、君がやってきた。

「…葵くん、ありがとう。」

君がボソッと、白い結晶に紛れても光ってしまいそうな、そんな感謝の言葉を言う。

僕は何だか恥ずかしくなって、

「…うん。」とだけ呟いた。

二人揃って、空を見上げる。

僕の吐き出した息と、君の吐き出した息が混ざり合って、雪になってしまいそうだった。

「ねえ。」

「…なに?」

君はこちらを不思議に見つめる。

「‥記憶は、まだもどらない?」

「……うん。ごめんね。」

「いや、別にいいんだ。ただ、最後に聞いてみたかっただけ。」

「え…」

手をこすり合わせて、僕はわざとらしく寒そうに部屋の中へ入っていった。

「さようなら。白石さん。」

そう言い残して僕は、彼女の家を、君を後にした。


✵ ✵ ✵ ✵ ✵ ✵


春が来て。クラス替えがあって。先生たちは一気に目の色変えたみたいに、必死になって。

そんな桜の季節がやってきた。

葵くんはあの日から、私の前に姿を表すことはなくなった。

それは私が退院するまでの準備期間だけだろうと、勝手に考えてた。

私がこれからリハビリとか、新しい生活への準備とかで忙しくなるからだろうって、そういう優しさで。

でも、彼は私が学校に来はじめても、一向に私の前に姿を表すことはなかった。

違うクラスになった葵くんは、本当に学校に来てるのかって言うくらい、見つかんなくて、度々廊下や教室をちら見したりするけども、彼の姿はどこにもなかった。

まるで、意図的に私を避けているみたいに。いない。いない。いない。

「どこにも、いない…。」

少し泣きそうになって、でも次は授業だから。

放課後また探そう。うん、そうしよう。

結局、その日は見つけることはできなかった。

また次の日も。明々後日も。週末も。次の週も。必死に、必死に探したんだけど、やっぱりいなくて。

なんか、本当は思っちゃいけないはずなんだけど、ちょっともう、どうでも良くなってきた自分がいた。

どうして私は、こんなにもあの子に執着するんだろう。あの子とはただのクラスメイトで、今はクラスメイトじゃないから疎遠になる。うんうん。別に普通のことじゃないか。特に男女の仲だったらそういうもんだ。うんうん、うんうん…。

そういえば私、なんであの子だけ記憶を失っているんだろう。別に至って普通の子じゃん。特別かっこよくもないし、何かオーラがあるわけでもないんだし?なんでなんだろ。なんで、ピンポイントであの子だけ?

家に帰っても、そんなことをずっと考えていた。今まで、こんなに深く考えることはなかったな。

それからまた時が過ぎて、彼のことを考えれないくらい忙しくなって、少し忘れてしまいそうになってしまった時に、

彼は私の前に現れた。

ほんとに突然。偶然見かけたとかじゃなくて、本当に突然に私の前に現れた。久しぶりに見た彼の顔は、垢抜けもしてなくて、なんも変わっていなかったけど、ただ顔が少しやつれて見えた。

「え、えと、久しぶり!」

ねえ、なんで私のこと避けてたの?そんな言葉は何故かでなかった。どうして?私は、久しぶりに会えた喜びを壊すことが怖かった?

明るく話しかけても、彼は黙ったままだった。

ねえ、なんか話してよ。なんか言い訳してよ。

お別れ…とかじゃ、ない、よね…。

「白石さん。」

「…はい!」

「明日、話したいことがあるんだ。」

「は、はい!…え?」


✵ ✵ ✵ ✵ ✵ ✵


こんな時にふと、昔のことを思い出していた。

無敵だと思っていた君が、本当は凄く弱い人間だったこと。

いつもの通り学校のチャイムが鳴って、当然何も部活に入っていない僕は、ただ静かな廊下を歩く。わざと回り道をして、静かな空間を通ることで、自分が一人ひとりの特別な存在であることを認識する。そんないい機会だった。そんな、いい機会だったのに…

僕の少し先に、君の姿を見つけてしまった。

君は誰かと一緒にいて、何かを話している様子だった。

「ねえあんたさ、ちょっと顔が良いからって、他の子の彼氏に手を出すのは違くない?」

「とぼけてもらっても困るんだから。汐留秀。知ってるよね。あんたが最近、可愛いこぶって狙っている男。」

「いや、わたし汐留くんとはただ委員会が一緒で、話すことが多くなっただけで…」

「言い訳すんなよ!」

ガンっ

誰もいない北校舎に、壁に大きく跳ね返った音が響く。

「あんたのせいで、あたしの友達の澪が最近学校に来てないの!澪は汐留くんの彼女だった。…でも、彼氏に一週間前告げられたらしいわ。『好きな子ができたから別れてほしい』って。」

「あの子、別れてから学校に来てないの。あの子は何も悪くないのに…。」

「…あんたのせいだかんね。あんたのせいで澪は学校にこれないの!」

「わ、わたしの…?」

パンっ!

頬を叩いた音がした。それは遠くにいても分かった。

「い、痛い…」

「さっきからそっちが被害者面してるのなんなの?!あんたのその猫かぶった醜い内面が、ウゼえんだよ!」

パンっ!

「うっ…」

「ねえ志保。もうやめようよ。先生来ちゃうよ‥」

「うるさい黙ってて。ていうか、ここは北校舎で今はほとんど使われてないから、先生たちにバレる可能性なんてないし。」

「で、でも…」

「だから黙っててよ!…そうだ、じゃあ琴音も叩いてみる?あんたも相当イライラしてるはずよね。一番澪と仲良かったのは、琴音なんだし。」

「え‥。わ、私も?」

「だって、そうじゃないと不公平じゃない。このままだったら私だけが悪者になっちゃうわけだし。ねえ、あたしと澪の気持ちを裏切る気?そんなわけないわよね。だってあたし達友達なわけだし。」

「と、友達…。」

一瞬の沈黙が奥で流れるのを感じる。

「早くやんなさいよ!!!!!」

ガンっ

何かを蹴る音がした。

「それとも、あんたも一回叩かれてみる?そうしたら、きっとわかるはずだから。」

「えぇ…。うっ…。…うん、わかったよ…。叩けば、いいんだよね。」

今まで一人だった足音が、二人になるのを感じた。

「や、やめて…。お願い、謝るから…。」

「謝って済む問題じゃないんだけど。」

「ご、ごめんなさい…。」


「ふっ。だから、謝っても一緒だって。」

少しずつ、少しずつ、足音は大きくなっていく。

「ごめんなさい。でも、許してっ‥」

もう一人が、腕を振りかぶる音が聞こえた。


_だれか、たすけて…


ジリリリリリリリリリリ


ジリリリリリリリリリリ


「えっ。なに?もしかして、火災報知器が鳴ったの?」

「や、やばいよ。真央ちゃん。先生来ちゃうよ‥!」

廊下のそのまた奥から、一斉に迫る足音が聞こえてくる。

『なんだ。誰だ、火災報知器を押したやつは!』

鬼瓦先生の、怒鳴り声も聞こえてきた。

「逃げよっ、真央ちゃん‥」

「っ…ああ、もう!早く逃げるよ!」

そうして、あいつらは駆け足に逃げていった。

「あんたのこと、一生許さないから。」

そう、気持ち悪い捨て言葉も吐いて…。

僕は、急いで彼女の元へ駆け寄った。

渡り廊下を曲がったすぐ先に、君はへなへなと膝をついて項垂れていた。

「えと、悪いけど、僕らもここから逃げるよ。まさか、鬼瓦が来るとは予想外だった。あいつ今日、ポルトガル出張じゃないのかよ…。」

誰だー!って言って、海を渡ってきたあいつの姿が目に浮かぶ。

「…って、ねえ。白石、さん‥?」

キュッ

その時突然、彼女に袖を掴まれた。

中腰に彼女を覗き込んでいる体が、全く動かない。

「えっ、ちょ…。先生が、来‥」

「…かった。」

「え‥?」

彼女が震えて、何か言葉を漏らした。

「…こわ、かった…。怖かった、よ‥」

彼女は泣きながら、静かな弱々しい声で、僕の袖を強く握った。

「おい、お前、何だこれは!お前が火災報知器を鳴らした犯人か!」

「え‥。なんですか、白石雪乃さん。その、顔の腫れ上がりは‥」

「うおおおおおお!?おい、お前がやったのかこれ!ふざけんじゃねえぞ!!!」

そんな教師たちの勘違いまでも、僕の耳に入ってこなかった。

ただ僕は、混乱していた。

あんなにいつも笑顔で、明るくて、学校の中心にいるような君が、こんな弱い姿を見せるなんて。君にも、こんな弱い一面があるなんて思ってもみなかった。

そんな君を前にして、なにもできなかった僕を、何もできない僕を、

ただずっと、責めるだけしかならなかった。


✵ ✵ ✵ ✵ ✵ ✵


カフェテリアでは、ずっと陽気なジャズっぽい音楽が流れている。

彼女を待っている時間が、ずっと長く思えて、意味もなく財布の中身を確認してみる。

カラン と誰かが入店してきた音を聞いても、僕はすぐにそれが誰なのかを確認することができない。少し経って、それが彼女じゃなかったことに少しホッとする。

意味もなくまた、コーヒーを飲む。カッコつけて頼んだコーヒーが、もうすぐ無くなりそうだった。

カラン 次はまた、柔らかい匂いを連れて来る。誰だろうと、興味本位で覗いてみると、それは彼女だった。

ふりふりとした、可愛らしい服を着て、頭にはベレー帽まで被って。カフェの中の全ての視線が、一斉に彼女に集められていった。本当に僕は、この人と一緒の学校に通っているのだろうか。そう思うほどに、今日の彼女はいつもより大人っぽく、そして悲しそうに見えた。

カタン と音を鳴らして、君は僕の目の前に座る。僕は少し、拳を強く握った。開いてみると、痕がついていて、とても痛々しかった。

「話って、何かな。」

彼女が帽子を脱いで、そう問いかける。不器用な彼女の笑顔は、少し似合わなかった。

鼓動が、またいっそう強くなる。声に出そうとするけど、何かが喉に突っかかって、出そうにない。

そんな僕を見かねたのか、また君は微笑んで、窓の外を見ながら語りだした。

「もう、春が過ぎて、梅雨になったね。」

「え…」

ゆっくり顔を上げると、彼女は朝顔を見ながら笑っていた。

「終業式、結局出られなかったな。でも、私、始業式には間に合ったんだよ。

そこで、いろんな人に出会った。担任の先生や、クラスメイト。私の知らない人まで、みんな私を歓迎してくれた。ふふっ、あれは楽しかったなあ〜。

…でも、君だけには、会えなかった。」

その時は、わざと休んだんだよ。

「新しい生活に慣れて、やっと葵くんの教室に遊びに行こう!って、思ったの。

…でも、君はやっぱりいなかった。」

君をずっと、避けていたからだ。

「ゴールデンウィークも、体育祭も、私は本当は葵くんと一緒に過ごしたかった。

…でも、やっぱりいないんだもん。」

君が、窓から僕へと視線を移す。

「…!」君の目には、涙が浮かんでいた。

「ねえ、なんか私、葵くんに悪いことしたかな。私そういうの、全然わかんなくて。ごめんね。」

「…あの、さ。答えたくないなら、答えなくても良いんだけど。葵くんは、私のことをどう思ってるの。なんで、私だけ、葵くんのことを忘れてるのっ…?」

「…日記を、見たんだ。前の私が、これまで日々の出来事をつけていた、日記。そこに、葵くんの名前が沢山書いてあった。記憶を無くす前まではずっと、葵くんのことを書いていた。ねえ、昔の私は、あなたのことを、どう思ってたの?」

……

「葵くんは、私を、どう思ってたのっ…?」



「君は、嫌なやつだった。」


「…!」

君が、驚いた顔で僕を見る。

僕は、もうどうしようもなく、今まで溜まっていた思いが、ダムが崩壊してしまったかのように出てきてしまっていた。

「…君は、僕の土俵にズカズカと入り込んでくるし、一人が好きな僕に、やたら絡んでくるし。君は、それが親切心だったかもしれないけど、僕は哀れまれてるようで嫌だった。」

もう、止めることはできなくなっていた。

「でも…君の本当は違った。君は僕が思った以上に弱いやつだったし、自分に正直でもあった。君のおかげで、こんな僕にも沢山の友だちができた。君のおかげで、学校に行くのが楽しみになった。君は、良いやつだと思った。」


「だから、隣にいるのが僕なのが、もったいないと思った。」


「君が僕のことを忘れたのは、いい機会だった。君と関係を断つ、いいチャンスだった。でも、ダメだった。君はもう、僕の生活の一部になっていたし、君に会わないと、日常が寂しいと感じるようになった。」

「…本当は、君は、僕のことが嫌いだったのかもしれない。こんなにも卑屈な僕のこと、裏では嫌なやつだと思っていたのかもしれない。だから、君は”僕だけ”を忘れているのかもしれない。」

「これまで、君に沢山迷惑をかけたから、もうこれ以上はかけられないよ。」

ガタン と音を鳴らして、椅子を立ち上がる。

「だから、僕の最後のわがまま。」

「…これから、僕とデートしてくれませんか。」

「これで、僕のことを思い出すことができなかったら、もう僕のことなんて考えなくていい。」

「すっぱり僕のことなんか、忘れてほしい。」

「でも、僕のことを思い出したら…」

「…君に救われた人がいることを、忘れないでほしい。」



「うん、わかったよ。」

君は優しく、微笑んだ。


✵ ✵ ✵ ✵ ✵ ✵


葵くんが、最初に私を連れ出したのは、学校だった。

「ねえ、勝手に入って、本当に大丈夫なの?!」

「…しらない」

「知らないって…!」

「ふふっ、はは。なんだか僕ら、入れ替わったみたいだ。」

「入れ替わった…?」

なにそれ。どこかの、君の名はみたいな?

「前までは、君が、僕を無茶振りに付き合わせていたんだ。」

「え?!そ、そうなの…?」

意外だ。私がそんな、体育会系だったなんて。

「酷いときは、北海道から沖縄まで、日帰り旅行!なんて、されたときもあった。」

「ひ、ひえ〜」

意外だ。私がそんな、アクティブ系だったなんて。あれ、でも待てよ?私の他の子との記憶は、私はそんな感じじゃなかったはずじゃ…。

「ねえ、嘘ついてるでしょ。」

「…ふふっ。うん、嘘だよ。」

葵くんが、私を馬鹿にしたように笑う。

「もう、変な嘘つかないでよ〜。」

困ったもんだ、虚言癖というものは。

「日帰りって言うのは、嘘!でも、計画は立ててたみたいだけどね。」

ひ、ひえ〜。あながち、昔の私、やばかった‥。

あと、今日の葵くんは、いつもよりテンション高いな。こんなキャラだったっけ?彼。

久しぶりに私にあえて、楽しんでるのかなあ〜。、、なんて。もしくは、これから、二度とあえなくなるから…うんうん。こんなこと考えるの、もうやめよう。

だって今日は、葵くんとのデートなんだから。


✲ ✲ ✲ ✲ ✲ ✲


_僕と君が出会ったのは、階段の踊り場だった。

危ないっ!

そう叫び声が聞こえて、踊り場にいた僕が顔を上げると、落ちてきたのは君だった。

ガラガッシャーン 

意外と大きな音が出て、体に柔らかさが伝わっているのを確認すると、君は僕の上に大の字に覆いかぶさっていた。

「いてて〜。あれ、私痛くない。私、全然痛くない!」

「多分それは、僕の上に乗っているからだと思うよ。」

「へ…?わ、わあ!ごめん!」

君は驚いて、急いで僕の体から離れた。僕はゆっくりと立ち上がって、制服についたホコリを払う。

「ごめん…。痛かったよね。ゆ、許してぴょん!…なんちって。」

君はとても恥ずかしいポーズを取って、僕に謝ってきた。きっとこの人は、自分が可愛いと自覚しているタイプだろう。きっと、自分が可愛いってだけで、人生を過ごしてきた人だ。承認欲求がとても高そうに見える。

「こちらのほうこそ、なんかごめんなさい。僕なんかが、君の下敷きになって。」

とっさに”君”って出たのは、多分小説の読みすぎだ。

「僕なんか、端っこにいるような人間だから、気にしなくていいよ。」

これも、一度は言ってみたかったセリフだ。

「じゃあ、僕、帰宅部だから、帰るね。」

「え、ああ、うん‥。」


「今思えば、あのときの僕は、かなり小説に毒されてたと思うよ。」

「…っく、っ、ふふっ、あはっ。葵くんって、ふふっ、本当におもしろいね。」

私はこらえきれず、踊り場の上で大爆笑していた。

ねえねえ、こんな感じ?

なんて言って、あのときのシーンを再現しようともした。

でもそれは、葵くんに強く止められちゃった。

…あーあ、結局、ここでは何も思い出せなかったな‥。

葵くんと出会った、始まりの地だから、何か思い出せるだろうと思ったんだけど、だめだった。記憶が蓋をしたみたいに、私の中の大事なものを押さえつける。

「次、いこっか。」

そんな私を察したのか、葵くんは、優しく私にそう問いかけた。

私は、うん!と、ちょっと強がって答えて、学校を後にした。

その途中で、印象的な火災報知器に出会った。ガムテープでぐるぐる巻にして、さわるな危険!って、書いてあるやつ。まあ、別に関係ないんだけど。

窓から差し込む太陽が、タイムリミットを急かしているみたいだった。


それから私達は、思い出の地を何個も回った。

一緒にプリクラを撮った、ゲームセンター。

日暮れまで遊んだ、壮大な海。

私だけ泣いていた、映画館。

おそろいのキーホルダーを買った、ショッピングモール。

君のおすすめを聞いた、図書館。

いろんなところを回って、どんなところも、楽しかった。でも、記憶だけは、一向に戻らなかった。

夕陽が沈みそうになって、私の不安を煽ってくる。罪悪感が、心を支配していく。

「次、また、君と一緒に行ったところに行こう。」

「どこに…?」

これ以上、思い出の場所なんて、あるのだろうか。

葵くんは、空を指さしながら答えた。

「北極星が見える、展望台。」

ほ、ほっきょくせい??


森の中を結構歩いた先に、その展望台は見えてきた。

「こ、ここ〜?」はあはあ、と息を立てながら、葵くんの肩にお世話になりながら、森を抜け、開けた場所に出た。

大きな円柱型の白い展望台が、ぷつぷつと立った木に囲まれながら、建っていた。

「こ、ここって、前葵くんが、私に話してくれた、展望台?」

「うん、そうだよ。」

葵くんが、バッ って走って、展望台の屋上へ続く階段を登っていく。

私も、なんとかそれに追いつこうとして、途中で転けそうになった。

それに気づいた葵くんが、私の方まで戻って来てくれて、私の腕を優しく引っ張っていった。

あれ、なんだか、懐かしいな。前も、こんなこと、あった…?

少し、私の心は、ドキドキしていた。

「ねえ、北ってどっちかな。」

「え…?」

葵くんが、私をニコッと見つめて、そんなことを訊ねてくる。心が異常にドキドキして、何も答えられずにいた。

彼は困ったような顔をして、空を見上げた。

「あ、見つけた。北極星。」

「白いなあ。」

彼がまたじっと、私を見つめてくる。顔が少しずつ赤くなっていくのがわかって、私は思わず顔を背けた。

また彼は、困ったように笑って、

「次、いこっか。」なんて、言った。

その悲しそうな声を聞くと、葵くんがこのままどっかに行ってしまいそうで、怖かった。

だから、こんなことを口走ったのかもしれない。

「葵くんも、なんだか、北極星みたいだね。」

そう笑って問いかけると、彼はとても驚いたように目を見開いていた。

「な、なんか、思い出した…?」

「え…あ、ううん。前、私が北極星みたいだって、病室で話してくれたでしょ。それをちょっと、思い出しただけ…。」

ああ、私は何を言っているんだろう。

また葵くんは、困ったような顔をして、

「あはは、そっか…。」

そう言って、笑った。

「今度こそ、最後のところ、行こう。」

そう言って、彼は階段を降りていく。最後…彼が言ったこの意味を、私は考えずにはいられなかった。


最後に行くところは、私でも少し勘付いていた。

きっと、あの時葵くんが言っていた場所。

私が彼を、連れて行った場所。

『小塩地区、小塩川!』


来てみると、そこには葵くんが語ったような賑やかさはなかった。

鈴虫の音が、静かな森の中に反響して、私の耳に届いてくる。ただ、それだけだった。

「葵、くん…?」

私はなんて声をかければ良いのか分からなかったが、ただ無意識に彼の名前を呼んでいた。

葵くんは、何かをじっと見つめたまま、動こうとしない。

何を見ているんだろう。そっと、葵くんが見ているものを覗き込んでみると

それは、ほたる祭り中止のお知らせだった。

『昨日大分県で大規模な大雨が降った影響で、泥濘んだ土砂が警戒されるため、今日のほたる祭りは中止となります。なお、次の日程に関しましては…』

「…あーあ、なんかもう、全部だめだな。」

「え、葵くん?」

私が彼の顔を見ようとすると、葵くんはすっと別の方向を向いた。彼の手は、とても強く握られている。

彼はわざと私の顔を見ないようにして、震えながら語りだした。

「僕ってさ。とっても不器用だよね。」

「え…」

「今日のデートも、カッコつけて、変わりたいなんて思って、キャラじゃないこと言ってみたり、やってみたり…。結局、根が変わんないんだから、なんにも変われなかった。」

「だから、こういう結果を生んじゃうんだろうって、思ったよ。だから、こういう結果になっちゃうんだろうって、思ったよ。」

彼が肩を震わせながら進んでいく。

「結局僕って、なんで忘れられてるんだろうって、君に会わない間も、ずっと、ずっと、考えていたけど。」

「それ、全部だ…」

葵くんの背中越しに、彼が涙を落としたのがわかる。

葵くんは、必死に涙を拭いながら、拭いながら、泣きながら、話し続けた。

「僕なんか、人と上手く話せない社会不適合者で。誰かの助けがなきゃ、友達一人も、作れなくて。祭りのスケジュールくらい、しっかり確認できないアホで。

顔も良くなくて、頭も良くなくて、本しか読んでなくて、そのくせプライド高くて、どこか人を見下していて、それでも寂しやりがで、優しくもなくて、捻くれてて、自信がなくて、意地っ張りで、勇気がなくて、ひとつも、ひとつも、良いところなんてないっ…」

「ぼくなんかっ、ぼくなんか…」

「いないほうが、いいんだよ。」


バッ 


その時私は、咄嗟に彼を抱きしめていた。

「そんなはずないっ…!」

「そんなはず、ないよ。」

「…え?」

葵くんが、振り返って私の方を見る。

私はいつものように、笑ってみせた。


「私の日記の葵くんのこと、話してもいい?」

「…え…うん。」


_月_日

今日、階段から転げ落ちてしまった。でも、落ちても全然痛くなくて、なに?!私とうとう神になったの?!なんて思ってたら、違ったみたいで。誰かが私の下敷きになってくれたみたいだった。で、その下敷きになった子がとても変な子で…


_月_日

昨日あった子は、どうやら私のクラスメイトだったらしい。しかも今日席替えがあって、なんとその子は私の隣!これって運命?なんちゃって。まずは、昨日のこと謝らなくちゃ。ようし、明日話しかけてみようかなあ?!

←今日勇気がなかった人


_月_日

ねえ、聞いてほしいんだけど、全世界の私。まず、前助けてもらった子が、葵くんって言うのは分かった。分かったんだけど、その子が全然私に反応がないの!いくらなんでも薄すぎない?!私、ちょっとムキになっちゃったかも。私、あの子を笑わせたい!

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_月_日

いろいろ話しているうちに分かったんだけど、葵くんはとても面白い子だった。

だから、プリクラに誘った!彼はとても嫌そうな顔をしたけど、私はとっても楽しかったよう!だって、葵くんとの思い出ができたから!

葵くんは不思議だなあ。他の人と違って、私にフィルターがかかってないからか、とっても話しやすいし、面白い!

_月_日

今日は、彼のおすすめが聞きたくて、図書館へ行った。私が、サクッと読めて感動するやつがいい!なんて言ったから、彼は少し困ってしまっていたみたいなんだけど、私にピッタリの小説を持ってきてくれた。あれ?今気づいたけど、彼のおすすめ聞いてない?まあ、いいや。

ちなみに本は、とっても感動した!涙出ちゃうくらい泣いたし。ううっ…ぺす…。


_月_日

映画を見ようっ!って話になった。巷で話題の、全米が泣いた映画。理由は簡単、私は葵くんの泣いている表情がみたい!それは昨日気づいたんだ。

なのに…もう、なんで?!私だけじゃん、ボロ泣きしたの!もう、葵くんが泣くことなんて、これから先、あるのかな…。あったら、どんなときだろうな…。


_月_日

葵くんが、私を助けてくれた。顔がボロボロになりそうな私を、葵くんが助けてくれた。

嬉しかった。うれしかった‥。涙で全然、書けないや。

とっても、とってもかっこよかった。ヒーロー、みたいだった。


_月_日

今日は、彼をほたる祭りへ連れて行った。彼はホタルを馬鹿にしていたみたいだけど、結局楽しんでくれたみたいでよかった。葵くんは、なぜか私との関係を気にしていたみたいだったけど、一緒にいたいって、言っちゃった。凄く、ドキドキした。

そしておもったことがある。どうやら葵くん、私しか友達いないみたい。よーし、私が彼の友達を作ってあげるぞー!


_月_日

今日は彼と一緒に海開き!友達も葵くんに沢山できたみたいで、私の長年の協力が功を奏したのかな?まあ、当の本人の彼は、少し嫌そうだけど笑


_月_日

私のとっておきの場所を彼に紹介した。北極星が見えると噂の、大きな展望台。北極星なんてどこでも見れるからいい、なんて彼は言ってたけど、わかってないなあ。こういうのは、雰囲気が大事なんだよ。そうして、彼を連れて行った感想は

「白いなあ。」だった。ふふっ、なにそれ?!

やっぱり、葵くんと一緒にいると、とっても楽しいし、ドキドキする。


2月10日

明日は、彼と放課後デートをすることになっている。とっても楽しみ!


「2月、11日…」

それは、君が事故に遭った日だった。

それまでに、その日までに、君は僕のことをこんなに、こんなに、書いていたのか…。



「日記の中の私は、とても楽しそうだった。」

日記をまじまじと見つめる僕に、君が優しく、語りかける。

「葵くんがいないほうが良いことなんて、一つもないよ。実際、私は葵くんがいたから、こんなにも、楽しい高校生活を送れているんだろうと思う。」

「今は、葵くんのこと忘れちゃって‥。ほんとばかだよね、私…。」

「でも、葵くんのこと、一からでもいいから、もっと知りたい。」

「もっと、君と一緒にいたい!」

君の今まで聞いたこともない、掠れた声を聞いて、無意識に僕は、君の方へゆっくり振り返った。僕は初めて、君の前で泣いた姿を見せていた。

でも、言いたいことがある。大事な事がある。

「あおい、くん…?」

「…好きだ。」

「えっ…」

「君が記憶を無くす前も、記憶をなくした後も、僕はやっぱり君が好きだった。」

「これまで、気づかないようにしてた。どうせ、叶いっこないから。どうせ、傷つくだけだから。君に、迷惑をかけるから。君との関係を壊すくらいなら、このままでいいと思った。」

「でも、だめなんだ。ぼくは、君が好きなんだっ…。」

「すきですっ……」

最後の方は、声が枯れて、自分でもなんて言ってるか分かんなかったけど、伝わって、いるのだろうか…。


そのとき、

私達の周りが、黄色い光に包まれた。

「ホタ、ル…?」

「ほたるだ…」

暗くなった影から、何千もの蛍たちが姿を現す。

その一つ一つが私達を照らして、それで、それで…

『白いなあ。』『イエローカード二枚もらってるんだけど。』『こちらのほうこそ、なんかごめんなさい。』『君はお店を食べるのか。なかなか豪快だなあ。』『貸してよ、双眼鏡。』

『僕らもここから、逃げるよ。』


…今のは、私の、昔の…


ハッ 

…はあ、はあ、はあ。あれ、私、確か、車にはねられて、意識がなくなって…

…!

「葵くん!わたし、全部…」

『君が好きだ。』

「え、え、ええええええええええええ?!」

思わず私は後退りする。え?告白?!しかも、葵くんのほうから?え、え、なんで、なんで?!どうしよう、どうしよう、

涙が止まらない…

こんな気持ち初めてだ。今まで、告白されても、こんな気持ちにはならなかったのに。

舞い上がっている自分がいる。

シュンっ

そのとき、事故直前の、私の記憶が戻ってきた。

『痛い、痛いよ…葵くん。助けて、たすけて…。』

『最後に、最後に、伝えたかった‥』

『…葵くんが、好きだって。』

痛くて、痛くて、どうしようもない時に、私は葵くんのことを考えていた。葵くんに、助けを求めていた。

記憶がなくなる前の私は、葵くんに恋をしていた。

そして、記憶がなくなっても、彼のことを忘れてしまっても、私はもう一度、彼に恋をしていた。

「…葵くん。私、なんで葵くんのことだけ忘れていたか、わかったよ。」

「え‥。もしかして、記憶が、もどった…?」

「…うん。私ね、事故の直前まで、事故にあって短い意識の間も、ずっと葵くんのこと、考えていたんだ。だから、多分その事故のショックで、ずっと強く考えていたことだけが、抜け落ちちゃったんだよ。私は、葵くんのことが嫌いだったとか、そういう理由で、葵くんのことだけを忘れていたんじゃない。」

もう一度、葵くんを強く抱きしめる。

「私は、葵くんのことが大好きだから、忘れてたんだよっ!!」

そう彼の体に身を預けて、泣きながら叫んだ。

彼から、少し体を離して、お互いにまた顔を見合わせる。

「私も、大好き。」

彼との距離は、さっきよりももっと近かった。

「僕も、もう、君に忘れられてほしくない。」

そうして葵くんは、私に優しく唇をかよわせた。

そうして私達は、淡い光の中で、短い寿命の中、


_記憶を、思い出していた。



__

__

__


「ねえ、君はまた、日記をつけているの?よく飽きないね。」

「うん。でも、これはただの日記じゃないんだよ。」

「これは、


これから記憶を失っても、葵のことを思い出せる


         _”思い出”だから。」


FIN〜

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