第4恋 すべての道はアイに通ず
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ハートダイヤ盗難事件の報告がてら僕とラブ子先輩は探偵協会本社ビルの最上階に来ていた。秘書の方に会長室に案内されると安楽椅子に腰掛けた九十九会長は窓の外を眺めていた。全盛期に比べ視力は衰えているという話だがいったい会長の目には何が視えているのだろうか。
「よく来たの」
目線をこちらに移さないまま九十九会長は言った。
「まあね。うちの助手がほうれん草は基本だとうるさくてね」
「ラブ子先輩……イントネーションが葉物ですよ」
今日はそんな話をしに来たのではないのだ。柄にもなくいたって真面目な話だ。
「そこの助手が何か言いたそうにしておるな」
死神探偵は見透かしたように僕を射ぬく。
さすがは察しがいい。
「イチズくん、そうなのかね?」
「ええ、まあ」
そして僕は呼吸を整えてから宣言した。
「僕はラブ子先輩へ挑戦する」
「むむむ。助手が探偵を試そうというのかね?」
「ある種そうです」
「フフフ。よかろう。受けて立つぞ」
ラブ子先輩はどこかうれしそうだった。
「本当はラブ子先輩も気づいているはずです。もう真実から目を背けるのはやめましょう」
「まさかおじさまの前で結婚の挨拶でもするつもりかね?」
それはいつかはしたいと思うが残念ながら今は違う。
「十年前、とあるカフェで起こった夫婦焼身心中事件」
一瞬にして空気がピリつくのを僕は肌で感じた。
「ラブ子先輩のご両親は心中したのではなく殺されたんです」
「イチズくん、以前私もそう思うとは言うたが……」
「そしてラブ子先輩のご両親を殺めた犯人はこの中にいる」
僕はラブ子先輩を無視してから右腕をゆっくりと持ち上げて、人差し指をとある人物にまっすぐと突きつけた。
「それはあなたです。九十九会長」
突きつけられた九十九会長は目を細めて不気味な笑みを浮かべていた。
「いち助手の分際で探偵協会会長であるわしを犯罪者呼ばわりするか?」
なんという威圧感だ。
半世紀もの間、探偵として第一線で活躍しそのシワの数だけ犯人を奈落に突き落としてきただけのことはある。
だがしかし僕も負けるわけにはいかないんだ。
「ただの助手じゃありません。僕は恋愛探偵の助手です」
ラブ子先輩に血生臭い事件は似合わない。なぜなら彼女は恋愛探偵だからだ。ラブ子先輩には恋の謎を解いていて欲しいのだ。そのためなら僕はどんな謎も解いてみせる。僕がラブ子先輩を探偵の呪縛から解いてみせる。そして十年前の悲劇を完膚なきまでに終わらせてやる。
「イチズくん、さすがに冗談では済まんぞ」
「はい」
真っ直ぐに見返して答える僕を見て、ラブ子先輩は何かを諦めたように目を閉じた。
「よかろう。ならばどういうことかちゃんと一から説明したまえ」
「わかりました」
もう後には引けない。
僕は深呼吸してから口を開く。
「僕がまず疑問に思ったのは金庫に保管されていたはずのハートダイヤがなぜか金庫から出されていたことです」
「ハートダイヤはラブ子の両親である
「果たしてそうでしょうか?」
「む?」
「ならばなぜ恋泉夫妻は店の出入り口とキッチンという離れた場所で亡くなっていたんですか?」
僕は九十九会長を詰めるように言う。
「一般的な心中の場合はふつう身を寄せ合うものじゃないでしょうか?」
「そうかのう? わしが推理するならこうじゃ。たしかダイヤル式の金庫はキッチンの食器棚に置かれていたはずじゃ」
「やけに詳しいんですね」
「当然じゃ。事件当時、警察にコネをきかせて捜査資料を片っ端から読み漁ったからの」
さも当たり前のように言って九十九会長は続ける。
「じゃから道長がハートダイヤを取りに行ったところで薔薇子は急に死ぬのが怖くなり店を出ようとしたが間に合わずに息絶えた――こう考えるのが自然じゃの」
「そんな生半可な覚悟で夢の喫茶店に火を放ちますか?」
「死を目前にすれば人間の意志はかくも脆弱になるものじゃ」
夫を見捨ててひとりだけ助かろうとする人が心中なんてするのか。心中をしようとしたどころか真剣交際もしたことのない僕にはわからない。それでもまだ推理を打ち切るわけにはいかない。
まずは基本に立ち返ろうと思う。
「火災の原因はアルコールに引火したらしいです」
「それがなんじゃというんじゃ?」
「九十九会長、あなたは常日頃からお酒を入れたスキットルを持ち歩いていますよね?」
「これのことかの?」
そう言って九十九会長は懐から金属製のスキットルを取り出すと挑発するようにクイッと煽った。
「まったくこれだけで犯人に決めつけられたんじゃたまったもんではないの。それにアルコールに引火したというのならば店内で取り扱っておったアルコールではないのかのう?」
「カフェにアルコール類は置いてませんよ」
「そうかの? 料理酒や消毒液や店主の晩酌用のお酒があるじゃろ?」
「…………」
正直僕はそこまでは考えていなかった。
「……そう、かもしれませんね」
取り澄まして答えながらも内心僕は焦っていた。気づけば僕が犯人のように追い詰められている。さすがは稀代の名探偵。手強い。理論武装を崩せない。
どこかに糸口はないのか?
いつも導いてくれるはずの人は瞑目して押し黙っている。真犯人への道はもう途絶えているのだろうか。いや、まだだ。ちゃんと目を凝らせ。道なき道にも足跡が続いているはずだ。
そうして僕が発見したその足跡は四足歩行の肉球だった。
「猫」
「なんじゃ?」
「例の事件の日、お店には看板猫のハートフィリアが不在でした。その日に限ってなぜいなかったのでしょうか?」
「猫が店内にいないことくらいあるじゃろうし、猫を死なせるのは忍びないと思うたあやつらが野に放ったのじゃ」
そうかもしれない。
「でも心中じゃありません」
「まだ言うか、小僧」
「他の可能性は考えられませんか? たとえばその日、事件当日に九十九会長が店内にいたからではないですか?」
「ドラ猫がいないとなぜわしが現場にいた証明になるんじゃ?」
「それは九十九会長、あなたが重度の猫アレルギーだからです」
だからハートフィリアを店から追い出させた。
すると九十九会長は即座に反論する。
「猫アレルギーの客人が来たからといってわざわざ店から追い出すかのう? 普通どこかの部屋に一時的に隔離するものじゃないのかの?」
たしかに。九十九会長の言うとおりだ。ならなぜ恋泉夫妻はハートフィリアを外に出した?
それはたぶん。
「恋泉夫妻は九十九会長が店を訪ねてきた時点でおそらくこういう末路を辿ることを予期、いや推理していたのではないでしょうか?」
あるいはハートフィリアのほうが動物の勘を働かせて店の外に逃げたか。こればっかりはいくら話しても憶測の域を出ないが……。
九十九会長は僕の穴だらけの杜撰な推理に思わずため息を吐いた。
「そもそもラブ子の両親は心中であろう。その証拠に密室の店内で不審火がありさらに検死の結果ふたりの体内からは薬物が検出されたはずじゃ」
「探偵協会会長はだいぶと素直なんですね」
「なんじゃと?」
「恋泉夫妻が犯人にクスリを盛られたとは考えないのですか?」
「何のためにそんなまどろっこしいことをする? 心中に見せかけるためか?」
「それもあるかもしれませんが本当の理由は違います」
僕の確信に満ちた言動に九十九会長は眉をひそめる。
「犯人が恋泉夫妻に薬物を盛った真の理由については犯人の動機からたどったほうがわかりやすいと思います。その動機とは犯人が本当にほしかったものにある」
「ほう。お聞かせ願おうかの」
この事件の犯人が喉から手が出るほどほしかったもの。
半世紀もの間、血道を上げて追い求めたもの。
犯罪に手を染めてしまうほどほしかったもの。
「それは――真実です」
僕は九十九会長を真っ直ぐに見据えて答えた。
九十九会長は伽藍堂のような瞳で押し黙っている。
「迷宮入りした未解決事件の代名詞である百億円事件。恋泉夫妻の娘、ラブ子先輩によれば恋泉夫妻は百億円事件の真相にどうやらたどり着いていたらしいです。そしてこの百億円事件を解き明かすことこそが九十九会長の悲願でしたよね?」
「そうじゃの」
「ちなみに恋泉夫妻から検出された薬物にはマタタビと似た成分が入っていました。偶然にも最近ちまたで流行ったラブキャットというドラッグがありまして、その薬物は相手を惚れさせる効果があります。そしてそのドラッグの元となった薬物はとある国では自白剤として用いられることもあるそうです」
「…………」
「九十九会長、あなたはこのラブキャットの元となった薬物を恋泉夫妻に盛って百億円事件の真相を吐かせようとしたのではないですか? あるいは真相をどこかに書き記したノートの隠し場所を吐かせようとした」
ふたりをよく知る九十九会長なら知っていてもなんら不思議はない。
「そしてその真相ノートを探していたからこそ店の金庫を血眼になって漁った。ハートダイヤなんか目に入らなくなるほどに」
そんな宝石よりも犯人にとっては一冊のノートのほうがよほど価値があった。
「わざわざなぜそんなことをする必要があるのじゃ?」
「あなたは百億円事件を解いて自分の手柄にしたかったんです。違いますか?」
九十九会長は肯定も否定もしなかった。
「おそらく探偵協会を退会するにあたって恋泉夫妻と九十九会長の間で諍いがあったのではないでしょうか。だから恋泉夫妻は引退後も百億円事件の真相を公表しなかった。それが九十九会長の悲願だと知っていたからです」
「じゃとすれば、私情で真実を闇に葬ろうとは探偵の風上にも置けん奴らじゃな」
「探偵ではありません。そのときすでにふたりは探偵を引退してカフェを営むどこにでもいる普通の夫婦でしたから。まだまだ甘えたい盛りの娘もひとりいました」
「関係ない。たとえカフェを営む夫婦じゃとしても探偵であることには変わらん」
九十九会長は遠くを見つめながら言った。
「探偵とは職業ではなく生業なのじゃから」
なぜこの期に及んでそんな目ができる?
もっともらしいことを言っているが、あなたは探偵ですらなく犯人だ。人殺しのはずだ。
「じゃがしかし小僧、すべておぬしの憶測妄想の類いじゃろう? 事件当時、密室であるという事実は変わらん。これを覆す動かぬ証拠はあるのかのう?」
「残念ながらありません」
「じゃろうな。ならば――」
「たしかに動かぬ証拠はありませんが、この心中事件の真相にいち早くたどり着いていたにもかかわらず動かない人物ならいます」
「なんじゃと?」
動かぬ証拠を動かすためにはまず人の心を動かす必要がある。
「しかもその人物は現場でその事件を目撃していた可能性がある」
「世迷い言をほざきおって。ならば今すぐ連れてこんか」
「いえ。連れてくるまでもなくその人物はこの部屋にいます」
大見得を切っておいて情けないかぎりだが、結局僕はこの人を頼らざるをえない運命らしい。
「小僧。まさか」
「はい。そのまさかです」
僕に動かせるだろうか。この人の心を。
お願いですから僕に力を貸してください。
僕は心を動かしたい人の名前を呼んだ。
「それはラブ子先輩です」
だいたい僕に解けてラブ子先輩に解けない謎などない。
そもそもこの事件に関していえば解く必要もなかったかもしれない。
だからいいかげん目を醒ましてください。僕では役不足なんです。
僕は思い詰めたような顔のラブ子先輩に問いかける。
「事件当日、ラブ子先輩も現場にいたんじゃないですか?」
「……何を言っておる、イチズくん? 私はあの日、英語教室に――」
「行ってませんよね? あの日、英語教室に」
英語が絶望的なのはトラウマのせいだなんだとよくわからない言い訳をしていたが、そもそもサボってんじゃないですか。
まあそれはさておき。
「どうしてそんな嘘吐くんですか?」
「人聞きの悪いことを言うでない。なにぶん十年前の出来事で私もまだ子供だったからね。事件当初は混乱状態であっただろうし記憶があやふやになっても不思議ではない」
ラブ子先輩は早口でまくし立てた。
「仮にまかり間違って店内に私がいたとして、ならばなぜ私は生きておる? 事件当時は密室だぞ。ならば私は死んでいなければおかしい」
「そうですね。本物の密室ならそうなります」
「何が言いたいのだね? イチズくん」
怪訝そうに問うラブ子先輩に僕は答える。
「猫はみずからの死を察すると人目から離れるらしいです」
「何の話だね?」
「以前ラブ子先輩自身がおっしゃっていましたよね? ハートフィリアは脱走の名人猫であり、だけど気がつけばコロッと店内に戻ってきていた――と」
「そんなことも言うたかね」
しらばっくれるラブ子先輩。
「だが、いったいどこにそんな密室の隙間があるというのだね?」
「それは通気ダクトです」
「あのね、イチズくんは知らんと思うがうちにあった通気管は狭くて私はとてもじゃないが通れんぞ。はさまりものの兎映画みたいになってしまう」
おそらくセクシービデオのことを指しているのだろう。ウサギは年中発情期だからね。
「たしかに。今の育ちきってしまったラブ子先輩の体では無理でしょうね。でも子供の頃の恋泉ラブ子なら通気ダクトを通れる。違いますか?」
ましてや猫なら余裕で通れるだろう。
その裏道を見つけたのはハートフィリアが先かラブ子先輩が先かまではわからないけど。
するとラブ子先輩は顔を伏せてから観念したように十年越しの真実を告白した。
「十年前のあの日、本当は私も死ぬはずだったのだ」
「え?」
予想外の告白に僕はたじろいでしまう。そのまま二の句を継げずにいるとラブ子先輩は言う。
「しかし本当に私は何も見てはおらん」
「犯人の姿を見てはいない?」
でも現場にはいた。ということは導かれる答えはひとつだ。
「でも聞いてはいたんですね?」
「…………」
その沈黙はほとんど肯定だった。
というかなぜそこまでして犯人を庇うようなことするのか。両親の仇じゃないのか。育てて貰った恩はあるにせよ、それもラブ子先輩を利用するためなんだぞ。
「ラブ子先輩が両親の事件の真相にたどり着いているという証拠、というよりは根拠ですね――それはラブ子先輩が探偵をやめたことです。ラブ子先輩が探偵をやめた本当の理由は九十九会長が犯人だと気づいてしまったからではないんですか?」
「私はただ……もう誰かが傷つくところを見たくなかったのだよ。本当にそれだけなのだ」
やはりこの心優しい先輩には探偵は向いていないのかもしれない。たとえ謎解きの天才だとしても優しすぎるのだ。
そんな娘に冷たい眼を向けてから九十九会長は死神のような声音を吐く。
「子供や猫にとっては密室ではないかもしれんが大人にとっては密室であることに変わりはなかろう?」
「犯人がどうやって密室を作ったかまでは今の僕にはわかりません。ラブ子先輩ならわかるかもしれませんが……」
しかしラブ子先輩は口をつぐんでいる。あと一押しか。
「ですがラブ子先輩のお母さんがドアの入り口付近で倒れていたのは煙の充満するカフェを這いつくばりながらも鍵を開けて逃げようとしたからではないでしょうか? そこには生きる意志が感じ取れます」
「ならば夫のほうはなぜキッチンにおったんじゃ?」
「それは……お店の売上金を回収しようとしたのではないでしょうか?」
「命よりも金が大事か?」
たしかに違和感は残るが薬物と煙で意識レベルが著しく低下していたせいもあるのだろう。
「ともあれ今日まで百億円事件の真相が世間に公表されていないところをみると犯人は真相ノートを見つけられなかったのでしょう」
そして百億円事件の真相はカフェとふたりの亡骸ごと闇に葬られた。
「そこで九十九会長、あなたは恋泉夫妻の忘れ形見であるラブ子先輩の才能に目をつけた。ふたりの探偵の血を継ぐ娘を養子に引き取り探偵として育てることにしたんです。自らの夢である百億円事件を解かせるために」
「くだらんの」
「しかし探偵として急成長を遂げたラブ子先輩は百億円事件の真相にたどり着く前にご両親の事件の真相にたどり着いてしまって、探偵をやめることとなった」
それは九十九会長にとっても誤算だった。
「そして皮肉にも九十九会長は自分で自分の首を絞める結果になったんです。違いますか?」
自分の育てた探偵が自分に牙を剥き――こそしなかったが、その探偵に引っ付いていたダニが牙を剥いた。
九十九会長はゆっくりと自身のあごを撫でてから僕を評する。
「助手として探偵への信頼ゆえの推理展開。まま及第点といったところかのう」
「そりゃどうも」
しかしなんだ……この悟りを開いたような余裕は。
「まさか探偵ではなくこんな助手に追い詰められるとは……歳はとりたくないもんじゃの」
「僕はただ恋愛探偵に笑って謎を解いてほしいだけです」
そのために助手になったのだから。
今回、僕がしたのは推理ではなく信頼しただけだ。
「ということは九十九会長、自身の犯行を認めるんですね?」
「いいや、認めんよ」
九十九会長は首を横にゆっくりと振ってから自白するように回顧する。
「あのときもそうじゃった」
***
約十三年前の探偵協会会長室。
「探偵協会を脱会するじゃと? わしは認めんからの」
若かりし頃のラブ子の父親である道長とその頃から若くもないわしは対立していた。
「独立するならまだしも何じゃと?」
「はい。ですから探偵を廃業して田舎でカフェでも営みながらゆったり暮らすつもりです」
「血迷ったか? ふざけるのも大概にせえ!」
わしは頭に血が昇るのを感じてこめかみを押さえる。
「ではその子はどうなるのじゃ?」
わしが向ける視線の先には当時四歳のラブ子が書棚から分厚い資料を抜き取りパラパラとものすごい速度で読み漁っていた。それを母親の薔薇子が注意しているのを困ったように見つめながら道長は言う。
「ラブ子にはこんな血生臭い事件とは関わりのないところで生きてほしい。そしていつかは恋をして愛を育んで幸せな家庭を築いてほしいんです」
「ちょっとあなた気が早いわよ」
薔薇子にたしなめられて道長は照れくさそうに後頭部を掻いた。
その平和ボケした夫婦を見てわしはついぞ我慢できんかった。
「その子は紛れもない
「買い被りだと思いますが、そういう未来もあったかもしれませんね。でもだからこそこの子にはそういう茨の道を歩ませたくないんです」
「神に選ばれし探偵になれるのじゃぞ?」
「神は神でも死神でしょう?」
道長は返す刀で言った。
「探偵と死神は同義。そう教えてくださったのは会長です。僕は娘を死神にはしたくありません」
そう言って道長はわしに背を向けると立ち去ろうとした。
「探偵失格と罵ってもらっても構いません」
「そうか。探偵じゃなくなるというのじゃな?」
「はい」
「そうか……。そうかそうかそうか」
それからわしは真綿で首を締めるような口調で恫喝する。
「ならば予言しよう。おぬしらは不可解な最期を遂げることになるじゃろう」
「そうなればあなたも探偵じゃなくなりますよ? 違いますか?」
「それで脅し返したつもりかの? 両親が不審な死を遂げたことを知ればおぬしらの娘はいったいどう思うじゃろうな?」
「ッ!?」
道長は猫のように事件資料をめくる愛娘を見たのち再びわしに向き直った。
「まさかそれがあなたの真の狙いですか?」
「これで探偵は三人死にひとりの名探偵が生まれる」
「かつての死神探偵も地に落ちましたね。これじゃ本当の死神だ」
「どっちもたいして変わらんじゃろう?」
わしと道長はしばらくにらみ合ったのち道長は唐突にはにかみ笑う。
「それでもラブ子は死神にはなりません。僕はそう信じます」
「ぐぬぬ。なぜわからん」
説得不可能とみたわしは悔しげにとあるカードを切る。
「百億円事件はどうするのじゃ? おぬしら、真相にたどり着いておるのじゃろう?」
「さすがに気づいていましたか」
「当然じゃろう。探偵に隠し事が通用すると思うたか」
「ですね。しかし残念ながら百億円事件の真相を世間に公表するつもりはまだありません」
「な、なぜじゃ?」
「理由は言えません」
その道長の答えにわしは呆れてしまった。
「おぬし、探偵としての矜持はないのかのう?」
「はい。僕はもう探偵ではありませんので。でもひとつだけ言えるのはこの百億円事件の真相はあなたの没後に公表するということです」
「そういうことかの」
わしは恨むように言い募る。
「おぬしらに手を出せば百億円事件の真相は一生闇の中というわけじゃの。謎を人質にするつもりか?」
「そうとってもらっても構いません」
含みを持たせるように言ってから道長は薔薇子とラブ子の手を取った。その背中にわしは熱弁をぶつける。
「愛じゃ。わしはただ探偵を愛しているだけじゃ。なぜそれがわからん?」
「愛ほど解けない謎もないでしょう。正直、九十九会長がなぜそこまで探偵にこだわるのか僕にはわかりません」
「…………」
「九十九会長、今までお世話になりました。店がオープンしたら紅茶でも飲みに来てください。そのときは探偵ではなく、店主とお客としてぜひお待ちしております」
「死神をお茶に誘うやつがあるか。このお人好しが」
その日、ふたりの優秀な探偵がわしのもとから去り、残されたひとりの死神は犯行を決意したのだった。
***
九十九会長と恋泉夫妻の間にこんな確執があったとは僕は驚きだった。しかし結局は恋泉夫妻の望みどおりふたりの遺志は今日のラブ子先輩に受け継がれていたのだ。
そんなラブ子先輩をぼんやりとしたまなこで見つめる九十九会長。
「大きくなったのう。あの日のふたりを思い出すようじゃ」
「九十九おじさま……」
「ラブ子や、身勝手な話じゃがもう終わらせておくれ」
そんな老けこんだ九十九会長に促されてラブ子先輩は覚悟を決めたようにおおきく頷いた。
「わかったのだ」
それからラブ子先輩は涙をぬぐって顔を上げると懐をまさぐったが何も発見できない。僕はすかさず横からさっと個包装を破り、エリーゼを差しだした。これも助手の務めだ。
僕とアイコンタクトを交わしたのちラブ子先輩はホワイトクリーム味のほうのエリーゼを一本受け取ると最初で最後の推理を始める。
「十年前の事件当日、英語教室に行きたくなかった私は店の外で日向ぼっこしていたハートフィリアと出くわし、店に連れ戻そうとした。しかし店は閉まっており不思議に思った私は窓の外から店内をのぞくと両親ととある客人が机を挟んで向き合って座り話しこんでおったのだ」
「そのときは客人の顔は見えなかったんですか?」
「うむ。その来客は黒い外套を羽織り目深に被ったつば広帽子のせいもあり素顔はうかがえなかったのだ。だが死神のような雰囲気を醸し出す老人であることはかろうじてわかった。そしてこの老人こそが今回の事件の犯人なのだ」
ラブ子先輩は話を続ける。
「ハートフィリアを店に連れ戻したかったが英語教室をサボっていたのを両親にバレたくなかった私は店の裏手に回りハートフィリアと一緒に秘密の場所に隠れることにした」
「それが例の通気ダクトですね」
「うむ。当時の私にとってはほんの悪戯心というか、どこか探偵気分で息を潜めておったのだ」
実に子供らしい理由である。
「近くにあった納品箱を足場にして通気口から通気管に侵入すると私は匍匐前進で店内上部までたどり着いた。ちなみにこのとき通気管にいた私からは店内の様子は見えてはおらんが、これからさき述べる推理では現在の私によって補完された箇所が散見されることをあらかじめ断っておく。どうかご容赦願おう」
そう断ってからラブ子先輩は悲しげに言う。
「まあ店の看板猫をすぐに連れ戻さなかった当時の私の判断は正しかった。なぜならその犯人がハートフィリアを店の外に追い出した張本人だったからね」
「その犯人が重度の猫アレルギーだったからですね」
「うむ。イチズくんの言うとおりだ」
するとそこで年老いた死神が鼻を鳴らしながら口をはさむ。
「追い出すまでもなくあのドラ猫は逃げおったよ。寝床を杖でつついたらわしに威嚇しおった」
「あの猫の巣はハートフィリアの大のお気に入りだったからね。怒られてやむなしだね」
今まさに部室のそのキャットベッドの上でハートフィリアは丸くなって眠っていることだろう。
「恋泉夫妻は紅茶と晩酌用の火酒を犯人にだすとしばしのあいだ談笑していた」
ラブ子先輩は実のご両親のことをあえて恋泉夫妻という他人行儀な呼び方をした。それはおそらく当事者の感情をなるべく排除して推理を曇らせないようにするためだろう。
「すると恋泉夫妻とその犯人が話し込むうちだんだんと雲行きが怪しくなってきた。犯人の『探偵協会に復帰する意志はないか』との提案にたいして恋泉夫妻は首を横に振った」
「でもここまでは犯人も想定内だったでしょうね」
「うむ。そして今度は犯人はならばせめて百億円事件の真相手帳を渡すよう要求したが、恋泉夫妻は断固としてそれを拒否した。こんなにも頑なな父親を私はこのとき初めて見たのだよ」
なぜそんなにまでして恋泉夫妻は真相ノートの譲渡を拒否したのだろうか?
もはやそれが百億円事件の真相よりも謎である。
「そして犯人がため息をこぼした、次の瞬間――」
ラブ子先輩は言いながら唇をつよく噛む。
「恋泉夫妻は胸を詰まらせるように苦しみだした」
この状況でそうなる要因はひとつだろう。
「……それがラブキャットと似た薬物の症状だったんですね」
「うむ。このとき犯人が恋泉夫妻に語った情報を鵜呑みにするのであれば、この薬物の正式名称は――」
「『ラブライオン』じゃ」
横からそんな死神のようなしゃがれ声が注釈を入れると、ラブ子先輩があとを引き継ぐ。
「と、いうらしいね。おそらくは牧村理科教師もこの愛獅子を参考にして愛猫を製造したのだろうね」
愛獅子とはラブライオンのことか。
「そしてこの愛獅子を犯人は自白剤として使ったのだ」
「ですがラブ子先輩、そもそもどのタイミングでクスリを盛ったんですか? 元探偵の目を盗んでクスリを混入できるとは到底思えません」
「犯人はクスリを盛る必要もなかったのだ」
「どういうことですか?」
「犯人は入念な下調べをしてこの喫茶店が紅茶を淹れる際の水にもこだわっていることを知っていた」
ラブ子先輩はそう答えた。
「そこで事件当日の今朝、納品された天然水に注射器であらかじめ仕込んでいたのだ。私もその日その天然水をすこし飲んだところで目の色を変えたハートフィリアに横取りされてしまった。おそらくそれは愛獅子のマタタビと似た成分に反応していたからだろう」
ラブ子先輩が英語に関しての異常な記憶障害が発生しているのはこのときラブライオンを経口摂取してしまったことが関係しているのかもしれない。愛猫の名前である『ハートフィリア』に関しては昔から知っている英単語だったから忘れずに済んだのだろう。
何にせよ、これほど手の込んだことしてまで犯人は真相ノートがほしかったのだ。
「それから犯人はさっそく金庫の暗証番号を問いただした。金庫の暗証番号は当時の私も知らんかったのだが、しかし今となっては聞くまでもなかったことかもしれんね」
「どういうことですか?」
「要するに親バカだったということだ。なぜなら暗証番号は200066だったからね」
「それってつまり……」
「うむ。恋泉夫妻の娘の生年月日だったのだよ」
恋泉夫妻の娘。つまりはラブ子先輩の生年月日。
暗証番号を大切な人の生年月日に指定する。
どこぞのバカップルもそんな設定にしていたっけな。
僕は思い出しながらラブ子先輩の推理に耳を傾ける。
「そして犯人は立ち上がり金庫の置いてある台所に向かおうとしたところで、夫妻の夫のほうが火酒を店内に撒いたのち
おそらく火竜の落とし子とはガスバーナーのことだろう。
「その炎を噴く火竜の落とし子を持つ夫を前に犯人は狼狽してしまう」
「真相ノートが犯人の手に渡るくらいなら店ごと燃やそうとしたわけですか……」
「もしかすれば犯人が店を訪ねてきた時点で恋泉夫妻はこういう展開になることを見越していたのかもしれないね。そして緊迫する空気のなかしばらく膠着状態が続いた」
まさか恋泉夫妻がここまでするとは犯人も予想外だったのだろう。
「ここが最後の分かれ道だった。犯人はここで引き返すべきだったのだ。しかしそこで膠着状態を打ち壊す出来事が起きてしまった」
ラブ子先輩は
「そのとき店内にいるはずのないハートフィリアが突如として現れたのだ」
「え? でもハートフィリアはラブ子先輩と一緒のはずじゃ……」
「うーむ。それがな、とつぜん私の腕の中からハートフィリアは抜け出し、通気管を駆け抜けていってしもうたのだ。私はそのお尻を見送ることしかできんかった。このとき私がちゃんとハートフィリアを抱いていればこのあとの悲劇は防げたかもしれん」
悔恨混じりにそう言ってラブ子先輩は続ける。
「夫婦の危機を察知して忠犬のように現れたハートフィリアは帳場に置いてある猫の巣の上に飛び乗り犯人を威嚇した。しかし犯人以上に驚いたのは恋泉夫妻のほうだった。その隙を突いて犯人は夫の火竜の落とし子を掴むともみくちゃになってしまい、そのさい不運にも火竜の落とし子の炎が酒精に引火した」
そうしてお酒の海が一瞬にして火の海へと変貌してしまったというわけか。
「犯人は店の主人を突き飛ばしたあと大慌てで店の金庫の数字盤を回して解錠したまではよいが、煙の充満する台所で犯人は目を皿にして金庫の中を調べるが店の売上金と心臓石があるだけで肝心の真相手帳を発見できんかった。火の燃え広がるなかやむなく犯人は逃走したのだ」
犯人が真実を追い求めた代償としてすべて燃えてしまった。
しかし僕は犯人に同情はできなかった。もっと他に賢いやりようがあったはずである。
「でもそれだと犯人はどうやって密室を作りあげたんですかね?」
「それは簡単なことだ。密室にしたのは被害者である恋泉夫妻なのだからね」
「はい?」
僕はラブ子先輩の言っている意味がわからない。
「ラブ子先輩のお母さんはドアを開けて外に逃げようとして、お父さんのほうはなぜかキッチンにいたんですよね? やっぱりハートダイヤを取りに戻って――」
「それは違うのだよ、イチズくん。心臓石が耐火性であることは恋泉夫妻も百も承知。一刻を争う状況でわざわざ持ち出す理由はなかろう」
ラブ子先輩の言うとおり恋泉夫妻の目的が犯人同様ハートダイヤではなかったとすれば、またしてもハートダイヤに踊らされているのは僕だけということになる。
「イチズくん、発想を転回したまえ。むしろ真逆なのだよ」
「え? どういうことですか?」
「つまりはこういうことだ。犯人が逃げ去ったあと恋泉夫妻は煙と薬物で意識が朦朧としておりもはや逃げる体力もなかった。しかし最後の力を振りしぼって夫のほうは犯人の使用したティーセットを洗面台に置き、妻のほうは床を這いつくばりながら店の扉の鍵を閉めたのだよ」
「ど、どうしてそんなことを……?」
「それは」
ラブ子先輩は唇をわなわなと震わせたのち心を決めたようにやるせなく言った。
「心中に見せかけるためだね」
そのラブ子先輩の衝撃的な推理に僕は頭がこんがらがる。
「な、なぜ心中に見せかける必要があるんですか?」
「イチズくん、それはね、この一連の出来事を未解決殺人事件にしないためだよ」
そこまでラブ子先輩に言われて僕はハッとした。おそろしい真実に気づいてしまった。
探偵が先か、事件が先か。鶏が先か、卵が先か。
この場合、恋泉夫妻は卵が先だと考えた。
「要するにそこまでしてでも、そんな窮地に立たされた状況においてもなお、恋泉夫妻は娘を探偵にしたくなかったのだね」
ラブ子先輩は期待に添えなかったことをすこしだけ申し訳なさそうに推理した。
そこまでしてでも娘を犯人と同じようにしたくなかった。探偵という名の死神にしたくなかった。薬物と煙で朦朧とするなか恋泉夫妻はそう考えたのだ。
『両親は私のせいで亡くなった』。
以前ラブ子先輩の語っていたあの発言はこういう意味だったのだ。
「あるいは妻のほうだけなら逃げられたのかもしれないね。しかし火の海の向こうでは旦那が力尽き倒れていた。ここからは私の妄想なので聞き流してくれ」
ラブ子先輩はそう断ってから言った。
「事の発端はふたりが百億円事件の謎を解いてしまったことと妻は考えた。そしてその事件の真相手帳ごと自らを闇に葬り、探偵時代の相方であり人生の伴侶でもある夫とともに一種の責任をとろうとしたのかもしれないね」
それでは心中ともとれかねないが、でもやはり犯人に殺されたのだろう。
するとその当の犯人は無念だとでも言うようにため息を吐く。
「あの真相ノートは百億円以上の価値があったのじゃ。それをむざむざ燃やしてしまうとは気が知れんのう」
「あの手帳にそんな価値はないのだよ。たったひとつの真実はいつも残酷なだけでね」
ラブ子先輩は悲哀と同情を帯びた口調で無慈悲に答えた。
つまり恋泉夫妻が証拠隠滅したことが逆に心中ではない証拠となったわけだ。そして鍵を閉めた直接的な理由として恋泉夫妻は第三者を巻き込みたくなかった。特に娘のラブ子先輩を店内に侵入させたくなかったのだろう。まさかその娘が通気ダクトで息をひそめ隠れているとは夢にも思うまい。
とそこで僕はふと疑問に思う。
「というか通気ダクトにいたラブ子先輩は煙の被害はなかったんですか?」
「うむ。当時は今年のように流感が猛威を振るっておってな。その感染対策の一環として空調が大いに効いており私がいたのは外気導入の通気管だったので空気の流れ上無事だったのだ」
「不幸中の幸いだったんですね」
しかしそのせいで火の手の回りはもっと早かったことだろう。
「当時の私はそんな両親の思いを知らずに店が静まり返ったことを確認すると台所の通気管から店内に転げ落ちた。そこで倒れた父親を発見した私だったがいくら揺すっても起きない父親を前にしてどうすることもできずに泣きじゃくっていた」
当然だ。ひとりの子供の手には余りすぎる状況なのだから。
「そんなすべてを諦めかけた私だったが、しかしそこで救いの手が差し伸べられる。それは猫の手だった」
「看板猫のハートフィリアですか」
「うむ。私は彼女から生きろと言われている気がしたのだ。しかし扉への脱出は火に阻まれ困難と判断した私はハートフィリアに導かれるままに通気管を目指した。その途中でハートフィリアは猫の巣に飛び乗り何やら訴えかけられているように感じた私は猫の巣を回収したのち通気管から脱出したのだ」
ハートフィリアに導かれ、数々の幸運が折り重なった結果ラブ子先輩は生還できたのだ。そんなところを救急隊員に保護された。そしてラブ子先輩は九十九会長に引き取られ、この両親の事件の犯人を突き止めるために探偵として腕を磨くことになる。しかしこの事件の衝撃的な真相を知ってしまい記憶の奥底に封印したのだ。その結果当時学習していた英語まで封印されイングリッシュを受け付けない体質になってしまったのだろう。
そしてラブ子先輩は自分を抱くように腕を組みながら言葉を結ぶ。
「これが恋泉夫妻の願いが生んだ奇妙な密室の謎だよ」
恋泉夫妻はなかば犯人に協力するかたちで店に鍵をかけ密室を作りあげると、この一連の事件そのものに鍵をかけた。娘を探偵の道に進ませないようにしっかりと鍵をかけた――はずだった。しかし犯人が新たな鍵で探偵への扉を強引にこじ開け、一時は探偵の道に進んだラブ子先輩だったがその先で無惨な真実にたどり着いてしまう。そしてラブ子先輩は自らの意志で記憶に、あるいは心に鍵をかけた。今日その扉をまた僕が開かせてしまったのだ。そういう意味では僕は犯人と同じことをしているのかもしれない。
でもこれがきっと最後だから。もう終わりにしよう。
「故意ではないとはいえ結果的に恋泉夫妻……私のお父さんとお母さんを死に追いやった犯人――ずばり、それはきみだね」
ラブ子先輩は瞳いっぱいに涙をためながら今にも泣き出しそうな顔で犯人に向かってビシッとエリーゼの先端を突きつけた。
「現探偵協会会長、
真実を突きつけられた犯人である九十九会長は意外にも晴れやかな表情だった。
「食べ物で人を指すもんじゃないのう。まったくどんな教育を受けてきたんじゃか」
「犯人は……皆そう言う、よ」
涙声でラブ子先輩の決まり文句が炸裂する。
するとそれから九十九会長は思いがけない言葉を発した。
「ありがとう。見事じゃった」
肩の荷が下りたようにお礼を言った次の瞬間、とつじょ九十九会長は苦悶の表情を浮かべ、自身の首元を押さえたかと思うと口の端から血を垂らした。
「九十九おじさまッ!?」
ラブ子先輩はエリーゼを放り投げてあわてて九十九会長に駆け寄ると、僕はそのあとに続いた。安楽椅子から崩れ落ちるかつての名探偵。ラブ子先輩に抱きかかえられた九十九会長の傍にはスキットルからコポコポと内容液が漏れていた。
「まさかスキットルに入っていたのはお酒じゃなくて……」
僕がそう気づいたときにはしかし後の祭りだった。
九十九会長の服毒した毒はすでに全身に回っていることだろう。
「イチズくん、救急車を!」
「はい!」
「よさんか、小僧」
スマホを取り出そうとした僕を九十九会長は落ち着いた声音で制止すると、ラブ子先輩は困惑した。
「……おじさま、どうして?」
「わしはこの日をずっと待っておったんじゃよ」
そこで僕は九十九会長の真の狙いに気づく。
「もしかして九十九会長、あなたがラブ子先輩を探偵として育て上げたのは自らの悲願である百億円事件の真相を解かせるのが目的ではなく、その真の目的は九十九会長自身を真犯人として告発してもらうことだったんですか?」
「…………」
九十九会長は黙して答えなかった。代わりに別のことを言った。
「道長、薔薇子のこと、本当にすまんかった。わし一生の懺悔じゃ」
弱々しい老人の謝罪を受けてラブ子先輩は複雑そうな面持ちだった。
ラブ子先輩はどこかでこうなることを探偵の直感と本能でわかっていたのかもしれない。
「この部屋のどこかに解毒剤があるかもしれん。探してくれ、イチズくん」
「無駄じゃ。たとえそんなものがあったとしてももう間に合わんのじゃからな」
九十九会長はそう断言してから本音を吐露する。
「わしはただ真実を知りたかっただけなのじゃ。その代償として死神に魂を売ってからというもの生きた心地がせんかった。ずっと闇の中を
九十九会長では百億円事件の真相まであと一歩届かなかった。
ラブ子先輩は哀れみを込めて言う。
「真実など残酷なだけなのだよ」
「ラブ子の言うとおりかもしれんな。じゃが、それでもどうしても真実に手が伸びてしまうもんなんじゃよ」
抱きかかえられたまま九十九会長は吐血すると手をまっすぐに伸ばしてラブ子先輩の頬を撫でる。それから号泣するラブ子先輩の涙をしわくちゃの手でぬぐった。
「ラブ子や、おぬしは真の探偵でいなさい」
「無理なのだ」
ラブ子先輩は子供のようにブンブンと頭を振った。
「私は死を受け入れられるほど強くない」
「おぬしはひとりではないじゃろう?」
それから九十九会長は僕に視線を向けた。逸らすことが許されない、そんな目だった。
「ラブ子を支えるのじゃぞ、助手」
「はい。誓います」
僕の答えを聞いてから九十九会長は微笑み、ラブ子先輩に向き直る。それから最期に死神とは思えないような月並みな言葉を発した。
「愛しておるぞ、我が娘よ」
そしてそのすべてを見通す瞳はだんだんと虚ろに翳り、やがて光を失った。ラブ子先輩は慈愛を込めて目蓋をそっとやさしく閉じさせたのちハート柄のハンカチで口元の血を拭う。
それから最上級の賛辞で見送った。
「おやすみなさい、名探偵」
これが死神と呼ばれ恐れられた史上最高の探偵の最期だった。死神も死ぬのだ。
僕が十年前の事件の真相に気づけたのはひとえに僕がラブ子先輩のことを好きだったからだ。それ以外に理由はない。そしておそらくそんな僕の恋心さえ九十九会長の手のひらの上だった。いろんなヒントを与えられてうまく誘導されていた気がする。バカップルの色恋事件から始まりラブキャットの件や怪盗イレブンの件すらも九十九会長が仕組んでいたのではないかと思わせるほどの凄みを感じた。どうか僕の考えすぎであってほしい。しかしいずれにせよ僕たちが訪ねてきたタイミングで服毒したということはやはり覚悟していたのだろう。
そのなかでも九十九会長の手のひらの上にいなかったものがひとり、というか一匹いるとすればそれはハートフィリアだろう。ラブ子先輩の傍でずっと支え続けてくれた。ある意味、真の助手かもしれない。
ラブ子先輩は思い詰めたような顔で事切れた九十九会長を見下ろしていた。
「私が殺したようなものだ。また私のせいで愛する者を亡くしてしまった」
「それは違います。九十九会長は探偵という
数学者が問題証明に人生を懸けるように、探偵は事件解決に命を懸けるのだ。いくら燃えても燃え尽きないハートダイヤのように謎を
だけど、それでもこんな結末は僕も望んじゃいなかった。もしかしたら、このとき僕も死神へ一歩近づいてしまったのかもしれない。
かくして十年前の事件は死神の死を持って黒い幕を閉じたのだった。
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