屋上は千枚通しのような風がビュービューと吹き荒れていた。その奥の鉄柵の上にはこちら側に背中を向けた人物が立っている。こんな強風の中でも体勢を崩さないとは途轍もないバランス感覚の持ち主である。


「追い詰めたわよ、怪盗イレブン」


 八乙女さんが言った。

 そんな僕たちを待ち受けていたようにイレブンは顔面をべりべりべりと剥がしてからその場に捨てるとコンクリートの上にハットリ店長を模したフェイスマスクがしなびている。しかし肝心のイレブンの素顔は暗くてよく見えない。続いて服を脱ぐと腹部に付けた白い袋の中にはたくさんの宝石が詰められていた。それで恰幅のよいハットリ店長に変装していたのか。


 イレブンは体のラインのはっきりするライダースーツを着用している。正中線から白と黒に分かれたツートンカラーである。振り向きざま、ライダースーツの懐からダイヤモンドの仮面を取り出すとそれを装着した。地球上でもっとも硬い石の仮面。時価総額三百兆円とも言われるツタンカーメンの黄金の仮面と並び称されるお宝である。カット加工の施されたダイヤの仮面は光を屈折させてやはりその素顔はうかがい知れない。性別も不詳だ。

 かくして探偵と怪盗は邂逅を果たした。


「私は探偵協会所属の探偵、八乙女真」


 とそこで八乙女さんは自己紹介してから核心に迫った質問を投げる。


「怪盗イレブン、あなたは何のために盗むの?」

「逆に問おう」


 イレブンは透明感のある女性的な声で応じた。

 しかし声帯模写はイレブンの十八番なのでこれも本当の声ではないのだろう。


「Youは何がために謎を解く?」

「そんなの決まってるわ。あなたみたいな人を捕まえるためよ」

「そうかい。ならボクの答えとまったく一緒さ」

「ふざけないで。私の答えを盗まないでくれるかしら?」

「それならお口に鍵でもかけておいたらどうだい?」


 イレブンと八乙女さんは無言でにらみ合った。

 するとそれからイレブンは白い袋の中から二対のハートダイヤを取り出すと白い袋を鉄柵に引っかける。かくしてふたつのハートダイヤがあっさりそろってしまったが僕は言葉にできない違和感を覚えた。

 しかし今はそんなことよりも僕は他にどうしても言わなければならない事があった。


「おまえこんなところでそんな格好して何やってんだよ、ヒト!」


 僕のまったく脈絡のない発言に現場は一瞬にして静まりかえる。八乙女さんは目を丸くし、一方のラブ子先輩はあごに手を当ててから高速で思考を巡らせていた。

 風の音だけがうるさいなかそいつはいつもの声でおどけたように笑った。


「さすがにバレちゃった?」

「あたりまえ……だろ」


 いくら顔を仮面で隠そうと声を変えようとわかってしまう。だって幼なじみの親友だから。ずっと近くで見てきたから。それでも僕は自分の鼓膜にこびりついたその声を聞くまで信じられなかった。いや今も正直信じられない。

 僕は僕が悔しい。今の今までぜんぜん気づけなかった。


「馬鹿野郎。トワちゃんとケイさんを悲しませるようなことすんじゃねえよ!」


 こんなことヒトを手塩にかけて育てたふたりの母親に言えるわけがない。ましてやケイさんは警部だぞ。


「仮面夫婦にはお似合いの末路さ」


 イレブンは元の透明感のある女性の声色に戻してからそう言った。

 日本では同性婚は認められていないために籍を入れていない両親をそんなふうに揶揄するなんて僕の知っている親友では絶対にあり得ない発言だった。


「おまえ、本当に僕の知ってるヒトなのか?」

「さあどうだろうね。そうだとも言えるし違うとも言える」


 目の前のもはや誰だかわからない人物はダイヤの仮面を重たそうにかぶり直した。


「だけどひとつだけ言えるとすれば今現出しているボクは怪盗イレブンの人格ってことさ」

「それは……どういう意味だ?」

「要するに十一の主人格には眠ってもらっているという意味さ」


 イレブンは平然と答えているが僕は受け止められない。

 だってその言い方ではまるで……。


「夜な夜な家にひとりで誰かさんのことに思いを募らせるあまりヒトには過度なストレスがかかっていてね。そこでとある人物の心を盗むためにボクが生み出されたってわけさ」


 それから怪盗イレブンは衝撃の告白をした。


「ボクは、十一は乖離性同一性障害――つまりは二重人格者なのさ」

「なん……だって」


 そんなのでたらめだ。責任逃れもいいところだ。

 でも、もしもこれが事実だとすればヒトから責任すら奪うというのか、怪盗イレブン。


「どう思うかはYouの自由さ」


 以前ヒトの語っていた秘密とはこのことだったのかもしれない。

 中学まではよくうちにお泊まりしたものだが高校生に上がってからは夜もひとりで過ごすことが多かった。そして僕もちょうどそのときはラブ子先輩と出会い恋愛探偵部なるものに入部した時期で忙しかった。これは約一年前の話なのでイレブンが話題に昇り始めた頃と符合する。


「ヒト自身はこのことは知っているのか?」

「記憶の共有はボク、イレブン側からはしているけどヒト側からはできていないよ」


 イレブンは飄々と標準語で答えた。


「それでもさすがに違和感を持ったんだろう。精神科をはしごしたりしたみたいだけど診断結果は判を押したようにいつも一緒さ。十一はアダルトチルドレンってだけさ」


 すると突如イレブンはヒトの身の上話を語り出した。


「ヒトはトワが十六の時の子供だ。複雑な家庭環境から両親を頼ることができないトワは高校を中退したのち年齢を詐称してすぐに夜の世界で働き始めた。それから上京してケイと出会うまでヒトはひとりの時間が多くアダルトチルドレンにならざるを得なかったのだろうさ」

「そんなの言い訳だろ。アダルトチルドレンも大人になればただの人だ」


 人様のものを盗んでいいことには絶対にならない。たとえ深層心理で母親にかまわれたかったとしてもだ。


「勘違いするな。こんなものただの口実さ。ボクが本当に喉から手が出るほど欲しいもの、それは本物の輝きなのさ」

「御託はいい!」


 僕は我慢の限界だった。


「ハートダイヤを返せ! それはラブ子先輩の大切なものだ!」


 ラブ子先輩は口では興味ないと言っていたがそんなわけがないだろう。両親の形見なんだぞ。

 するとそこでイレブンから予想だにしない答えが返ってきた。


「返してもいいよ」

「え?」

「そのかわり等価交換さ」


 イレブンは自身の心臓を人差し指で指したかと思えば、次の瞬間に僕の心臓めがけて見えない弾丸を撃ち抜いた。


「Youのハートをいただこう」

「は、はあ?」


 意味がわからない。それのどこが等価なんだ?

 まるで釣り合ってない。ハートダイヤに比べれば僕の心なんて軽すぎる。


「ふ、ふざけるな!」

「ふざけてないさ。ボクは真剣だ」


 その証拠にイレブンはハートダイヤの片割れを差しだした。


「なにも全部とは言っていない。半分だけでいい。王道一途のハートをボクにおくれよ」


 I want you.

 と、イレブンは発音よく口ずさんだ。

 しかし僕は当然ながら返答に窮してしまう。


「だいたいな、僕の心は……」


 もうすでに奪われてしまっているのだ。

 イレブンの真意は知れないが、いずれにしろ僕にはどうすることもできなかった。

 そんな僕の心を盗んでしまった張本人はしきりに首をかしげていた。


「む? なぜか十一怪盗がイチズくんとチューしたがっているぞ?」

「アイ・ウォン・チュー違いですよ! それ!」

「仮面越しのチューとはなんと酔狂な」

「興奮しないでください! みっともない!」


 あんたはそのだらしのない顔をすこしは隠せ。

 嗚呼、でもこういうところ含め本当に僕はこの人のことが好きなんだよな。

 この人と一緒なら恋どころか地獄に落ちてもそこが天国になってしまう。

 それから僕はイレブンに向き直り首を横に振ってから差しだされたハートダイヤの片割れを拒否する。


「取り返しに来たんじゃないのかい?」


 そういえばそうなのだがこうもあっさりと差しだされるのはなんか違う気がした。癪に障るし探偵の助手としての魂を売る気がしたのだ。それにハートダイヤはふたつそろって初めてその真価を発揮する。

 さながら探偵と助手のように。

 結果不幸を招くこともあるかもしれないが、ふたりならきっと乗り越えられるはずだ。


「綺麗に半分こにはできないんだよ。それが心ってもんだろ?」

「そうさね」


 僕の言葉を受けてイレブンは差しだした手を所在なさげに引っ込めた。それから言う。


「Youはヒトじゃなくてハートダイヤば選ぶとやね」

「おい、泥棒のくせに方言つかうなよ」

「なにさ、泥棒差別?」

「ちげえよ。あいつの方言ことばを盗むなって言ってんだ」


 僕はイレブンをにらみつけた。

 これ以上ヒトから髪の毛一本たりとも奪わせてたまるか。

 それからイレブンは拗ねたようにハートダイヤを懐に仕舞うと一方のラブ子先輩は皮肉めいて言う。


「ふん。その様子ではいくら世紀の大怪盗でも人の心までは盗めなかったようだね」

「あはは。略奪愛上等さ」


 イレブンは透明な硝子のように綺麗な声で笑った。

 その言葉を聞いて度肝を抜かれたようにラブ子先輩は目を丸めたあと「なるほどだね」と頷いた。


「この世で名探偵と対等になれるのは真犯人だけ。つまりこの場合の名探偵とは……」


 独り言を呟いて僕を一瞥したのちラブ子先輩はイレブンの核心を突くように言った。


「十一怪盗、本当はきみは捕まえてほしいのではないのかね?」

「捕まえてほしい?」


 思わず僕はオウム返ししてしまった。

 捕まえられたいってなんだ? 逮捕されたいってことか?

 自分ではやめることができないから警察でも誰でもいいから止めてほしいという状態なのか。

 イレブンはあえて明言せずにラブ子先輩に問う。


「他人にとやかく言うけどYou、本当は誰かのことを本気で好きになったことないんじゃないのかい?」

「私は本気で人が好きだよ」

「人は好きだが個々人は好きじゃない。皆が好きということは裏を返せばみな平等に好きじゃないとも言える。好きという感情は相対的に突き抜けなければ心に作用しない。違うかい?」

「貴殿の恋愛観を押しつけられたくはないね」


 反論するラブ子先輩にイレブンは畳みかける。


「人類愛なんて歪んでる。77億人と恋するってYou実はスーパード淫乱だろ?」

「何を言われようと私は人を愛している。だからきみのことも愛しておるぞ」

「ボクはビッチが嫌いだ。美しくない」

「ずいぶんと嫌われたものだね」


 ラブ子先輩はけんもほろろにフラれた。

 しかし思えばラブ子先輩のここまでの人類愛はいったいどこからくるのだろうか。

 このふたりの違いを強いて挙げるとすればラブ子先輩は人類博愛主義者でイレブンは人類に無関心なのだろう。

 わかってた。

 ラブ子先輩は人類に恋してるのだ。恋愛対象は人類全体であり僕はそのひとりに過ぎない。

 人間賛歌ともいうべき人類への大恋愛劇。しかしそれは永遠に片思いなのかもしれない。

 だとすれば恋に恋して愛を愛する恋愛探偵とはなんと不憫な存在なのだろう。


「断言しよう。Youは恋できない」


 夢見がちなラブ子先輩に対してイレブンは現実を突きつける。


「Youは恋愛探偵なんかじゃない。恋愛障害者さ」

「…………」


 ラブ子先輩は珍しくなにも言い返さなかった。

 そう。意外とラブ子先輩はガラスのハートだったりするのだ。

 恋愛障害者。

 しかしなんてパワーワードを放ってくれるんだ。

 言われてばかりの恋愛探偵を前にして助手の僕が黙っていられるわけがなかった。


「おい、取り消せよ。今の言葉」

「は?」

「僕のことはなに言ってもいい。でもこの人のことを傷つけるのだけは許さない」

「なにさ、このベビーフェイス助手」

「好きに呼べよ」


 僕はただこの人に本気で惚れてるんだよ。


「その恋愛探偵がYouの思いに何を返してくれたのさ? 失望しないのかい?」

「ひとつ教えてやるよ。怪盗イレブン」


 僕は心からの思いを叫ぶ。


「愛は見返りを求めない、無償だからこそ愛なんだ!」


 見返りを求めることは不幸の始まりだ。他人に期待したら負けなんだ。そんなことを思う僕は冷たい人間なのかもしれない。

 するとイレブンはこんな問いかけをした。


「種には種それぞれの業があるものさ。ひまわりの種にいくら水をあげようと薔薇は咲かない。それでもYouは水をあげるのかい?」

「あげるよ。全部」


 血だってあげてやる。真っ赤な薔薇のように赤い血を。

 即答した僕にイレブンはダイヤの仮面を押さえながらやれやれと肩をすくめた。

 その硬い仮面の下でいったいどんな顔を浮かべているのか僕は知らない。


「いつまでそんなもん被ってるんだよ?」

「…………」

「もっとありのままの自分でいろよ」


 人間だれしも状況に応じたペルソナは持っているのかもしれないけど。

 素顔なんて最初からないに等しいかもしれないけど。

 だけど笑ってる顔はいつだって素敵なもののはずだろう?


「Youは青いのさ」


 イレブンは合唱曲を歌うように言った。


「ほんとう青すぎる。井の中の蛙のように青くて青くてただただ青い」

「それでいうなら僕が青いんじゃなくて空が青いんだと思うぜ」


 井の中の蛙は大海の青さを知らず、されど空の深さを知る。

 そして僕にとっての空とはあの人に他ならない。でもあの人は青というよりは桃色って感じだ。


「青は藍より出でて藍より青く、朱に交われば赤くなるってことか」


 イレブンは透明感のある声音でそう呟いた。

 この怪盗の言うとおりいつのまにか僕もあの人に染められているのだろう。

 だとすればこの場合は藍じゃなくて愛だと僕は思う。

 イレブンはダイヤの仮面にそっと手を添えた。


「それでもペルソナを被っているほうが素直になれることもあるのさ」


 それは切実なる仮面の告白だった。

 しかしやはり仮面をかぶっていては本心は伝わらない。

 そうだろ? 違うか?

 なあ? 


「僕の知ってるヒトを返せ! 怪盗イレブン!」

「それはできないね。ボクとヒトは二心同体だからさ」


 飄々と標準語で喋るイレブン。


「それに今度会うときには顔も声も別人になっているかもしれないからさ」


 そこで僕ははじめてイレブンの真の目的に気づいてしまった。


「怪盗イレブン、おまえまさか……十一つなしひとという人間をまるごと盗むつもりか?」

「さあ? ボクに盗めないのはYouの心くらいのものだからね。そしてボクを捕まえられるのはYouだけさ」


 王道一途。

 と、そんな虫歯になりそうなほど甘い口説き文句をイレブンが吐いた。その次の瞬間、バラララララパンッ! とけたたましい音が鳴った。かと思えば、ヘリコプターのヘッドライトと屋上のサーチライトが怪盗イレブンを照らし出した。ダイヤモンドの仮面がキラキラと光を乱反射させる。

 それから屋上の扉が蹴り開けられるとスーツ姿の女性が登場した。ライトとの明暗差によって顔までは視認できないが回転式拳銃のニューナンブM60を構えているところを見ると警察関係者だろう。


「観念しろ! 怪盗イレブン! おまえは完全に包囲されている!」


 ん? なんかどっかで聞いたことのある声だ。

 そう思いながら僕の目がしだいに明暗差に慣れてくると僕はその黒髪ショートカットの女性の顔をまじまじと見つめた。そしてなんと驚くべきことに僕はその女性に見覚えがあった。


「ケ、ケイさん?」

「イチズ、くん……?」


 それはヒトのもうひとりの母親であるケイさんだった。


「こんなところで何をしているの?」

「えーっと、それがですね。説明すると長くなりまして……」

「じゃああとでちゃんと説明して」

「……は、はい」


 なんか取り調べみたいな雰囲気でおっかねえ。

 というかどう考えてもまずいだろう、この状況。

 イレブンの正体をケイさんに知られるわけにはいかない。

 そんな苦心する僕とケイさんのやりとりを見てイレブンは茶化すように言う。


「ケイ警部。きみは年下が好みだったかな?」

「ふざけるな。私には愛する妻と息子がいる」


 息子のほうは今あなたの目の前にいるんですけどね……。

 しかしどうやらイレブンとケイさんはすでに相対したことがある様子だった。


「ならばケイ警部、こんな場所でこんなことをしていないで家庭に帰るがいいさ」

「できない。これが私の仕事だ」

「つまらない女だこと」

「黙れ。そもそもおまえがこんなことをしなければ――」

「家庭を顧みないのをボクのせいにするなよ。どうせ帰らないくせに」


 見透かされたように図星を突かれたケイさんは静かに目を閉じる。きっとまぶたの裏では家族を思い出しているのだろう。それからケイさんは目を開けると宣言した。


「今日という日はおまえを逮捕してやる」

「ふん。明日も同じことを言ってるさ」


 そう言ってイレブンは宝石で膨れた白い袋を肩に担ぎ、「おっとっと」と鉄柵の上でタップを踏む。


「動くな!」


 拳銃を構え直してから銃口を向けるケイさん。

 思わずぎょっとしてしまう僕にかまわずにケイさんは警告を続ける。


「おとなしく投降しろ! さもなければ撃つ!」

「撃てないだろ。むかし発砲して犯人を殺めてしまったトラウマ――もう忘れたのかい?」


 ケイさんにそんな過去があったとは僕は初耳だった。最近似たような話を聞いたおぼえのある僕はとある方向を見やる。八乙女さんも心が痛むような表情だった。

 しかし今はそれよりも最悪の事態を避けるほうが先決だ。


「ケイさん、お願いですからやめてください。僕からも頼みます」


 だって、今あなたが銃口を向けているのは……。

 しかしイレブンはなおも挑発するように続ける。


「しかもその犯人というのはケイ警部の妻の元恋人だった男さ」

「あれは……息子を守るために仕方なかった」

「息子を言い訳につかうなよ」


 イレブンのその言葉を聞いた瞬間、ケイさんは目を見開くと力のこもった手が小刻みに震える。依然として現場に緊張の走るなか、ケイさんは悔しげに拳銃を降ろした。


「クッ……!」


 そんなケイさんを見てイレブンは鼻で笑うと夜空の星を見上げた。


「こんな東の片隅になんかいられるか。ボクは自由なのさ」


 イレブンは大仰に手を広げてスペクタクルを演出する。


「この大空を飛ぶ白い鳥のようにね!」


 その次の瞬間、イレブンは地上三300メートルオーバーの屋上から後ろに倒れ込むように飛び降りた。現場の誰もが息を飲んだまさにそのとき、ブゥウオンと唸り声が聞こえたかと思えばイレブンはなんと空に浮かんでいた。


「見て驚け。これはボク自慢の愛車白鷺。早い話が光学迷彩搭載の空飛ぶバイクなのさ」


 イレブンがコックピットを操作し光学迷彩を解除すると白い車体とともにshirosagi11と刻印された文字が浮き上がった。一般的なバイクのタイヤとは違い、地面に対してタイヤが水平を保っており中のプロペラ構造の車輪が高速回転してドローンのように浮力を得ているようである。しかし動力源は電気ではなく通常のバイクと同じガソリンエンジンらしい。


「グッド・バイ! 警察諸君!」


 イレブンが右手のアクセルを回して逃亡しようとしたそのとき、僕の体は勝手に動いていた。


「待て! イレブン!」

「何をする気かね? イチズくん!」


 そんなラブ子先輩の声を無視して僕は鉄柵を踏み込んでから大股でジャンプするとイレブンのライダースーツの足に掴まった。


「な、なにをするのさ!?」


 さすがのイレブンも予想外だったとばかりに驚きの声を上げ、シロサギの車体が大きく揺れる。


「死にたいのか?」

「ハートダイヤを返せ! 泥棒!」

「ボクは怪盗だ!」


 必死の形相で追いすがる僕にイレブンは慌てふためきつつ、さらに浮上して屋上に寄ろうとするが行く手には警察のヘリコプターが邪魔をしてうまく近づけない。そして次の瞬間、強風に煽られたヘリコプターがバランスを崩してシロサギに急接近した。バラバラバラ! と高速回転するプロペラがコマ送りのようなスローモーションに見え僕の首をかすめた。

 プロペラが残り数十センチに迫ったところで。


「しっかり掴まってるのさっ!」


 シロサギが一回転宙返りすると危機一髪文字どおりの首の皮一枚でかわした。あわや僕は首チョンパされるところだった。しかし一難去ってまた一難。


「もう限界……無理」


 そうこうしているうちに僕の握力が限界に達した。ライダースーツは撥水性に優れツルツルとよく滑るため僕はずり落ちる。イレブンの細い足首からくるぶし、つま先へとじょじょに下がっていき、ついに僕の手が離れてしまった。


「イチズくん、あぶないっ!」


 そんな桃色の声が鼓膜を揺らした――その次の瞬間、僕は真っ逆さまに落ちる。

 

 ――はずだった。


 しかし現実は地面に落ちるのではなくビルに落ちた。ビターンと顔面を打ちつけてからブラーンブラーンと宙を漂う。何が起こったのかといえば鉄柵に乗り出したラブ子先輩と八乙女さんが僕の足首を片一方ずつ掴み、そのふたりをケイさんがひっぱり、そのケイさんをイヌタクがひっぱるというおおきなかぶ方式だった。世界が反転すると空からビル群が生えており地面には星の散らばる宇宙が広がっていた。全身から力が抜けて脱力する。

 ちょーちょーちょー怖え。

 そんな僕を見てイレブンは呆れたようにため息を吐いた。


「勘違いするな。今日ボクは宝石を盗みにきただけさ。命を奪いに来たわけじゃない」


 言い訳っぽく言ってから今度こそ最後だというふうにイレブンは二本指を立てて手を振った。


「バイバイ」


 そのままイレブンはシロサギを急旋回させて尾翼のジェットエンジンを吹かすと流線型のテールライトが宝石のような夜景の街を縦横無尽に飛び去っていく。現実その過程で白い宝石袋からカラフルな宝石がキラキラとこぼれていた。

 その日、東京の街に宝石が降った。

 後日、どこのニュース番組でも取り上げられるとその衝撃は日本に留まらず世界的なニュースになった。ケガ人も多数出たがどういうわけか文句を言う者はいなかった。むしろ運が良かったと感謝している人ばかりだ。しかしその裏で傷害事件や事故の発生率が急増したことは言うまでもないが些細なことだった。ホームレスのなかで一攫千金を成し遂げた人もいるらしくそれに続けとばかりにあちこちで宝探しが始まりジオキャッシングの気運が高まっている。

 一方でニュースの発端となったイレブンは追跡するパトカーや交通機動隊の白バイをかるがる振り切った。残りのヘリコプターをレインボーブリッジに誘い込み、あらかじめ張ってあった怪盗の七つ道具がひとつナノマテリアルワイヤーの『カタナノ』で一刀両断にして東京湾に沈めた。そののちイレブンは夜の羽田空港方面に消えたという。逃走経路の確保の抜かりなさはさすがと言わざるを得ない。

 しかしこのときの僕はそんなことまで頭が回っておらずただただ高所恐怖に支配されていた。


「ひ、ひい! た、たすけ……て」

「イチ、ズくん……! いま引き上げるぞ!」

「王道くん、じっとしていなさい!」


 こうして僕は探偵ふたりと警部とイヌ型ロボットに無事に引き上げられた。まるで水揚げされたマグロの気分である。

 な、情けねえ。

 もしも願い叶うならば逆の構図がよかった。

 そして引き上げてからのラブ子先輩の第一声。


「この大馬鹿者!」

「面目次第もございません」


 僕は屋上で土下座した。


「イレブンを取り逃がしたあげくラブ子先輩のご両親の大切なハートダイヤまで――」

「このおおおおおお大大大馬鹿者! 私がそんなことで激怒していると本気で思っておるのかね! 見くびるな!」

「え?」


 ではなぜラブ子先輩は怒っているのだろう。


「あんなチンケな宝石よりきみの命のほうが百億倍も大切に決まっておろうが!」

「あ……ありがとうございます?」

「どういたしまして!」


 ラブ子先輩は激おこプンプン丸なご様子でそう返した。

 一見強い語調ながらも、しかしその目にはダイヤのような涙がにじんでいた。


「私の目の前で、もう誰も……」


 僕はラブ子先輩が名探偵をやめた理由を思い出した。この人はこの歳にしてたくさんの人の死に触れてきたのだ。

 もしかしたら僕は怪盗イレブンに乗せられてしまっていたのかもしれない。おそらくいちばん宝石の魔力に取り憑かれていたのは怪盗ではなく僕だったのだろう。もっと大切なものが目の前にあったのに。それに気づかないどころか大切な人を泣かせてしまうなんて僕は助手失格だ。


「僕のことで泣かないでください。僕よりもラブ子先輩のほうが百億倍も大事です」

「そういう奴ほど先に私の前からいなくなってしまうのだよ」

「僕は死にませんよ。約束します」

「言うたね?」

「はい。言いました。ですからラブ子先輩も僕よりどうか長生きしてください」

「私がそれを約束すればふたりとも永遠に生きてしまうではないかね」


 ラブ子先輩の言うとおりとんだチキンレースだった。


「まったく、このをこなりめ」

「を、をこなり……?」

「フフフ。馬鹿だと言ったのだ」


 そう言ってやっとラブ子先輩は笑った。

 それからラブ子先輩は呆れながらも一瞬間を置いてから了承した。


「だが、あいわかった。約束しよう」


 こうして僕たちはどちらかが約束を破る約束をして、どちらかが約束を守る約束をした。

 やっと現場の緊張が緩和したところで八乙女さんがクールに言い含める。


「王道くん、死ぬほど猛省しなさい」

「はい。八乙女さん、そしてケイさんも命を救っていただいて本当に感謝してます」


 僕の下げた頭にイヌタクは前足でお手をした。


「それで王道くん、イレブンとはどういう関係なのかしら? 説明してくれるわよね?」


 笑顔ながらも言外に威圧する八乙女さん。


「いやそれが僕もまだいろいろと飲み込めてなくてですね……」

「ふうん、そう。私はまだ探偵として信用されていないってことね」

「いやそういうわけじゃ!」


 だけどイレブンの正体をケイさんの前で言えるわけがない。

 それでも僕に言えることがあるとすればひとつだけだ。


「怪盗イレブンは僕にしか捕まえられないんです」


 その僕の答えに八乙女さんが驚く横でケイさんはどこかうれしそうに微笑んだ。


「警察を前にしていうな、少年」

「いや他意はないんですけど……」


 具合の悪い僕は話題を逸らすためにキョロキョロとオーバーに辺りを見回す仕草をした。


「というか本物のハットリ店長はいずこに?」

「それならイチズくん、おそらくエレベーターのなかに身ぐるみを剥がされた状態の本物のハットリ店長がおるはずだ」


 ラブ子先輩の言うとおり僕がエレベーターのなかを確認すると口をガムテープで塞がれ手足をふん縛られた半裸のハットリ店長を発見した。すぐさま僕はうなる店長からガムテープを剥がして拘束を解く。


「怖かったですよー。イチズ氏」


 涙を流すハットリ店長に僕は自身の学ランを羽織らせる。

 そりゃ拘束されたまま停電したエレベーターに乗ってたら怖いだろうけど僕にくっつくな。


「でもそうなるとハットリ店長に変装したイレブンはどうやって生体認証を突破したんでしょうか?」

「そんなもの始めから入れ替わっていたのだろう。奴は変装の達人なんだぞ」


 ケイさんは当然だというように腕を組む。


「いいや、十警部それは違う」

「なに?」

「ハットリ店長はイチズくんの名前を知っていたのだよ」


 あごに手を当てて記憶を辿るラブ子先輩。そして懐からホワイトロリータを取り出して個包装

 を剥いた。どうやら推理モードに突入したようだ。


「イチズくんは本来今日このビルの中に招待されていない人間にもかかわらず、だ」

「ということは僕は本物のハットリ店長と会っている。そのあとイレブンがハットリ店長と途中で入れ替わってことですか?」

「うむ。そうなるな」

「でも入れ替わるタイミングなんてありましたかね」

「入れ替わるとすればあそこしかありえんだろう」


 ラブ子先輩が断言すると八乙女さんが答えた。


「監視室で着信が入り途中退席したときね」

「うむ。マコトくんの言うとおり。十一怪盗はハットリ店長を拘束あるいは脅迫してから解除鍵としたのだ。そしてなんなく展示室に盗みに入り扉になにかしらを噛ませ、最悪じぶんが閉じ込められたとしても力ずくで脱出できるように細工した。そのあとハットリ店長を上下駕篭かごに詰め、屋上に到達すると停電する仕掛けを発動させたのだね」

「なるほど」


 そのときにオシコちゃんを上下駕篭、つまりはエレベーター内からフロアに出したのか。イレブンからすればオシコちゃんというエレベーターの守護神を排除しておきたかったのだろう。それから僕たちがAルームに到着するまでBルームに隠れており停電する前に退室すればいい。

 とそこでラブ子先輩は小首をひねる。


「しかし問題は警戒状態だ」

「警戒モード?」

「うむ。私たちが到着したときA部屋は警戒状態が解かれ展示状態に設定されておった。一方のB部屋は警戒状態のままだったのだ」

「たしかに。そういえば僕たちがAルームと勘違いして観ていたBルームの監視カメラの映像にはレーザートラップが張り巡らされていましたね」


 ヒトの身体能力的には平均より低いはずなのだがどういうわけか怪盗イレブン時には底上げされているらしく、猫のようにしなやかな動きでレーザートラップをすり抜けたのちハートダイヤを盗んだのだろう。常人には到底不可能な芸当である。


「ならばなぜA部屋とB部屋で警戒状態と展示状態の差がでたのか。気持ち悪いとは思わんかね?」

「それはイレブンに聞かなきゃわからないですよ」

「そしてもうひとつ。35階の監視撮影機を乗っ取りA部屋とB部屋の映像を差し替えたのはいったい誰なのかだね」

「え? イレブンじゃないんですか?」


 てっきり僕はイレブンが変装して事前に潜入し仕込んでいたと思っていたが……。

 どうやらラブ子先輩の見立てによれば違うらしい。

 彼女の目にはいったい何が視えているのだろうか。


「それができた人間、ずばりそれは――」


 そう言ってラブ子先輩は真犯人に向かってホワイトロリータの切っ先を突きつけた。


「ハットリ店長、きみだね」


 そのホワイトロリータの先ではいつの間にか拘束を解いていたハットリ店長が抜き足差し足忍び足で今まさに屋上の扉に手を掛けているところだった。ギクッと肩を跳ねさせてからハットリ店長は往生際悪く逃亡を試みる。


「イヌタク! ゆけ!」


 ラブ子先輩が命令するとロボドッグがその声に反応してハットリ店長のお尻に噛みつき、あえなく御用となった。

 あれ、超痛いからな。

 ケイさんに手錠を掛けられしょんぼりするハットリ店長はラブ子先輩に文句を垂れる。


「食べ物で人を指さないでいただきたい」

「犯人は皆そう言うよ」


 確信的に言ってラブ子先輩はホワイトロリータをガシッと齧った。

 しかし実際問題、行儀が悪いんだから仮に犯人じゃなくてもそう言うだろう。

 まあそれはさておき。


「ハットリ店長が真犯人ってどういうことなんですか? ラブ子先輩」

「それは本人の口から説明して貰ったほうがはやかろう」


 その場の全員が注目するなか諦めたようにハットリ店長は自供した。


「わたくしはただ愛しいハートダイヤを愛していただけなのです。毎日まいにち見れば見るほど逢って話しをするほどにわたくしの心は惹かれていきました」

「これって宝石の話よね?」

「マコトくん、恋愛は自由なのだよ」


 困惑する八乙女さんになぜかラブ子先輩は自慢げに言った。それにハットリ店長はうなずく。


「そのうちあの狭い箱から解放して自由にしてあげたい。自分の手の中に収めたいという衝動が抑えきれなくなったのです」


 しかし今日はじめて見たばかりの僕でさえすっかり魅了されていたのだからそれが毎日続けばこのハットリ店長のように偏執的になってしまってもなんら不思議ではないのかもしれない。


「わたくしがフェイク着信を利用して監視室を出てからAルームのミス・ハートダイヤの半身を自由にして差し上げたのちに現れたのです。あの忌々しい怪盗イレブンが」


 それから一転してハットリ店長はホトケ顔から別人のように顔を歪める。


「わたくしがAルームの前でイレブンと鉢合せると気絶させられた挙げ句ミス・ハートダイヤの半身を奪われてしまいました。あとは先ほど推理されたとおりです」

「え、でもハットリ店長は気絶させられたんですよね? その場合声紋はどうするんですか?」

「忘れたのかね? 声帯模写は十一怪盗の十八番のひとつだ」


 ラブ子先輩に言われて僕はハッとした。


「ということはハットリ店長の計画をイレブンに逆に利用……いや、盗まれたってことですか」

「悔しながら」

「悔しがらないでください。あんたら同じ穴の狢じゃないですか」

「イチズ氏、なんてことを。わたくしとあの怪盗を一緒にしないでいただきたい。愛の重さが違うのです!」


 つばを飛ばして反論するハットリ店長は続けて種明かしをする。


「しかしわたくしも馬鹿じゃありません。こんなこともあろうかとミス・ハートダイヤをあらかじめ用意していた贋作とすり替えていたのです」

「は? ってことは本物は今どこに?」

「隠し持っています」


 堂々と言うが、しかし現在ハットリ店長は僕の学ランを除けばブリーフ一丁である。


「ま、まさかブリーフの中に?」

「そんな失礼なことわたくしがするとでも!」

「しそうだから言っています」

「失敬な! そんなことするわけないでしょう。わたくしはただミス・ハートダイヤを飲み込んだだけですよ」

「どっちもどっちだよ!」


 僕が全力でツッコむ横でケイさんがハットリ店長に腹ボンを食らわすと「はうっ!」と唸ってからハットリ店長の口からハートダイヤの片割れがキラキラと吐瀉された。絵面の汚さをハートダイヤの美しさが見事に相殺しており奇妙な絵画のようである。

 そしてあとから聞けば犯行声明文をメディアにリークしたのもハットリ店長だった。怪盗イレブンに罪を被せて自分がハートダイヤを持ち逃げする算段だったのだという。しかし皮肉なことにこの盗人のおかげでハートダイヤの片割れは死守できたのも事実だ。


 とそこで当然の疑問が湧き上がる。

 イレブンはハットリ店長が本物と偽物のハートダイヤをすり替えていたことに気づいていたのだろうか。気づいていたとすればなぜ店長から盗らなかった? そしてイレブンが僕に差しだしたハートダイヤの片割れは本物のほうだったのか偽物のほうだったのか。

 それはイレブンの気持ち次第ということになってしまうのだろう。すべてはイレブンの手のひらの上で踊らされていたってわけか。やつがハットリ店長の計画を知っていたのだとすればあやうく探偵役すら盗まれるところだったのだから。

 イレブンがハートダイヤをそろって持っていたときに僕が違和感を覚えたのは二つのうちひとつが偽物だったからだ。そしておそらくふたつともそろってイレブンが盗んでいれば途轍もない不幸に見舞われ無事では済まなかっただろう。僕の首も吹っ飛んでいたかもしれない。

 ともあれハートダイヤの半分は盗まれてしまったがこれにて事件は終わった。


「宝は盗まれてしまったがイチズくんの心が無事ならそれでよしとしようじゃないかね」


 ラブ子先輩は高らかにそう締めくくった。


「どこがよしなのよ。実質の敗北宣言じゃない」

「あのハートダイヤは離れて持っておくものなのだよ。またいつか逢うためにね」


 そんなラブ子先輩を見て八乙女さんは仕方なさそうに嘆息した。


「今日の一件で確信した。やっぱりあなたは探偵がお似合いだわ」

「私は探偵なんて物騒なものじゃないよ。私は恋の匂いに誘われる恋愛探偵。血の匂いに誘われる普通の探偵なんかと一緒にしないでくれたまえ」

「ラブ子、あなたは口調は一丁前のくせに実はただの恋愛馬鹿よね」

「なぬを!? 最高の褒め言葉じゃないかね!」

「……前言撤回。やっぱりあなたみたいな馬鹿に探偵なんてできっこないわ」

「なんか業腹な言い方だね」


 複雑なリアクションのラブ子先輩を無視してから八乙女さんは僕に向いた。


「今回の事件を通じて思ったのだけれど、案外探偵協会に勧誘すべきはあなたのほうかもしれないわね」

「はい?」

「まんざらでもないって顔ね?」

「そんな馬鹿な。僕なんてただのしがない助手ですよ」

「そうかしら。あなた、探偵としての才能あると思うわよ」


 そんなこと僕は生まれて初めて言われた。そして今後一生言われることもないだろう。


「恋愛馬鹿のもとで恋の迷宮を彷徨うのはさぞかしつらいんじゃないかしら?」

「それは……」

「私の助手は渡さんぞ!」


 とそこでラブ子ガードが発動された。


「イチズくんは探偵にはさせんよ、絶対にね」


 そう言うラブ子先輩からは確固とした意志が感じられた。

 何にせよ恋愛探偵にこう言われてしまえば僕はこう答えるほかない。


「すみません、八乙女さん。せっかくのお誘いですけど丁重にお断りします」


 まあもともと僕は探偵って柄じゃないしな。


「そう。口説き失敗のようね」


 八乙女さんは取り澄ましたように微笑むとラブ子先輩は話をそらすように大きな声を出す。


「そんなことより競争の件なのだがね!」

「すっかり忘れていたわ」

「僕もです」

「忘れるでないわ! お袋の味くらいにね!」


 幼い頃に両親を亡くしたラブ子先輩が言うと説得力がすごいのでこんな場面でそのセリフを使わないでほしい。


「で、どうするのよ?」

「ではまずは勝利条件をおさらいしよう。マコトくんが勝利すればイチズくんを助手にする。私が勝利すればマコトくんは恋愛探偵部に入部する――だったね」

「そうだったわね」

「ということでマコトくん、恋愛探偵部に入りたまえ!」

「……あなた、別に勝ってないでしょう? ハートダイヤは半分盗まれたのだから」

「それはきみも同じだろう。いずれは菖蒲か杜若。だからマコトくんには半分の負け分として探偵協会と恋愛探偵部を掛け持ちしてもらう。恋愛探偵部ならばイチズくんも助手として働いてくれるだろう」

「なるほど。それで私の勝利条件も便宜上は満たされるというわけね」


 しかし八乙女さんはこの取り引きに合意しないだろう。なぜなら僕をこき使えるからといってそんなの八乙女さんからすれば大したメリットにもならないからだ。

 新たな部員(本物の探偵)を確保する絶好の機会だったが儚く消えそうだ。

 そう思っていたのだけど、しかし僕の推理は気持ちいいくらいに裏切られた。


「わかったわ」


 八乙女さんは大きく頷いた。


「私もレン、アイ……探偵部に入部するわ」


 言いたくなさそうだなぁ。

 加入して一年経つ僕でも名乗りたくないからな。

 ともあれ、こうして恋愛探偵部は合計三名になり存続が決定することになった。

 ラブ子先輩は自慢の秘密基地に招くように手を差し出した。


「ようこそ。我が恋愛探偵部へ」


               ***


 タワー型宝石店ジュエリーシスターズは一時入店制限が設けられると警察関係者が大挙して現場検証が行われていた。そんななか双子を肩車したロックが屋上に到着した。双子の青いほうは相変わらずVRヘッドセットを嵌めて現実逃避しており、もう片方の赤いほうは屋上の空っ風によって目覚めた。


「ムニャムニャ……あれ?」


 アカは寝ぼけ眼をこすってから思いだしたかのように言った。


「そうだ! 怪盗イレブンは?」

「逃走したよ」


 僕はありのままを答えた。


「そっか。で、かんじんのハートダイヤは?」

「片方は守ったけどもう片方が……」


 僕は申し訳なく思いながらも事の顛末を依頼者に語って聞かせた。


「そう。ハットリのやつが……。ジュエリーフォリアが仇になったみたいね」

「性癖のこと知ってたんだな」

「まあね。とはいえイレブンからはんぶん守り切ったのならプロモーションとしてはじゅうぶんじゅうぶん」


 アカは早々に切り替えてから伸びをするとロックが全員に向けてこんなものを差しだした。


「ちなみにですがBルームの扉にはこんなものが挟まっておりました」


 それは一枚の紙切れであり一言だけ添えられていた。


『お宝はいただいた。怪盗イレブン』


 律儀にもダイヤの仮面のマーク入りである。

 その盗難完了状を見つめながら八乙女さんは悔しそうに唇を噛む。


「こんな体たらくではとてもじゃないけれど謝礼は受け取れないわ。探偵協会所属の探偵として謹んでお詫びするわ」

「ふーん、おわびなんて一銭にもならないからいらない。代わりにさ、あちしとRAIN交換しーましょ?」

「レイン?」


 アカの提案に八乙女は声を曇らせる。


「レイン。何かの暗号かしら……?」

「へ?」

「レイン……雨……飴……の交換?」


 探偵の推理癖があらぬ方向に発揮されてドツボにはまっていた。しかしいずれにせよ、八乙女さんのガラケーはぶっ壊れていたのでRAIN交換はできなかっただろう。

 するとすかさずコミュ力オバケである恋愛探偵が横槍を入れた。


「ならば私がマコトくんの代わりに時雨しぐれを交換しようではないかね」


 時雨とはおそらくRAINのことだろう。


「えーなんで第二ジョシュなんかとRAINを交換しないといけないわけー?」

「誰が第二助手だ!」


 ラブ子先輩の活躍を知らないアカはつべこべ言いながらも友達にはなったようだ。こうやって友達の輪が広がっていくのだろう。これはこれでプライスレスな関係だった。

 さっそくアカにRAINスタンプを爆押しして即ブロックされ暴れているラブ子先輩を横目に八乙女さんは踵を返した。そして僕にも聞こえるか聞こえないかくらいの声量でささやく。


「おかえりなさい。名探偵」

「八乙女さん、どこ行くんですか?」

「携帯キャリアショップでガラケーを契約するのよ」

「……せっかくのいい機会なんですからスマホに変えればいいのに」

「あんな画面をタッチしたら反応する機械なんかと一緒にいられないわ。気持ち悪い」

「スマホは別に殺人鬼じゃありませんよ?」


 無闇に死亡フラグを立てないでほしい。


「そうなの? 私は所持すると誹謗中傷に遭って自殺に追い込まれると聞いたけれど?」

「否定は難しいですね」


 僕は苦笑した。

 するとそれから事件のないところに自分の居場所はないというふうに探偵は去ってゆく。


「また会いましょう、助手さん」


 何か吹っ切れたようなその背中を僕が見送っているとカッコイイ警部に声を掛けられた。


「イチズくん、怪我はないか?」

「はい。おかげさまで」

「きみに怪我をされると困る」

「どうしてですか?」

「私がヒトに怒られる」

「ぷっ」

「笑うな」

「……すみません」


 それからケイさんはかしこまったように親として言う。


「ヒトと友達になってくれてありがとう。しばらく会えなくなるだろうけどこれからも仲良くしてやって」

「?」


 しばらく会えなくなるとはどういう意味だろうか?


「やはり言ってなかったか、ヒトのやつめ」


 そう言ってケイさんはバツの悪そうな顔になったのち意を決したように口を開いた。


「実はね、ヒトは――」


 その次の言葉を聞いた瞬間、僕は駆けだしてエレベーターに飛び乗っていた。扉が閉まる直前ケイさんも間一髪で追いつくうしろでラブ子先輩が目を丸めていたがそれよりも優先事項だった。ケイさんの運転するパトカーに乗せてもらうとパトランプを鳴らして国道沿いをかっ飛ばす。完全に職権乱用だが緊急を要するので仕方ない。そして目的地である羽田空港に無事到着したのだが、しかしギリギリ間に合わず僕はフェンスを握りしめた。すでに飛行機は夜空に飛び立ったあとだった。

 屋上でケイさんが言い放った言葉が頭の中を何度も巡る。


『実はね、ヒトは外国に留学するの。そしてその飛行機は今夜発つ』


 ゴールデンウィ―クに立て込んでいた秘密とはこういうことだったのだ。

 幼なじみの親友なのに水臭いじゃないかよ。

 ケイさんは物悲しそうに夜空の衝突防止灯を眺めていた。


「いつもこうなる。学校行事や誕生日にもいつも間に合わない」

「ぜんぶ犯罪者たち、今日でいえばイレブンのせいですよ」


 あの怪盗に最後の最後で親友を見送る機会を盗まれてしまった。

 昔からこんなときは僕はヒトの肩を持っていたが今回はケイさんと同じ気持ちだった。


「息子の見送りより仕事を優先するなんて母親失格よね」

「いいえ、素敵ですよ」

「ありがとう。お世辞でも」


 ケイさんは弱音を吐くようにお礼を言った。


「それはそうとイチズくんから頼まれていた例の物を渡しておく」


 そう言ってケイさんはパトカーのグローブボックスから大きな封筒を取り出して僕に手渡す。


「ありがとうございます」


 僕が受け取ろうとするとサッとケイさんは引いて釘を刺した。


「もし外部にこのことを漏らしたらどうなるかわかる?」

「はい。読んだらすぐ燃やします」

「よくできました」


 にやりと大人の笑顔を見せつけるケイさんから僕は封筒を受け取り中身の書類をあらためた。そこには僕の認識している情報と食い違う内容が記されていた。


「十年前の夫婦焼身心中事件なんて調べてどうするつもり?」

「ちょっと気になることがありまして」

「そうか」


 僕にとってはありがたいことにケイさんはそれ以上突っ込まなかった。その代わりにこんなことを言う。


「それにしてもあれは印象深い事件だった」

「え? ケイさん、この事件を知ってるんですか?」

「ああ、この事件の担当刑事は私だったからな」

「マジですか」


 僕が驚いているとケイさんは当時を反駁するようにそらんじる。


「被害者夫婦の一人娘である恋泉ラブ子は事件当日、英語教室に顔を出しておらず行方知れずだった」

「じゃあラブ子先輩はどこにいたんですか?」

「わからない。ただ事件後、キャットベッドに乗せた飼い猫と一緒にカフェの前で煤まみれの状態で発見され保護されている」


 ということは事件発生時、ラブ子先輩は店内にいた可能性がある……ってことか?


「そもそもの火災の原因は何なんですか?」

「鎮火後、現場検証した鑑識によればアルコール類に引火したとのことだ」

「アルコール?」

「なにぶん全焼したために断定はできないそうだが……。そしてカフェの焼け跡からくだんのハートダイヤが発見されたというわけだ」

「たしかハートダイヤを保管していた金庫には開けられた形跡があったんですよね」

「そうだ。おそらく恋泉夫妻は最期にハートダイヤを目に収めておきたかったのかもな」

「そういうものなんですかね」


 僕は消化不良に思いながらももうひとつだけどうしても聞かなければならないことがある。


「警察はなぜラブ子先輩のご両親の死因を自殺だと判断したんですか?」

「警察が自殺と判断した理由、それはふたつのティーセットの紅茶からベンゾジアゼピンやチオペンタールなどといった薬物が検出されたからだ。あーそれとマタタビと似た成分も検出されたらしいな」

「マタタビと似た成分……?」


 つい最近どこかで聞いた覚えのある単語だった。

 しかしなるほど……薬物使用の痕跡があったので事故ではなく自殺という以前九十九会長から聞いたものと同じ見解なのか。


「それにしても安直すぎませんか?」

「私もそう思ったが現場には争った形跡もなく店の鍵は内側から閉められており密室だった。

 換気ダクトもあるにはあるが到底通れん」


 争った形跡もなにも全焼したんだからわからないと思うのだが……。まああまりケイさんは推理とかするタイプじゃないしな。この人は素直すぎるのだ。


「ちなみに奥さんのほうはドアの近くで息絶えていたそうだ。煙で息が苦しくなり思わず外に逃げようとしたが間に合わなかったのだろう」


 想像するだけで胸が苦しくなる光景だった。


「しかしひとつ気になるのは店主のほうが洗面台のちかくで息絶えていたことだ」

「なぜ洗面台の近くなんかに……」


 心中ならばふつう近くに身を寄せ合うものではないのか。

 妙な引っかかりを僕はおぼえながらも重要書類を仕舞おうとしたところで気づく。


「僕のバッグ、手荷物検査で没収されたままだ」


 しかし幸いなことにスマホはポケットに入れていたのでパトカーに乗りこみ確認するとラブ子先輩からRAINが入っていた。その内容は『人妻警部との逃避行の件は後日くわしく説明しろ』とのこと。

 何かとんでもない勘違いをされている気がする。実際そうだったとして親友の母親とそういう関係って複雑すぎるだろ。ちなみにラブ子先輩のほうはといえば探偵協会から派遣された送迎車で帰宅したらしい。

 とそこでケイさんはどこか色っぽい口調で言う。


「それと今日は遅いから――」

「は、はい!」


 なぜか心臓がバクバクしてしまう僕。

 大人の女性の香水の漂う車内でそれからケイさんは甘く睦言のように囁いた。


「明日、事情聴取するから署まで来てもらっていい?」

「……は、はい」


 僕の心臓はシュンと萎んだ。

 ラブ子先輩のせいで変な期待をしてしまったじゃないか。

 後日、僕は学校を休んでから事情聴取を受けたあとRAINの通話をコールした。荷ほどきとかもろもろ忙しいだろうが関係あるか。今すぐおまえの声が聞きたいんだ。

 遠く離れた異国の地でも無事電波は繋がり通話は開始された。僕は恐る恐る問う。


「ヒト……なのか?」

「なんばいいよらすと? そっちから掛けてきたとやろうもん」

「だ、だよな」


 僕はそのヒトの声を聞いて心底安心した。


「でも僕がなんで電話かけてきたかわかるよな?」

「ごめんさごめん」


 ヒトは茶目っ気まじりに謝った。


「イチに言う勇気のなかったとよ。心配かけとうなかったけん」


 心配なんていくらでもかけてくれていいのに。


「うんにゃ……そいもかっこつけた言い方たいね。ただボクは自分探しの旅ちゅうか、新たな自分ば発見したかと。ちゃんと自分と向き合うために必要なことやけん」

「そっか」


 こいつも心のどこかで自分のシャドウに薄々感づいているのだろう。そして僕が気づいていることにも気づいているはずだ。ならば僕の答えは決まっていた。


「ヒトの信じた道なら僕も一緒に応援するよ」

「……イチ」

「だからくれぐれも体には気をつけてな。ほどほどにがんばれよ」

「うん! がばいがんばるけんね!」


 僕の言うことを聞いているんだかいないんだかわからないくらい元気に答えるヒトだった。

 そこで僕はヒトにいちばん気になっていることを訊いた。


「つーか、おまえ今どこにいんだよ」

「え? ロンドンばってん」

「おいおい。魔法使いにでもなるつもりかよ」

「まあね。イチばピンクの子ブタに変えちゃろうかと思ったっちゃん」

「なんでだよ!」


 悪いほうの魔法使いになってんじゃねえか。

 どんな留学理由だよ。


「あのさ……ヒト、昨日のことって憶えてるか?」


 僕はつい不自然な質問をしてしまう。そして何の気なしにふと広場の噴水時計を見やると時刻は11時11分を示していた。


「もしもし、ヒト?」


 僕の呼びかけに無言が続くと通話口の向こう側では貝殻を耳に当てたように静まりかえる。5、6,7,8、9、10秒。将棋の秒読みのように張り詰めた空気が流れる。そして無言電話になってからちょうど11秒経過した――次の瞬間、スピーカーの声がおどけたような透明感のある女性のものに様変わりしていた。


「ハロー、子ブタちゃん。呼んだ?」

「呼んでねえよ」


 僕はイラつきながらスマホのマイクに吐き捨てる。

 というかこいつ電話にも出てくるのかよ。


「そこを動くな。今すぐ捕まえに行ってやる」

「あはは。来れるもんなら来てみれば?」


 輪をかけて挑発するように怪盗イレブンは言った。


「王道一途に捕まえられる日をボクは心待ちにしているよ」

「ああ。覚悟して待っとけ。たとえ地球の裏側に逃げたって、ヒトの心の内側に逃げたってぜったい捕まえてやるからな」

「Yes。ずっと待ってるさ。ボクも、ヒトもね」


 そう言い残してからきっちり11秒間の通話が終わり、またしばしの無言が続くと、いつも通りのヒトの声がする。


「あれ……なんの話しとったっけ?」

「たいした話じゃないよ」


 僕はせいいっぱい誤魔化した。


「だいぶと時差ボケで疲れてるみたいだな」

「あはは。そやね」

「悪いな。そんなときに電話しちまって」

「よかよ。イチのおかげで元気でたけん。サンキューくさ」


 それから別れの言葉を短くお互いに口にしてRAIN通話は終わった。

 僕は幼なじみがどこか遠くに行ってしまった気がした。空を見上げると陽気な春の日にはぴったりの飛行機雲が浮かんでいる。二本線が真っ直ぐと線路のようにのびており僕はどこまでも走っていける気がした。果たしてロンドンの空にはどんな雲が浮かんでいるのだろうか。

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