同日の放課後、僕とラブ子先輩はさっそく調査を始めた。手始めにラブ子先輩のツテで佐藤汐さとうしおという三年の女生徒からラブキャットをあっさり入手する。ラブ子先輩は校内では有名人かつ交友関係も広いので顔が利くのだ。廊下に西日が差し込むなか怪しさ満点の取り引きは無事に行われた。それにしてもかなりフラットな感じでやり取りされているようで僕は驚く。


「本当にラフな感じで出回ってるんですね。ちょっと引いてます」

「健全な状態ではないね」

「ええ。それにしてもくれって言ってあっさりくれるもんなんですね」


 これもラブ子先輩の人徳か。


「交換条件を提示されたので無償ではないがね」

「というと?」

「その条件というのが想い人への代筆だ」

「……代筆」

「平たく言えば恋文の代筆だね」


 恋愛探偵にはそんな依頼もあるんだな。

 しかしその件に関しては僕は何もできそうにない。

 依頼者の佐藤汐は黒髪ポニーテールで女子のなかでは身長高めなほうだが、それ以外は至って 真面目そうな生徒に見えた。そんな彼女がなぜ薬物なんかに手を出すのか。

 するとラブ子先輩は佐藤が依頼してきた経緯を話す。


「佐藤くんは数ヶ月前から深刻ないじめに遭っていたらしい。しかもつらいことにその当時付き合っていた彼氏をそのいじめっ子に取られてしまったのだね」

「エグいっすね。そういう話って現実にもあるんですね」

「うむ。本気で好き同士ならとやかく言わんし、いじめとは切り離して考えるべきだがね。佐藤くんに精神的苦痛を与えるためだけに恋愛を利用しているのだとすれば万死に値する」

「怒るポイントそこですか?」


 まあいつも通りのラブ子先輩か。

 この人は恋愛に対しては真摯なのだ。


「だが惚れ薬が流行りこの恋愛疑心暗鬼に突入してからいじめっ子とその元彼が別れたのだというのだ」

「へえ、ざまあないですね」


 所詮はその程度の気持ちだったってことだ。やはり佐藤汐への嫌がらせだったのだろう。

 にもかかわらず佐藤汐は元彼にラブレターを送って復縁を迫ろうなんて、まったくそんな男のどこがいいんだか。しかしラブキャットを使わずに思い留まったことは健気だと受け取るべきなのかもしれない。


「本来こういうのは自筆のほうがいいのだがね。まあ依頼者と通話して細かい情緒を微調整しながら書いていくことになるだろう」

「お察しします」

「よいのだ。恋文を書くのはもともと好きだからね」

 

 さらりとすごいセリフが飛び出たな。

 これはさすがに僕は聞き流せない。

 ラブ子先輩は意中の殿方に向けてラブレターを書いたことがあるのだろうか?

 実は恋多き女なのだろうか?

 だって恋愛探偵を名乗っちゃうくらいだし。


「イチズくん、ちょっと失礼。お手洗いに行ってくるのだよ」

「あ……はい。いってらっしゃい」


 僕は気もそぞろに生返事をかえす。そのあとの待ち時間もやけに早く感じてラブ子先輩が女子トイレから戻ってきてからもいろんな思いが錯綜しており、廊下を歩きながら他愛もない会話をしたはずだが内容は頭に入ってこなかった。僕は結局ラブレターのことは聞けずに気づけば目的の教室の前までたどり着いてしまい、ラブ子先輩は躊躇することなく扉をノックする。


「たのもう!」

「たのもう!?」


 まさかの道場破りスタイル?

 その教室の室名札には『理科室』と書かれていた。そしてガラガラとドアがスライドされると中から現れたのは白衣を着た人物だった。深いくまにボサボサの乱れた髪。その人物はだらしない無精ヒゲを撫でながら僕たちふたりをまるで実験動物を見るような目付きで観察する。言われなければとても教師には見えない出で立ちだ。


「牧村(まきむら)理科教師、今日は頼みがあってきたのだ。入ってよいかね?」

 ラブ子先輩がそういうと牧村先生は一瞬考えるような仕草をしたあと無言で横にずれた。

「では失礼する」


 そんなラブ子先輩に続いて僕が理科室に入ったのを確認すると牧村先生はスライドドアを閉めてガチャッとなぜか鍵まで閉めた。

 ドキッとするからやめろ、そういうの。

 それはさておき、理科室を見回すと緑の机に木の四角い椅子が逆さまに載せられており薬品の匂いとともに放課後の静けさが漂っている。牧村先生はその中のひとつの椅子を降ろすと僕たちにも対面の位置に座るように目線だけで席を勧めた。遠慮なく僕とラブ子先輩はとなり同士に座る。

 普段授業を受けるときとは違って新鮮だった。どうして好きな人のとなりに座るだけでこんなにも胸がドキドキするんだ。人体って不思議だよな。

 僕が内心、理科室の人体模型に話していると牧村先生はおもむろに白衣のポケットからアルミのシガレットケースを取り出し、ピンセットでそのうちの一本をつまむ。もう片方の手で器用にマッチをこすり慣れた手つきでタバコに火を点けるとビーカーを灰皿代わりにして紫煙を燻らせた。そこで僕は何の気なしに床を見ると隅のほうになぜかシャーレがぽつんとひとつだけ置かれていた。

 すると煙たがるように牧村先生は言葉を吐く。


「で、頼みっていうのは?」

「牧村理科教師」


 ラブ子先輩はあらかじめ決めていたであろう質問を投げかけた。


「単刀直入に訊くが愛猫をばらまいているのはきみかね?」

「…………」


 たしかに牧村先生は校内でもマッドサイエンティスト・マキムラの異名を誇り、見るからに怪しい人物ランキングダントツ一位だけども……。

 それを直接本人に言うか。


「そうだと言ったらどうする?」

「どうもしないね」


 牧村先生とラブ子先輩はにらみ合ったのち、牧村先生は「冗談だ」と煙とともに嘆息を漏らした。


「言いたいことはそれだけか? 恋泉ラブ子」

「いいや。本題はこれからなのだよ」


 およそ頼む者の態度ではないが牧村先生は続きを黙って聞く。


「先述した惚れ薬の成分解析を頼みたい。ブツはこれなのであるが……」


 スッとラブ子先輩は懐から透明なフリーザーバッグに密封された薄桃色の錠剤を取り出した。猫の顔のようにかわいらしい形をしておりただのラムネだといわれても信じてしまう。

 それを牧村先生は受け取るとためつすがめつしてから一言だけ言い添える。


「承った」


 それからラブ子先輩は「感謝する」と礼を言うと牧村先生のタバコの火口を見つめる。


「実は私も前々から喫煙には興味がある。探偵と喫煙具とは切っても切れない関係だからね」

「やめとけ。こんなもん人間の吸うもんじゃない」

「ほう。人間でないのならば牧村理科教師、きみは何者なのだね?」

「知ったことか」


 牧村先生はどこか拗ねるように答えた。

 僕は何年か前の薬物抑止ポスターのセンセーショナルなキャッチコピーを思い出していた。


『覚せい剤やめますか? それとも人間やめますか?』


 この表現は人間性を否定するとして今では使われていない。

 そしてこれは僕だけかもしれないがタバコのにおいを嗅ぐとどこか懐かしい気持ちになる。

 僕がノスタルジーに浸っていると牧村先生はいつもの能面で問いかけた。


「王道一途は何をもって人間だと判定する?」


 いっけん人間に興味なさそうに見えて生徒をフルネームで呼ぶんだよな、この教師。


「脳が機能していれば人間か? ないしは心臓が鼓動していれば、あるいはものに名前を付けることができれば、はたまた自死できれば、もしくは神を信ずれば人間か?」

「人間の定義……むつかしいですね」


 そのなかでいえば自死できれば人間、かな?

 だとすれば、皮肉にも『人間失格』を書いた太宰治こそがもっとも人間であると言えてしまう。

 そんな僕の思考を読んだように牧村先生は注釈を入れる。


「生き物のなかで人間だけが自死するという説があるがそれは実は間違いだ。他の動物も自殺する」

「え? そうなんですか?」

「ひとつ例を挙げる。いちど人間に虐待された犬は保護施設に引き取られたあとも餌を食べずに餓死に至ることがある。これも一種の自殺だ」


 それはもはや人間に殺されたようなものだと思うけど……なるほどな。それも人間側の捉えかた次第だ。犬も歩けば死を選ぶ、か。


「また物理的化学的電気的反応としては普通の人間と等しく同じに観測されたとしても、そいつは本当に人間なのか?」

「哲学的ゾンビだね」


 そこでラブ子先輩が割って入ってきた。


「聡明なイチズくんには説明するまでもないことだろうがね」

「え?」


 しかし僕はまったく皆目見当もつかない。

『腐っても立ち上がるゾンビ哲学』みたいな?

 自己啓発本に感化されたゾンビとか?


「ま、まあとうぜん僕は知ってますけど一応そこのカラフルな人体模型くんにも説明してあげてください」

「よかろう。では模型くん、心して聞きたまえ」


 それからラブ子先輩は人体模型に語って聞かせる。


「哲学的ゾンビとは心理学における思考実験のことなのだよ。哲学的ゾンビはパッとみ肉体的には普通の人間と変わりなくリアクションも可能だが、一般的な人間とはひとつだけ決定的に異なった点がある。それは意識がないことだ」

「意識がない……」


 ならば哲学的ゾンビと人間を見分ける方法はあるのか。

 そして再度、牧村先生は問うた。


「王道一途はなにをもって人間と判定する?」

「えーっと……なんですかね」


 僕は人間の脳で思考する。普段生活していて僕たちは自分のことを人間だと意識することはきわめて少ない。それくらいに当たり前の話だからだ。『わたしは人間です』と宣言すれば自らを人間だと証明できるかといえば、事はそんなに単純でもない。

 人間はそんなことは言わないからだ。むしろ『人間宣言』は『人間じゃない宣言』とも言える。だとすれば僕の答えはこうだ。


「自分で自分のことを人間だと思ったらそれは誰でも人間なんじゃないでしょうか」


 決めるのは自分。

 という結局は月並みな答えに落ち着いてしまった。


「それが王道一途の解答か」


 口元をゆるませつつ紫煙を燻らせる牧村先生とうってかわってラブ子先輩のほうは辛口だった。


「イチズくん、61点!」

「ちょっ、低くないですか?」

「これでも甘くつけたほうなのだよ」


 しかし僕はラブ子先輩の採点に不服だった。


「じゃあ今度は逆に訊きますけど、ラブ子先輩にとって人間とは何なんですか?」

「そんなの決まっておろう?」


 ラブ子先輩は桃色のため息を吐いてからハンチング帽のつばを弾いて答える。


「私が恋するのが人間だよ」


 この人類博愛主義者め。

 ラブ子先輩は人間を愛しているのだ。

 するとそこでふと僕は人体模型と目が合った気がした。先ほどの設問の亜種として、見た目は人体模型なのに人間のような意識があったとしたら我々にそれを見分ける方法はあるのだろうか?

 いわば哲学的人体模型である。まさに付喪神の世界観だ。でも、だとすれば、哲学的ゾンビは人間界に降りてきた一種の神様なのかもしれない。


「牧村先生はどうして僕にこんな質問を――」


 僕がそう問いかけようとしたところでちょうど下校のチャイムが鳴った。


「時間だ。帰れ」


 そのチャイムが鳴り終わるのを待ってから牧村先生は言った。


「うむ。それでは私たちもお暇させてもらおう。行くぞ、イチズくん」

「は、はい」


 僕とラブ子先輩は牧村先生に急かされるように席を立ち、理科室をあとにする。理科室内は薄暗くタバコの火口だけが蛍のように赤く灯っていた。


「さようなら」


 ドアが閉まる直前、牧村先生は咥え煙草のまま初めて教師っぽく挨拶をしたのだった。

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