第四話 空は見る気分によっていつも印象が変わる

 後ろのバンパーに傷がある車はガソリンスタンドを出て走る。走らせているのは店長だ。五月の空は相変わらず爽やかに見えたけれど、こうやって職場を離れて車を外に走らせてる状況だと言うのにあんまり良い気分にはなれなかった。


 それはおそらく、多少なりとも自分のこれからに対して不満というか、不安があるから何だと思う。別に何かになりたいもの、なんてのはない。正直、何者になれるとも思っていないから。思考がよくわからない方に動きそうなので、俺は何度か瞬きをしてそれを元に戻す。そして運転に集中している店長を見る。当たり前だが真剣に運転している。


「そういえば、店長って車何乗っているんですか?」


 俺がそう聞いたのは、彼もきっと佐々木さんと同じで車が好きなんだろうと思ったから。ところが彼の回答は意外極まるものだった。


「車持ってない」


「え? そうなんですか?」


 一瞬だけ、店長は俺の方を見た。その横目が物語っているようで少し悲しい。


「ああ、忙しくてね……っていうのは言い訳で、正直、車に対してウンザリしているってのが本音」


「へぇ。てっきり車が好きなんだと思っていましたよ」


「佐々木みたいに?」


「そうです。佐々木さん、車好きじゃないですか。なんて車かいつも忘れちゃうんですけど」


「日産のワン・エイティSXって車だよ。あの車も、最近はとんと見なくなったよねぇ……俺が若い頃は結構、どこでも見かけたんだけどね。走るのが好きな連中が良く乗っててさ。あとはシルビアとか、セリカとか……。おっと、話がずれたね。佐々木のこと。確かに、あいつは車が好きだよね。だからこそここで働いているってのもあるんだろう。なんていうかほら、ディーラーとか修理工場とかとは違った形で車に触れるというかさ。……俺もさ、ディーラーで働いている友達とかいるんだけど、連中、今じゃもう車が好きなんて人は一人もいないからね。好きなことを仕事にするってことは、結構、難しいものなんだよね。そういう意味じゃあ、俺もそうなんだけど。結局は一緒ってことなのかもしれないな。俺もまぁ、車が好きだったよ。昔はね。変な話、一晩中ネットで車を調べたり、雑誌を見たりしたもんだよ。でもさ、いざ仕事にすると、結構問題が出でくるわけだ。本当に何もわかってない連中がわんさかいてさ。そういうのを一人一人ずっと相手していたら、いつの間にか車が好きじゃなくなっていたんだよね。車を手放した時もさ、別にショックでもなんでもなくてさ。そう思わなかったこと自体にショックを受けたっていうか。変な話なんだけどさ」


 そういえば、店長とこんなに深く話をしたのって初めてな気がする。いつも、仕事が終わってからちょっと話すくらいで、それだって数えるほどしかない。


「不思議なものですね、車ってのは。俺はまあ必要だから乗っているってだけなのに、それが好きだと思える人もいて、店長みたいにそれもなくなってしまう人もいるっていうのが。別に安くもないし、メンテと車検とか、割と金がかかるじゃないですか。でも、みんながみんな車に愛着持っているっていうわけでもないし」


「……まあ、そういう意味じゃあ俺はちょっと特殊かもしれないけどね。今から行く、アオキ板金の青木さん。彼も、別に車が好きってわけじゃないんだよ。車よりもバイクの方が好きだって言っていたな。でもさ、彼の技術はすごいんだよね」


「へぇ、そうなんですか」


 別に俺も車が特別好きってわけではないから、そんなふうに『技術が凄い云々』と言われてもピンとこない。車は随分と走っている気がするが、俺がこのあたりに詳しくないからそう思うのかもしれない。


「ところで、どこにあるんです? その板金屋って」


「そうだね、三十分くらい走るから、だからあと十五分くらいかな」


「結構遠いんですね」


「そうだね、俺はもう慣れているから散歩って感じがするけど、黒田くんは初めてだもんね」


「そうですね」


 そこで会話が途切れた。無理も無い。別に俺は佐々木さんのように車が好きでここで働いているわけでは無いし、店長のように過去の想いを持っているわけでも無い。


 あるのは時間と暇だけで、無いものはお金とかお金とかとお金とか……。そんななかで話が長続きするわけはないが、時々店長の方を見ると、そんなことは別に気にも留めていないような表情で運転している。そうこうしているうちにあたりの景色は田圃が多くなってきた。


「板金屋ってうるさいんですか?」


「いやー、そうでもないよ。どうして?」


「……なにもないところまで来ているなぁ、と思って。もしかしたら結構音が出るからなのかなって、ちょっと思ったんですよ」


「……まあ、着いてみればわかるよ。ほら、あれだよ」


 店長が言う先に、確かにちょっとした修理工場のような建物が見えて、看板には『アオキ板金』と書かれていた。店長は車を敷地内に入れて停める。


「青木さんいないのかな」

 店長は工場内を除く。リフトの上に車が一台乗っていた。テールランプの上には『マツダ』と『サバンナRX-7』の文字が見てとれた。その奥からひょろっとした若い男が出てきた。


「青木さん! ……ああ、秋生君か!」


 いろいろと知らない人が出てきたが、俺の知らないところで世界が動いていると同じことで、だけど、俺もようやく、知らなかった世界を知りつつあるみたいだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る