四度目の夜
夜が更け、みんなの寝息と虫の声しか聞こえなくなって来た頃に、見張りをする俺の近くに誰かが寄った。
トオコだ。彼女は人差し指を自身の唇の前に出した後、山道の上の方を指し示した。みんなから離れて内緒話をしようというジェスチャーだろう。そして俺の返事を待たずにさっさと道を登って行った。
おいおい、この世界に獣が存在していることを忘れていないか? 灰色狼のヨモギと初めて遭遇したのはここの頂上だった。トオコと夜に二人きりになる状況は避けたいのだが、彼女を独りで行動させる訳にはいかない。
かといって見張り役を放棄する訳にもいかない。管理人が来襲する可能性は低そうだが、新しく落ちた同士討ちの
そうだ、ヨモギ。彼はまだ起きていて俺の近くで月を見ていた。
「悪いが俺が戻るまで見張りを頼む。何か有ったら吠えて教えてくれ」
俺は小声でヨモギに頼んだ。狼は俺の手の平をベロンと舐めた。うへぇ。了承したと思っていいんだよな? 俺は舐められた手を振って風で乾かしつつ、急いでトオコの後を追った。
「遅い」
トオコが待つ場所に辿り着いた俺を、彼女は頬をふくらませて非難した。
「いったい何の用だよ?」
「つれないなぁ」
「明日は早いんだから、マサオミ様が早く寝ろと言っただろ?」
「だって眠れないんだもん」
いつもは大人の女の余裕を見せる彼女が、妙に子供っぽく拗ねていた。
「……セイヤに言われたことを、気にしているのか?」
トオコは一瞬顔を強張らせたが、素直に認めた。
「うん……」
一気に
「キツイ言い方だったかもしれないが、あいつは本気で、死に急ぐあんたを心配しているんだよ」
「解ってる。傷付いた訳じゃないの。ただ、戸惑ってるの……。丁寧に生きろなんて、アタシの人生で言われたこと無かったから」
「セイヤは超が付くほどイイ奴なんだ」
「そうみたいね。でもあなたもそう。小隊長さんも大将さんも、あのチビッ子
「それが軍人だ」
俺は徴兵されたばかりのニワカだが、ミズキやマサオミ様達を見ていると、器の大きさと覚悟の強さを感じ取れる。
「……アタシのお客にもね、軍人さんは多く居たのよ?」
「………………」
「でも尊敬できる人なんて一人も居なかった。そりゃそうよね、彼らは商品として女を買いに来てるんだもん。実の父親だって、アタシを金の稼げる道具としか見ていなかった」
トオコの昔話に登場するのはいつも父親だ。
「……母親は居なかったのか?」
「ううん、居たよ。でも影の薄い人。夫のいいなりで、心の弱い女性だったわ。父が死んだって娼館へ伝えに来て……、その後のことは知らない。面会に来ても下男に追い払ってもらってたら、そのうち姿を見せなくなったの」
攻撃して来た父。守ってくれなかった母。トオコにとってはどちらも自分を傷付ける敵だった。
「結局それっきり。アタシが病気だってことも、もうすぐ死にそうだってことも知らないんじゃないかな? もしかしたらあの人も、もう死んでいるかもだけど」
幸せに育った人間は「血は水よりも濃し」と主張するが、世の中には居ない方が良い親というものも存在するのだ。両親を否定するトオコを責めることなどできない。
「だからアタシ、セイヤに優しくされて、本気で怒られて、戸惑ってるの。どうしたらいい?」
「どうって……」
「セイヤにどうやってお礼をしたらいい? あの人、女とヤリたそうだったから、アタシがいいよって言えば喜んでくれるかな?」
「馬鹿野郎!」
俺は思わずトオコを怒鳴り付けてしまっていた。感情的になっては駄目なのに。
「……礼の為に身体を差し出しても、セイヤは決して喜ばない」
「……そうよね、汚れた娼婦の身体なんて、純粋なあの人には相応しくないよね」
「そうじゃない、そういうことじゃないんだよ」
哀しくなった。トオコには解らないのだ。普通の男女の付き合い方というものが。
彼女にとって男とは自分から搾取していく存在。彼女は捧げることしか知らないのだ。唯一持っている己の肉体を。
自分を大切にしろ、そう伝えたい。だが俺にその資格が有るだろうか?
もうすぐ命が尽きる彼女を受け入れる覚悟は俺には無い。別れの時が迫っているトオコに恋をしないよう、心を鈍くしている。
「……セイヤが言ったことを、よく考えてみてくれ」
伝えられたのは、これだけだ。
セイヤなら、あれこれ考えずにトオコと向き合うのだろうな。自分が傷付かないように計算してしまう俺とは違う。
「丁寧に生きろってことを?」
「ああ」
「……アタシにはまだ、よく解らない」
「考えるんだ。解るようになるまで」
「……うん」
トオコはそれきり黙ってしまった。俺は彼女を促してみんなの元へ戻った。
トオコと別れた俺にヨモギがすり寄って来た。
「見張り、ありがとうな」
頭を撫でてやるとヨモギは誇らしげに尻尾を振った。暗くなった気分が少しだけ軽くなった。
トオコは少しでも眠られれば良いのだが。
俺はヨモギと並んで座って月を見た。雲がその姿を隠してしまうまで。
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