第5話
光田は入院生活にも少しづつ慣れて来たが、慣れないものが一つだけあった。
夜間の病棟だ。
特別室なんてものは役に立たない。
昼間とはガラリと変わる夜の静けさはどの部屋も一緒だろう。
小学生の頃に怪談や奇怪話を読みすぎた影響だろう。
今頃になって肝を冷やされるとは思いもしなかった。
入院して以来、自分の眠気など無視。
消灯の時刻に合わせて眠ることにしていた。
ところが、無性に喉が渇き目が覚めた。
時計を見れば夜の11時。
朝までは長過ぎる。
冷蔵庫を開けてみるが、こんな時に限って果汁100%ジュースだのしか入っていない。
飲みたいのは水か麦茶だ。
光田は意を決して、松葉杖をつきながら自販機が置かれた応接室に向かった。
暗い廊下に応接室から僅かに光が漏れていた。
誰かいるのだろうか。
光田がそっと応接室を覗くと、窓際に人影が見えた。
よく見れば、車椅子に乗った老人が窓の外を眺めていた。
幽霊ではない事に安堵した光田は老人に声をかけた。
「こんばんは」
声に気づいた老人はぼんやり顔を上げた。
老人は光田を見た。
初めはぼんやりとこちらを見つめた目が、何かを察したように急に強い光を放った。
機敏な動きで車椅子の向きを変えると、光田の方へ驚く速さで近づいてきた。
あまりに急で、光田でさえ立ち尽くすしかなかった。
しかし、これからの流れは何となく察したから慌てることはなかった。
おそらく老人は自分のファンなのだろう。
このチャンスを逃すまいとサインを頼むに違いない。
今までの経験からそうだろうと思っていた。
ところが、目の前に来た老人の目は憧れではなく怒りに震えている。
発せられた言葉は光田が想像したものとは全く違った。
「お前さんのお陰で、そよちゃんに会える機会が減って困ってたところだった。文句を言おうと思ったが、ようやく落ち着いてきた。でも、周りが変に浮き足だって騒々しい。どちらにしても迷惑な奴じゃ」
「え?」
何を言い出してるのだ、この爺さんは。
光田は老人をじっと見つめ返した。
けれど老人は光田に動じる事なく、それどころか恫喝するような勢いでまくしたてた。
「お前さんが来て、女どもが色めきたって、今もヘンテコなシフトが時々発生してそよちゃんに会えない日もある。そよちゃんの笑顔はわしにとって病院のオアシスなんだ。何とかしろ」
光田は松葉杖を脇に置き、近くの長椅子に座った。
「何とかしろっ言っても。だいたい、そよちゃんて...」
その時、光田は配膳に来る看護助手の姿が浮かんだ。
「もしかして、食事を届けてくれる子ですか?あの、素朴な感じの、」
光田が伝えた子は、どうやら老人の想い人である「そよちゃん」らしい。
それを当てたことが気に入らないのか、勝手に何かを妄想したのか、老人はワナワナと震えながら光田ににじり寄ってきた。
「何でお前さんは、そよちゃんを知ってる?」
「いやいや、知ってるもなにも。ご飯運んでくれるし。麦茶くれるし。あ、でも、お爺さん、」
「お爺さんじゃない。わしは稲村だ」
「稲村さん。別に何もありません。知ってるだけです」
稲村は胸を撫で下ろし、それはよかったと言った。
「わしは階段から落ちてな。ここで世話になってる間、あの子はいつも笑顔で仕事をする。気分が分かりやすい者もたくさんいるのに、あの子はいつも笑顔」
「プロなんですね」
「ここにいるのは全員プロだろ。だけど、彼女は一流だよ。お前さんの仕事だって、そうだろ。プロの中にも三流、二流、一流がいるだろ」
「稲村さん、俺のこと知ってるんですか?」
「知ってるよ。野球小僧でわしから楽しみを奪ったとんでもない男だ」
光田は思わず笑った。
そんなことはお構いなしで稲村は続けた。
「だから、早く治して球場に帰れ」
そう言って、稲村は出ていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます