第3話
時計の針が5時をさす。
仕事が終わり白衣を脱ぐ。
周りの日勤の看護師たちも帰り支度で賑やかだ。
あのレストランで夕飯をしようか。
ちょっと飲んで行こうか。
子どもが待っていると慌てて帰る人もいる。
そよはその輪に向かい、静かに「お先します。お疲れ様でした」と声をかけて更衣室を出た。
病院を出て空を見れば、広がるのは爽やかな初夏を迎える前の静けさ。
まだ日は落ちていない。
病棟へ目を向けると、最上階の角部屋の窓が僅かに開いてカーテンが揺れていた。
あのオーラの人がいる特別室だ。
姿が見えたわけでもなかったが、いつもと違う仕事の流れで重たかった足が少し軽くなったようにおもえた。
そよがいつもの配膳やお茶を配る仕事に戻れたのは、それから2週間後のことだった。
配膳やお茶を配って近づいても、特別室の主には効果が無いと判断されたようだ。
よって、一部の主狙いの女子たちが作戦を変更した。そのお陰でそよの日常が戻ってきた。
日々、その場しのぎの指示でてんてこ舞いだったそよにとっては、ありがたいことだった。
その状況をそよより、喜んでいる人がいた。
二人部屋の窓際に稲村という老人が大腿部骨折で入院している。
入院当初はオーラの人が滞在する特別室にいたが、三ヶ月前から2人部屋に移った。
特別室の費用が払えないから移動させられたと、もっぱらの噂だった。
稲村はそよが食事時にお茶を注いで回ることを楽しみにしていたが、突然会えなくなった。
辞めてしまったのではと、普段はリハビリにも乗り気では無いのに、松葉杖で足元おぼつかない様子でナースステーションや給湯室の周りをウロウロしていた。
面白がった看護師の鳥取は、彼女は辞めていないけれど暫くは他の業務に携わっていることを教えてあげた。
だから、その暫くを心待ちにしていた稲村はご機嫌だった。
日常が戻ってきたそよは、他の患者さんと同じように特別室にも配膳し、お茶をくむ。
ゴミの片付けやシーツの交換、一通り終われば、看護師の指示に従って動く。
特別室の光田は決して偉ぶることの無い青年だった。
それどころか、相手の目をしっかり見ながら挨拶の出来る礼儀がある人だった。
誰かとしっかり目を合わせて挨拶したことなど、暫く無かった気がする。
始めはそよもドキドキしたが、これはスポーツ選手が団体活動や上下関係から学んだ礼儀だと気づいた。
そよも人見知りなどと言っている場合ではないと、相手の目を見て声をかけるようにした。
すると、患者さんが今までより少し近く感じれるようになった。
一流選手を見習うだけで、こんなに成果が出るなんて。やはり、日頃の心掛けがすでに違うのだから、小さなことでも真似てみようとそよは思った。
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