第3話 わらうかどには(現代日本/隙間、座席、泥棒)
もしもし、もしもし。うとうとしていると、おかあさんのこえがした。
おかあさんはときどき「もしもし」っていう。そういうときはいつもおかあさんのだいじないたをみみにあてていってる。なんだかたのしそうなのでぼくもつみきをみみにあてていってみたら、おかあさんはとてもびっくりしたかおをして、それから、「すごいね!」とわらった。だから、ぼくはいろんなおもちゃをみみにあててみてる。いままでためしたなかでは、ふたがいちばんたのしい。
あるひ、おかあさんが「今日からここに住むのよ」といってつれてきてくれたこのへやには、ぼくとおかあさん。ほいくえんでせんせいがこうくんに「今日はお父さんがお迎えに来てくれたね」といってるひがあるけど、おとうさんって、だれだろう。
なんだかちょっとさむくなって、おかあさんの、あらあらよいしょ、ってこえがして、そうしたらまたあったかくなった。なんだっけ、そう、すきま。すきまがあるとさむいんだっていってた。だからきっと、おかあさんとぼくのすきまはいま、なくなったのかな。
すきまがなくなったのがうれしくって、そうしてぼくはもっとおかあさんにしがみついた。
ときどき身じろぎするものの、寝言もなくぐっすりと眠り込んでいる息子の顔は少年と呼ぶには幼くて、赤ちゃんと呼ぶにはしっかりしている。中途半端といってはなんだけれども、そんな頃合いの幼児だ。
数ヶ月続いた調停もやっと区切りがつき、今日は諸々の手続きのため、電車で数駅離れた役所へ。ちょうどお盆休みに重なって、保育園も保育不要と届け出てしまっていたので、息子と共に出た。長距離と言うほどでもないがと思いきや、役所で待っている間に退屈しすぎたか、気づけば息子は船を漕いでいた。
それにしても、この泥棒猫、という言い回しはフィクションでよくよく使われるが、まさか自分の結婚相手から言われるとは。調停が完結して、弁護士さんと最後に話していた時、笑い話として聞いてくださいね、との前置きのもと、私に対して夫がそう言ったのだと、告げられた。
え、私の知らないところで夫に恋人がいて、私がその彼女だか彼だかを寝盗ってでもいたのか? いやでも私は息子が生まれてこのかた、嫁といえばひたすら2次元ないし2.5次元なのだがさて? と思っていたら、息子の親権をこちらが主張したこと、そも調停開始前に息子を連れて家を出たことに対してだったそうな。それを聞いた途端、息子は可愛いけれども、なんだか人生無駄にしてしまったな、と思って、これはもう笑い飛ばすしかないわね、と弁護士さんともども笑ってしまった。
そんなこんなを経ての今日で、今である。次の手続きは「少し時間がかかるのでお掛けになってお待ちください」とのことで、ご丁寧なことに、優先席なる座席を案内されてしまった。でもきっと、座ったらこの子は途端に唸り声を発するのではないかしら。弱ったなぁ。
そう思っていたら後ろから、話し声と柔らかい足音。「こちらでお掛けになってお待ちください」と誘導されたであろう人を見やれば、やっぱり同じように抱っこしていて、顔を見合わせてふたり、困りましたねと笑いあった。
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初出: https://www.magnet-novels.com/novels/55919 2018/10/21
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