バグ・デバッグ・アラクネー(九条史桐)
「お前って指、長いよな」
ぴとりと手のひらを合わせてそうだしぬけに呟いた男を、きょとんと見つめる赤い眼の彼女。その視線が、じとりと細くなる。
「それだけならいいが…
なにかまた失礼なことを思ってない?」
ぎくり、と。蜘蛛の肢体のようだと思っていた男はただ気まずそうに微笑む。曖昧な笑みに妙に腹ただしくなったシドはそれに、首の皮を抓って咎めた。
そうしていた時のこと。
「おや」
部屋の中に小さい虫が這っていた。
特段害がある訳ではないが、少し見過ごすのも微妙な大きさの虫。見かけない程度では無いが、名前がすぐにわかるわけでもない程度の虫。
赤い眼は特に逡巡をするでもなく。
それを躊躇なく、潰した。
塵紙でそれを取ってごみ箱に入れる。
「…なんだい、その目。
虫であっても生きてるんだから〜なんて博愛主義者的な偽善を宣うつもりかい?」
「いや。単に虫大丈夫なんだなって」
「まあ本当にデカいのとかは流石にちょっと身構えるけど、これくらいならねえ」
「そんなもんか」
「そんなものさ」
真実、青年にはそういったことを咎めるような目つきをしたつもりはなかった。
だがその自身がした穿ちすぎた発言になにか鑑みることがあったのか。ぽつりとシドは呟き始める。彼女の中の、無駄に考えすぎた脳内の発露。
それはきっと、周囲へ取り繕っている理想と、この甘えたがりの本性との、結露のようなものなのだろう。
「…命には剪定順序がある。優先順序と、救われるべきものとさほどでもないものしかないのさ。このコは後者だっただけだ」
「そりゃまた急に…
極端なことを言い出すな、お前は」
聞き用によってはいっそ選民思想的な、過激な発言を少しだけ驚きながらそれでいて否定しない。無条件に肯定をするでもない。頭ごなしに否定をするでもない。男のそういう聞き方が彼女は好きだった。
「まあ、聞くだけ聞いておくれ。人種、思考宗教とかそういうセンシティブな話じゃない。人間の話だけじゃあなくってさ」
「…俺は命に別々の価値があるなんていう考えは、少し残酷で嫌かもしれないな」
「はは、ほんと甘ちゃんだよねキミは。
…でもさ。例えば、古びて蜘蛛の巣が張り巡らされた部屋の奥に怪我をした猫がいるとする。それを見たら君ならどうする?」
「ん?そりゃ…助けようとするかな。
放ってなんておけないよ」
「うん、やっぱりそうだよね。蜘蛛の巣を潜ることはできない。それでキミが蜘蛛の巣だらけになったとしてもかい?」
「まあ、俺が蜘蛛の巣だらけになるくらいで助けられるなら」
「ほら。」
「え?」
話法の壺に嵌ってしまったということを指摘するからか、はたまたそれ以外の理由でか。赤い眼が悪戯に嬉しそうに細く歪んだ。
「蜘蛛の巣だらけになるということは、つまり長年かけて作り上げた家であり食い扶持である巣を、蜘蛛から奪うということだ」
「…まあ…そうか」
「だのに君はそれに認識をせず、猫を助けるために蜘蛛からそれらを奪って行った。巣を奪われた蜘蛛は、その先どう生きるだろう?生きることなど、出来ないかもしれないね。
認識されず、剪定されたもの。無意識とはいえキミだってそれをしているじゃないか」
「……」
「…それに、キミは矛盾してるよ。命に別々の価値があるなんて嫌だって言っただろうに。
今言ったもう一つのこと。『俺なんか』っていつもの論法だったろ」
それも無意識。
彼が意識をせず、もう身体に染み付いた思考として咄嗟に出てしまった価値観だった。
だから彼にはそれを否定できない。
「キミが、キミ自身を蔑ろにしながら他人を助けようとするのなんて。自分という存在に価値はなく、他者にだけはある、というように。キミ自身が命の価値に差はあって、優先される命があると思っている事を、証明しているようじゃないか」
ずくん、と。
咄嗟に何かを言おうとして。
何を言っても無意味だとわかってやめる。
自分がそう思っていたことは、ただ間違いない。それは事実であり、何よりそれを誰よりも理解しているからこそ、それを彼女は言ったのだろうから。
「……っとと。落ち込まないでくれよお。なにも、責めてるわけじゃないしなにか言い負かしたいわけでもないんだ。
あくまで今は、そういう考えを聞いて欲しいだけなんだから。…なにより…」
「ボクは、その歪みが大好きなんだから」
「……ゲテモノ喰いだな」
「なあに蓼食う虫も好き好きというだろ?
そんなものさ」
「そんなものか」
蜘蛛の糸で絡め取られるように、彼女に言いくるめられていく。その感触が、まあなんというか、あまり良くないのではと思いながら、嫌いではない。青年はため息を吐いた。
彼女は、悪かどうかの怪しい境目にいるのだとつくづく思うことがある。
だけれど、それでも。
さっきの話にしても彼女は一度でも、『救われるべきではないもの』とは言わなかった。言葉のあやかもしれないが、少なくとも。
彼はただ、その僅かな彼女の善性を信じて、安心をすることにした。それだけに留めてただ、この胸にある筈の彼女への恋慕に、他の倫理と意識を溶かしていった。
ただ、蜘蛛のように細くて長い指が、滑らかに動いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます