或いは胸ポケットという小宇宙の話







発端は、彼が唇を切った事だった。


いつもの生徒会室。

知らぬ間に血を出していた古賀集に起因する。寒々しく乾燥した空気で、自身への無頓着。その二つが出したことは、当然の事である。




「おや、古賀くん。以前あげたリップクリームを使えと言っただろうに。どうしてまたそんな乾燥をしてるんだい」



目敏くそれに気付いたのは、シド。

本人より早く気付き、当人の青年はまたそう言われて初めて口の端に触って気がつく。

そんな様子を見て、横で一人別の少女がくすりと笑った。




「あ、マジだ。いや使いたくないとか別にそんなわけじゃなくてさ。なんか忘れるんだよあれ。使う事も、なんか持ち歩くのも」



「あはは、確かに忘れがちですよね。

僕もちょくちょく家や食堂に忘れちゃって、どうしようかなって」



「…それでどうやってそんなプルプルの可愛らしい唇してるんだい。もしキミがちゃんと身だしなみ整えたらどうなるんだ」



「そ、そんな事言われましても…」



たじたじと、目を逸らすひさめ。

その光景を見て、今度は青年、古賀が笑った。そういう会話も、そこそこに。




「しょうがないな、ほら、これ使い給えよ。今回はボクもまだ使ってないから安心して」



「…今回は?」




そう、胸ポケットからリップクリームを取り出したのだ。

そんな一言に対してひさめが怪訝そうにしていたが、結局のところ次の言葉にかき消される。


つまりは、目の前に出てきた光景に対して青年がおお、と声を上げたのだ。




「?どうしたんだい」



「ああ、いや。

そんな大したことじゃないよ」


「…ただ、胸ポケットって便利だなって。

俺は上羽織っちゃうからそこに入れたりするのはしなくってさ」




その一言が、発端であった。




「ああ、これかい。

変なとこに着目するねキミ。

よくハンカチとかを入れてるよ。

ここから取り出すと、絵になるだろ?」



「おお…そのあたりも計算してるんですね、シドさん」



「ああ、うん。

やっぱりある程度格好つけると色々便利だからね。失望したかな?」



「いえ!むしろ、凄いと思います!」



「そーかいそーかい。

キミは本当に可愛らしいねぇ」



和んだ笑みで、おさげのふわふわとした部分を撫で揉む姿は滅多に見ない程のリラックス。そうされているひさめは、困惑をしていたが。




「んで今日はリップを、ってわけか」



「今日というよりは、最近かな。

あまり大きいものは入らないけどね」





「へー…容量とかってどんなもんなんだ」




そう、何気なくした発言。

彼はその意味に気付きはまったくしていない。

それがどういう意味であるかなど、まるでわかっていない発言だった。し、その迂闊に気づく事は、ずっとずっと先だった。


だがそれは、その周りの女性にとっては、がたりとみじろぎを、するような事態だった。

生徒会長が、ぴくりと眼輪筋を動かした。

ひさめ少女が、ぴたりと身体の動きを止めた。



胸ポケットに何が入るか。

何を入れているか。

どれくらい、入るのか。


それはつまり。

『内側からどれだけ圧迫されているのか』。

そういうことを表すのだから。





「話は聞かせて貰いました」



「うわぁ鈴!?

なんで生徒会室に!?」



「兄さんに用があって、居場所を先生に聞いたらまたそっちにいるんじゃない?と言われたのでこちらに顔を見せに来たんです」



「おお、そうか。用って何?」



「そんなことはどうでもいいんです。今の最優先課題は胸ポケットの話ですから」



「用って何!?」




ノックも無しに部屋に入り込み、捲し立てる女生徒は中等部の学生にして、青年と一番見知った仲の女の子。彼の実妹の鈴だった。


いつもの沈着した様子からは考えられないような失礼から、どんどんと口を動かしていく。その目には、よくわからない熱情が燻んでいた。




「…兄さんは気になりませんか。貴方の周りの人たちのそれぞれが、それぞれの胸ポケットにどれだけ物が入るのか。その答えを追求したいとは思いませんか?」



「いや別に…ちょっと気になるけど…

そんな大袈裟に言うほどでは」



「いや。気になるかもなぁ。

よく来てくれたね、鈴ちゃん。

まずはこちらの席に座り給え」



「シド?」



「ぼ、僕も気になります!

お茶菓子出してきますね!」



「ひさめ!?」




青年一人を置き去りに話は次々に進んでいく。その彼女ら全ての目には、鈴と同じような、よく分からない情熱が籠っている。

少し仄暗いような、それでいて期待をするような。そして、どこかアピールをするような。

果たして、一番それがわかってあるべき青年には何一つ伝わっていないのだが。




「…………ちなみに私は文庫本が入ります。

よくそこで持ち運んで便利だなって…」



「鈴ちゃん。自傷行為はやめなさい」



「大丈夫です史桐さん。この程度私にはもう傷にすらなりません」




発言とは裏腹に俯くように呟くその背を、珍しく、本気でとんとんと慰めるように、消沈した顔でさするシド。

この二人は仲が悪いと思っていた青年にはその光景は意外なものであった。




「ということで、ひさめさん、史桐さん。あなた達の胸ポケットには何が入りますか。

それを私は聞きに来ました。参考に」



「さ、参考…

に、なるかなあ…僕も…うーん…」



…そんな、よくわからない熱気にあてられ、段々と集本人も気になってきてしまっていた。無論、胸ポケットに何が入るか、が何を意味しているかと言うことにはまるで気づいていないまま。


因みにそれを理解し、とんでもない会話の中に居たと気付くのは、この後彼が帰宅して自宅の湯船に浸かってる時の事である。




そうして、暴露大会が始まったのだった。






……





「む。先程言いましたが…

私から、一応、改めてですか」



「胸ポケットは…まあ、取り出しやすいし、気楽に出し入れできて便利ですよね。

専ら携帯電話や文庫本を入れてます」



「…………は?底上げ?

何を言ってるんですか。

それ以上邪推したら本当に怒りますよ」







……







「僕ですか?えーと…お、お菓子とかを…

ほんとは良くないんですけどね。

うう、先生には内緒にしてください」



「その、僕が食べるのもそうなんですけど…晴果や他の子がお腹空いたって時にあげるんです。みんな、喜んでくれて…えへへ」



「お菓子の種類?

うーん…チョコとかアメとか、甘いものですね。そっちの方が受けがよかったりするし、あとしょっぱいものは流石に入らなくて…」



「…今入れてるものを見せて欲しい?

む、無理無理です!なんというか、今この場で見せるのは恥ずかしすぎます!」







……





「ン、ボクかい?ボクはまあ、さっき言ったようにハンカチやリップクリームとかだね。あまりシルエットにならないくらいさ」



「影というか、シルエットに影響が出るとスマートなイメージが薄れるからね。

皆の模範の生徒会長である以上、そういうのにもちょっとずつ気を使わないとね」



「それに、あまり入れてしまっても変に擦れちゃったりして痛いからねえ。ボクはそこまで『大きく』はないと思うけど、まあ難儀なものだよ。

…っと、鈴ちゃんの視線が怖すぎるね。

いや、ほんとにそういうつもりは無かった」






……





「なるほど、色々と個性が出るんだな」



青年にはまだいまいちわからない会話ではあったが、それでもまあ、入れているものについては理解できた。逆に言うならば、それくらいしか理解できていないということである。


そしてまた、二人の間で如何ともし難い、絶妙なぴりぴりとした気配が漂っている事には気付く。

入れられるものの、サイズがあまり変わらないという事に起因する。その横で、諦めたよう笑みを浮かべて鈴が目元を抑えた。




「そうですね…二人の胸ポケットは、どっちの方がものが入らないのか。

どっちだと思いますか、兄さん」



「えっ俺?それに、『入らない方』?

うーん…ひさめの方が嵩張るもの多そうだし、ひさめの方が少ない、んじゃないか」



その一言を聞いて、シドの耳がぴくりと動いた。そう見えただけかもしれないし、本当に器用に動いたやもしれない。



「…へぇ」



「…えっ。

あっ、いや、僕もそんな大したもんじゃ…」




「ということで、それを試してみましょうか。どちらの方が、容量が少ないのか…

それを証明する戦いです」



鈴が、焚き付けた。

それだけは分かった。

なんの勝負なのか、そもそもそれは勝負なのか、何の意味があるのか。そういうのを差し置いて、青年は彼の妹がやけくそ気味になって焚き付けてることだけ理解できた。




「ほお?いいねぇ。意外とね、勝負、みたいなの嫌いじゃないんだよボクぁ」



「そ、それは僕も知ってます!い、いやいやでもそんなことやらなくて不戦敗でいいですって僕は!恥ずかしいですよ!

だって、その、ほら…」



「問答無用。早速、ボクから始めようか。

ということで古賀くん。

ボクのポケットにモノを詰めておくれ」




え、と。

場にいる3人全員が固まった。




「…なんで俺?」



「公平性の為。自分でやったら無理矢理詰めるかもだし、他の人にやらせたら勝つ為にわざと浅く入れたりするかもだろ?」



無論、詭弁である。

そんな事は特に関係なく、ただ私利私欲、目の前で胸ポケットにモノを入れられるという倒錯したシチュエーションを見せつけたかった、ただそれだけである。



「〜〜〜っ!ぼ!僕もお願いしますっ!!」



そんな挑戦的な様子を見て、ひさめはそう大声をあげ、両手を上げた。

その頭の中はもはや困惑でまともに動いておらず、目はぐるぐると、パニックと羞恥の最中にある。



そうして、どちらの胸ポケットに物が入るのかの戦いが始まる。








……






(そろそろ下校時刻だけど…

また、彼らは残ってるかしら)




かつ、かつと人がまばらになった廊下を歩いていく女教師。

浮葉はぴん、と思いついて生徒会長室へと向かっていった。どうせまだ居残りをしているのだろう。ならば、早めに警告しておいて損はないだろうと思って。

決して、一個人に会いたいとかではなく。



と。

着いた、時。

部屋中から声が聞こえてくる。

どこか抑えられた声。

まるで、内緒事を相談するような。


無作法とはわかりつつ、少し耳を傾ける。




(……ん!

や、やっぱりこれ以上入りませんよ!)



(なあに。なんとかなるものさ。もっと、もっといっぱい詰めてみようじゃないか)



(なあ、シド…自分には入らなかったからってそんなムキにならなくっても)



(兄さん、加減はしてませんよね?

もっともっと、無理矢理でいいですよ)



(す、鈴ちゃん!?殺生な!)





………


そう言った会話を聞いて、何やら邪な勘違いをした事を、仕方なく思うか思わないかは、色々な意見があるだろう。

ともかくとして、浮葉は、勘違いをした。

少し、随分、なんだかいやらしいような。




「ちょ…ちょっと!?

一体何をしてるのみんなして!!」




がらがらと、またノックもせずに扉を開けて急いで入っていく教室。


それが、目の前で見たものは。

会長に後ろから固定をされるひさめ少女に、困惑しきった古賀青年がシャープペンシルを入れようとしているという、奇祭じみた光景だった。



「…………」



「………………???」




率直に、フリーズした。



「…どうしたんですか?浮葉先生」



「へっ?あ、ああ。鈴さん。お兄さんは見つかったか、一応心配になって…来て…みて…」



しどろもどろに会話を返すその背筋に。

ふと、尋常でない気配に気がついた。

寒気と、怖気が背中に走った。


背中を押さえていた会長がその手を解いてから、こちらに目を向けたのだった。

それに、嫌な嫌な気配を、感じた。



「…おぉや。良いとこに来ましたね浮葉先生。

ところで、少し質問なんですが…」



「そのスーツ。

胸ポケットってありますよね?」



「へっ」







……





放課後、菜種アオは生徒会室に向かっていた。彼女の愛しの人である人物が、まだ戻ってきていない。

折角ならば、一緒に帰路に着きたい。

彼と一緒にいられる時間を少したりとも妥協したくないと、そういう行動だった。


どうせまた、生徒会室なのだろうとそこに歩を進めながら。

ノックは元からしなかった。

彼女の目的の前にそれは必要なかったからだ。



その、目の前にあったものは。




「まさか…まさか、そんな!これほど戦力差があるとは!これが年月の差か?いや、天性の違いとでも言うのかッ!」


「う、うわあ…

なんというか…憧れます…」



「なんなの、本当にもう!?

これ終わったら普通に怒りますから!」



顔を真っ赤に染めあげてあわあわと暴れることもできずに騒ぎかけている姿の、教師。


何やら膝をついて大仰に傷つくシド。

それに呼応するように驚愕するひさめ。

後ろから押さえている鈴。



そして、色のついた様子にようやく気恥ずかしくなり目を逸らした青年の姿だった。




「あ、あ、アオちゃん!質問なんだけど胸ポケットに何が入る!?」



開いた扉の音に、真っ先に気づき訪問者にすぐに尋ねたのはひさめの声。

顔からは、明らかに冷静さが失われている。


尋ねたのは、ひさめ一人。

だが、それにぐいと視線を向けたのは彼女のみではなかった。まだ現況をまったく理解できていない浮葉以外は、首をそっちに向けた。



その、視線にびくりと怖がりながら。

きょどきょどと焦り、集青年の背中にするりと隠れながら、彼女は言った。





「ムネ、ポケット…

……?」



言って、単語を理解しないように頭の上に疑問符を乗せてもう一度呟いて。

そうしてから、また、言った。



「……?入るのですか?」




それらに、空間のすべてが凍りついた。

理解をできない。否、したくなかった事実をしかし、その聡明な頭脳が答えを導いていく。鈴と、シドは、それぞれ力なく座り込み、そうしてまた頭を抑えた。




「………そもそも物が入らない。

入る場所として、認識していない…?」




呟き声は鈴のものだった。それをラストに、長いため息をした。まるで、どんぐりの背比べをしていた自分たちを嘲るように。馬鹿な真似をしていたと言うように。




「……菜種さん。ボクがキミに負けるとはね…何の言い訳もきかない、完封負けだ」



「??なんですか、急に?」



「…うう…ずるい…

こんなの、不公平だぁ…」



「どうしたんですかヒサメ…?」



「…凄いわね…私もその、まあ、普通程度にはあると思ってたけど…本物ってあるのね…」



「課題の話ですかウキハ先生?」




「…あの、えっと、シュウ?

これはどういう……?」



「実を言うと俺もよくわかってない」



「………???」




…こうして人知れず、戦いは終わった。

ただ、天賦の才を持つものには敵わないと言う無慈悲な事実だけを残して。


戦いの結果。

それはただ、圧倒的な、虐殺であった。








……





「あ、ちなみに俺も胸ポケットには何も入らなかった」


「キミは色んな意味で別だろうが」




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