神奇卓異(浮葉三夏)
叶うならば、ここに誰も来ないで欲しかった。
こんな姿を見られたくなかったし、心配をさせるのだって嫌だし、なにより、こんな時くらい一人で居させてほしいんだ。
だからよっぽど人が来ない場所に来たのに。
どうしてだろう。
最初に逢った時、俺が貴女にそうしたせいなのかもわからないけれど、それでもどうなのかわからないけど。
俺が弱みを見られるのは、いつも貴女だ。
…
……
誓って言うけれど、これは偶然で。
私はただ、珍しくやる事もなく暇だったから気分転換も兼ねて校内の見回りをしようかなと、ただそれくらいの軽い気持ちだった。
そうしていたら、鼻を啜るような、衣擦れのような物音が聞こえてきて、誰がいるのだろうかとおっかなびっくりでそっちを見に行っただけ。
そこに誰がいるかはわからなかったし、何か不審者だったらどうしよう、絵に描いたような不良でも居てしまったらどうしようとか、そんな風に考えていた。
そこに居たのは、図体の大きな男子生徒。
不良とは程遠く、そしてよく知っている子。
見ればその頬を緩めてしまう、私のよくない所が出てしまう、そんなような。
「…!浮葉先生。
どうも。見回りですか?」
制服の裾で一度、顔を乱雑に拭って、そうしてから胡乱なほどにっこりと笑顔を浮かべて私に顔を向ける。
その笑顔はいつもの通り人畜無害で懐っこそうに見えるもの。ただいつもと少し違うのは、赤くなった目と目の下に残るふやけた跡。
「…え、え。集くんは…」
何をしていたの、と聞こうとして止めた。意味も無ければ、彼の傷をただ抉るだけと思って。
君はこういう時、何も語ろうとしない。
何があったのか、どういう事をしたのか。どういう誤解をされたのか、そんなつもりでは無かったとか。説明もしなければ言い訳だって何一つしない。ただ一人で笑って、何んでもないと言い続ける。
空笑いをして、明るく振る舞う彼の姿は、ただいつも通りすぎて、だからこそとても痛々しくて、そうしていつもに想いを馳せるようなものだった。私は彼を、何も知らないのだと。奥底にある何にも触れさせてはもらえてないのだと。
教師と、生徒。
本来ならばそれでいい。受容をしても、必ずしも理解をする必要はない。それが、他人と他人の関係というものなのだから。
だからそれは私の自己満足で。彼の為というよりは、『何かをしてあげたい』という自分を慰めるためだけの行動だったのかもしれないし、本当にそれを全う出来たのかすらわからない。
私は座っている集くんの隣に腰を下ろした。
それを怪訝に思ったようだったけど、ただ何も言わないで彼はそのまま笑顔を次第に薄らげていった。花が萎むように、ゆっくりと。
「……参ったな。
別に、何があった訳じゃないんですよ。
心配かけちまったならすいません」
「うん。それでいいわ。
私もちょっとここで休憩したいだけだから」
それはそれ、これはこれ。あくまで個人が好きなようにしているだけだ、という建前を用意されると、彼はただどうしようもできなく気まずそうな表情をした。
「……真隣でなくてもいいでしょう」
「隣じゃいけない理由だって無いと思うわ」
そう言って、ズボンからハンカチを取り出してそっと手渡した。
何に使えとも言わなかったけれど、ただ集くんはそれにぐっと躊躇したようなモーションをしてからそっと受け取って、目尻の辺りを軽く拭いた。
もう殆ど涙は止まってはいたけど、急な来訪者に間に合っていない分が溢れていた。
「はは、俺が言うのもなんですけどおせっかいですね、浮葉先生」
「ほんと、集くんには言われたくないわ」
そう言って、君は笑う。
その笑顔はさっきに見た胡乱な笑みと何一つ違いはわからない。
ただ、それでも。私はただ今の笑いがさっきとは少し違う笑いであったらいいなと思った。
「……ここから先は、先生の独り言だから返事は必要ないですよ」
「?」
「『神奇卓異は至人にあらず、至人はただこれ常なり』
…私の好きな言葉でね。座右の銘にしてるの」
それは、ただ平凡で凡庸な私自身を慰めるために使って、好きだった言葉。邪な好意。
でも、今ここで、君に送れるのならば、そうして使えるのならば、本当に好きになれそうで。
「…人はみんな神のように優れてたり、奇抜なものに注目しがちだけど、本当に優れている人っていうのはただ、普通な人間。平常な人間こそが、本当に優れた人なんだって言葉」
「私はこれを謙虚さとか、そういうものの大切さを説く成語だと思ってたんだけど、最近、別のことを思いつくようになったんだ」
そうだ、誰かさんをずっと見ていて。
誰かを無作法なほど、身勝手に助けていって、その度に少しずつ擦り切れていって、それでいて感謝をされることも少ない。
やって当たり前だから、と思わたり、何が目的なのかと訝しまれることは良い方で。
都合よく使役されたり、善意に対して帰ってきたものが気持ち悪がられたり、お前がやったのかという敵意であることも、沢山、沢山。
そんな様子を、学校内ですら何回も見た。
だからきっと、別の場所でも同じように。
そんな、目の前の誰かさんを見て思ったこと。
「……本当に『至人』である人は、神奇を見せれば、自分がどんな目で見られちゃうか、わかっていたんじゃないかなあ」
奇抜。神意的。そういう姿を見せれば見せるほど、それはどのようになるのかきっと、わかっていて。だから常人のふりを精一杯にしていたんじゃないのだろうか。
「…これも、独り言ですけど、先生」
「なら俺は…きっと、そういう人じゃない。平凡で、普通で、普通以上に無能な、ただの人なんでしょうね」
「………!
っ…そんなことを言いたい訳じゃ…」
「独り言、だったんでしょ先生。
………でもね。俺はそれでいいんです。
そうであっても、もう、いいんです」
貴方が身を投げ出す必要も無ければ、そうあることができる貴方はきっと素晴らしい人なんだと。だから、それを隠してもいいんだと。
そうやって言えればよかった。
だけど、それは出来ない。
彼は特別な人じゃないんだと思う。才覚や才能を持ってるわけでもない、ただ何か思い当たる過去と行動の力があるだけの、普通の人。普通の、男の子だ。ただ少しだけ、善意が過剰なだけの、普通の。
それを否定して、素晴らしい人だからとか、真に秀でた人間だからなのだ、と彼の平凡を否定してしまえば、それはきっと彼自身とそれを支える心の全てを否定してしまうことになる。
だから私は、ただ無能なのだと自嘲気味に囁く彼を。
そうして、そういう自分こそが、結構好きなんだと。そう笑みを浮かべる彼に何も言えなかった。
その笑いは、胡乱な笑みで。
私には、どうなのかわからない。
付き合いが長い人なら、わかったのだろうか。私自身のその浅さに、歯噛みをした。
そうだ。
貴方は、平凡なのだろう。
平凡で普通で、誰かがやれることを、ただ目を逸らさないでやり続けているだけ。落ちている何かを無視することが出来ないだけ。
だから、こそ。それだからこそ、こうして身を切って、痛みに細切れにされて、限界を何回も何回も迎えて、こうして人知れず声の無い慟哭をして。それでも立ち上がり手を差し伸べ続けるきみが。
私は、とても尊く見える。
「……私には貴方に対して、何も出来ることはきっと無いの。ごめんね。ただ、知ったような顔で何かを言っても君には、多分何も届けることが出来ない。何の力にもなれない…」
「…だから、私は寄り添うわ。
君が初めて私にしてくれたように。ただ、それだけが少しでも救いになれるように」
座る集くんの手をそっと握る。
ささくれだらけで、剥け傷だらけのそのごつごつとした手は、とても冷たかった。
彼は、ほんの少しだけ、その手を握り返した。
ただ指二本のみで、重みをかけないように。
自分の体温が移らないように。
「…ありがとう、浮葉先生」
…彼のほんの少しのすくいに、果たして本当になれたのかもわからない。
彼からすれば、気を遣う私に、更に気を遣うだけの気苦労になってしまったかもしれない。
ただ少し。最後にした彼の笑みはほんの少し違った気がした。
それは私の、勘違いかも、しれないけど。
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