リップスティック・アンド・レッド(九条史桐)
冬至が過ぎ去り、日々は暖かく、過ごしやすくなっていく。しかし急激に温度が上がる事は当然無く、肌寒い日は続く。
だからそうして、空気は渇いたままだ。
湿度が足りず、肌はかさつき唇はガサつく。
だからこうして唇が切れる事はよくある事だ。それは性別、老若男女に関係なく。
「…シド、血が出てるぞ」
「ん、ボクの生理事情なんて良く知ってるね」
「……知らねぇよそんな事。
俺が言いたいのは唇の事だって」
「冗談、冗談。本当はセクハラで訴えようと思ったけど」
「冗談じゃないじゃねぇか」
ポケットティッシュで口を拭いながら、そう下世話なジョークを飛ばす。その女性の目の色は異常にも見える、真紅だ。
「いやいや、流石に然るべき機関に訴えたりはしないさ。大切な友達を売るほど腐っちゃいない」
「どうだか…」
「した所で精々周りに『乱暴された』と言いふらすくらいだよ」
「……」
その真紅の少女と言葉を交わす男は頭を抱える。品行方正で才色兼備、皆々からの信頼も高い生徒会長さまがそんな事を言ったら自分はもはや石打ちになるだろう。
自分が信頼されていないとまではいかないが、男と女ならば女性の証言の方が絶対に信頼される。し、だ。
男は自分の風貌を鑑みる。
無駄にデカい身長と、顔に付いた大きな火傷痕。ストーブでやってしまったものらしい。物心もついていない頃の出来事だった為記憶も確かじゃないが、母親がそう言っていた。
これらのお陰で最初は友達を作るのにも苦労したものだった。今でこそそうでもないが…
閑話休題。
しかしまあ、これがまた不良のような信頼のない相手ならば大丈夫だろうが、言いふらそうとするのは、あのシドときている。
人間性も学力も非の打ちどころがない完璧な、超のつく優等生。それが彼女だ。
…そう、その筈なのだ。
「勘弁してくれよ…ていうか、お前そんな事言うキャラじゃなかっただろ?」
「おや、それは君の勝手な思い込みだよ。
これが本来のボクさ。君くらいにしか見せない本当のボクってやつ」
「そんなプレミア要らないから俺の前でも猫被っててくれよ!」
…そう、品行方正、才色兼備。まるで王子のようだと彼女に憧れる女生徒が今の姿を見たら卒倒するだろう。
生徒会長、シド。
彼女はある特定の人物と二人きりになる時だけ、その厚い化けの皮を脱ぐ。
「アハハ、そう照れずに!
あ。そのお菓子一口頂戴。」
「嫌だよ、前それで全部持ってったろ」
呆れたように、菓子を庇うこの火傷の青年。彼は、古賀集。
心優しく、誰かの役に立とうと生徒会以外にも様々な者を手伝っていたら、いつの間にか生徒会長とこのような関係になっていた。
何故だったか?実の所、彼自身もよく覚えていない。
「んじゃ、これ代わりにやるよ」
「?」
そんな古賀青年が渡したのは、菓子ではなく、一つの小さな円柱。
「リップクリーム。
血が出たのも乾燥してたからだろ、きっと」
ふと、不可思議な沈黙が場を包む。
古賀からすれば、どうせいつもの皮肉じみた言葉が飛んでくるのだと思っていた。
しかし実際は、シドは投げられたそれを、やけに大切そうに両掌の上に乗せ、茫然としたように眺めていた。
「あ、ありが、とう」
「…んん?」
普通の礼を言われた事に、違和感。
怪訝に思い、その顔を見てみると、妙な顔をしている事に気づく。
ああ!と、手を叩いた。
「安心しろよ、それ新品だから。
俺の使い古しとかじゃないって」
「……」
「いや、他の人にも配ろうと思っててさ。
安く売ってたからいっぱいあるんだ。
だから借りに思う必要もないぞ」
「…」
ふと、部屋の気温が少し下がった気がした。
しかし暖房は常に一定で、変わりはしない。
はあぁぁ…と、大きな溜息が部屋に放たれる。
「あーそうだろうね。そうだろうよ。君はそういう人だ。君は誰にだって優しいもんね。ふん。知ってたよーだ」
「お、おい、どうしてそこで怒るんだよ。
中古を押し付けたりもしてないし、むしろ感謝される事じゃ…」
「うるさい、ばーか」
そういうところが君ね…と、ブツブツ呟くシドを、理解もできずにただ眺める。
何を間違ったのだろうか。
最適解だったはずなのに、と。
困ったような顔をしてたのはそうではないのか?と、見当違いの事ばかり。
「やれやれ、感謝を覚えるのが馬鹿馬鹿しくなってくるよ…まあそれについては今はいいや。ありがとう。早速使わせてもらうよ」
「え、ああ」
返事も待たぬ内に少女はその華奢な指できゅぽん、と蓋を外し、リップクリームを唇に、患部になぞるようにゆっくり塗る。
唇の形を確認するように、なめらかに、上と下の両方に、じっとりと時間をかけ。
それだけの動作が、まるで何か艶美な雰囲気を醸す儀式のように思えた。
赤い目がまるで魔性そのもののようだった。
「…ふう。それじゃ、ハイ」
「えっ?」
古賀は、投げ返されたそれ…リップクリームを、惚けたようにキャッチをする。
「どうせキミ、自分の分は買ってないとかなんだろ?だからそれ使って。」
「は?いやいや、だからこれはお前にもう譲ったんであって」
「馬鹿にしないでくれるかな、リップクリームくらい自分のものがあるよ。…まさか本当に持ってないと思ってたの?」
男の思考が、唖然と止まる。その顔を見て愉快そうに生徒会長は顔を歪めた。
「フフフ、でもありがとう。
その善意は本当に嬉しかったよ。本当に」
「え、それじゃ何で使ったんだ…!
っていうか俺リップなんて要らないし!」
「うん?」
「いやだって、男だし、そんなクリームを塗る必要も機会も無いだろうしそれに…」
「…ちょっと勘違いしてない?」
そう言うと、シドがずずいと距離を詰める。
息と息が触れ合うような、そんな距離。
赤い目に射竦められるような、近さで。
「ボクは、キミに命令したんだ。
『これを使って』って。
お願いじゃあなくて。め、い、れ、い」
「…!ち、近……!」
「キミは自分の意思じゃなくて、ボクの意思でそれを使うんだよ。ボクが一度使った『それ』を、ね。皆の前で、判らせるように」
「わ、わかったから離れろって!」
本当は、何を言っているか何一つ判ってはいなかったが、その、あまりにも心臓に悪いシチュエーションから逃れる為にそう言う。
だがその懸命の努力は身を結ばない。
「いいや、何も判ってないよ。キミは。
だからホラ、眼を少し、瞑って…」
赤い目から逃れるように、少しでも正気でいられるように、すがる様に、言われるがまま目を瞑る。
すると、次第に青年の唇に何かが触れた。
それは湿っていて、少し冷たくて…
…冷たい?
眼を開けた。古賀の唇に当たっていたものは、シドの手にするリップクリームだった。
「…ク、アハハハ!なんだいその顔!
ひょっとして、キッスでもされると思ったかい?期待しちゃった?」
「…うるさいな…」
「フフ、いやぁ、キミもこんな顔するんだね。頑張ったかいがあったってものだよ」
照れに耐えきれなくなったように古賀はその部屋を出ようとする。
その間際にシドは語りかける。
「あ、そうそう。ちゃーんと使ってね、そのリップ。無いとは思うけど誰かに譲ったり、捨てちゃったりしたら……」
「……多分赦さないから」
ぞくぞくと、少し寒気を感じながら部屋から出る。そして、いつの間にか胸ポケットに入っている、くだんのリップを取り出した。
蓋を開けると、彼女のものと思われる赤色が少しだけ白の中に付いていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
…一人となった部屋で、シドは先ほど古賀の唇に塗り当てたリップを手に持つ。
これは、いつも自分が使ってるものだ。
ここ数ヶ月使い、すっかり自分の唇の形を覚えたもの。
その形が、少しだけ歪んでいる。
誰か別の、男の唇の形に。
迷わずにそれを、彼女は自分の唇に当てた。
赤い目は、魔性そのもののようだった。
…
……
…それは、ボクが彼に関心を持った時の記憶。
彼を初めて、面白く思った時の顛末だ。
初めて見た時は、正直気にも留めなかった。
背丈が大きいなぁとか傷があるねとかは思ったが、まあ別にそれだけ。
少しだけ目についたのは、迷い犬を拾ったという誰かに、その当人よりも必死にその犬について頭を悩ませてた所だ。
面白いとは思ったが、どっちかというと見世物小屋を見てるような風情だった。好奇と、僅かな侮蔑が混じるようなそんな。
正直、くだらないとも思っていたし…
…なんというか、見下していた。
ある日の帰り道。小腹が空いて軽く食べようとそこらのファスト・フード店に入った。
そういった所に入るのは結構久しぶりで、少しワクワクした反面、解らない事が多い。
聞かぬは一生の恥とも言うし、店員を呼んで聞いてみる事にした。
メニューを眺めながら店員が来るのを待つと、その影がぴしりと固まった気配を感じた。
その影は、ヤケに大きかった。
「…やっほ。見た事がある顔だ」
「……ど、どうも」
取り敢えず挨拶をしたが、何も頭に入っていないようだった。ハハ、あの時の冷や汗の量は…ガマの油の逸話が頭に浮かぶくらいだ。
まあ、密告なんてするつもりもない。そんな事したところで、下手にボクの手間が増えるだけな上、逆恨みまでされかねない。
何より、ボクは普通にこの間食を楽しみたかったのだ。
だからその旨だけ伝えてゆっくり味わって、そのまま帰った。
翌日以降、話しかけられたりはするかと思っていたが、本人も飛び火を恐れてかそういう事はしてこなかった。
…代わりに、馬鹿みたいにこっちを見ていたが。それなら一思いに話しかけて貰った方がマシだったというものだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
「前も思ったけど。
アンタ、こういう所来るんだな」
また別の日。
ボクはまた来店していた。
あの日以来、少し戦々恐々としてたが別にこれといった事は無く。すっかり安心しきった彼は、その日客が少なく暇だった事もあるのだろう。話しかけてきたのだ。
こういうところに来るのか。そういった偏見や、謂れのない憧れ。勝手に想像して、勝手に裏切られたとか言うつもりか、こいつは。他の奴らみたいに。
「人の事を何だと思ってるんだ。
そんなにお高く止まってるように見えた?」
そんな苛立ちをそのまま、言った。
しかしそうすると、そいつは本当に申し訳なさそうにオロオロとし始めた。そんなつもりじゃなかったと。そして、こう言った。
「…悪い。そういうつもりじゃなくてさ。なんかこう、アンタ…どこか遠くから俺らを見つめてるってか、関係無いものとして見てるような気がしてたからさ」
「…」
「き、気ぃ悪くしたならごめんな?
悪気があった訳じゃないんだ、ほんと」
砂を噛んだ様な気がした。ボクが遠くから見つめてる?馬鹿を言え、遠くから勝手に見つめているのは周りの方だろう。
…とは、不思議と言葉に出なかった。
代わりに口から出たのは、自分でも覚えていないような軽口。
「…ふうん、ここの店はカウンセリングでも副業でやるつもりかい?」
「君の趣味だっていうならやめておきなよ。人ってのは図星を言われたら、怒るものだ」
そう、乱雑に言い放った。
そこからは一言も話せはしなかった。
漫然と、店から出た。
頭がどこかぼやけるような。
そんな、不思議な感じがした。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「やあ、潰れかけって感じだね」
「……おお」
「前と同じセットで頼むよ。
覚えてないかな。幾分か前だしね」
「いや、覚えて…ますよ。
少々お待ち下さい」
彼は今更ながらに、バイトらしく敬語を使う。
本当に、今更だが。
「どうせ、暇だろう。
なら話でも聞かせてくれないかい」
そう、言った。
なんだか、もやもやとして仕方がなかったのだ。
彼の言うことを聞かねば、それは晴れない気もしていた。
「君、どうしてわざわざバレたらまずいとわかっていながらバイトを。苦学生なのかい?』
その答えはボクは知っている。
知っているが、それでも口から聞きたかった。
彼は、照れ臭そうに頭を掻き、そして言った。
「…実はさ。クラスメイトに犬拾ったって奴がいんだけど、それのワクチン代とか色々馬鹿にならなくて。それを稼ごうと思って」
返答は、そんな間の抜けたものだった。
自分が飼うわけでもないし、それを当人に要求された訳でもないのに。それなのにわざわざ働き、それに費やすというのだ。
馬鹿馬鹿しいとも思った。
いや、きっとボクはそれを…
「…優しいねぇ。
君はそんなに『いい人』になりたいのかい?」
皮肉たっぷりに、そう言った。こんな事を言うつもりでは本当はなかったし、表面的にでも褒めそやすつもりだったのに。
…多分、気に入らなかったんだと思う。
誰かがやれと言ったわけでもないのに、自分が努力して助ければいいというようなその、エゴにも近しい優しみが、何故か苛つく程に気に食わなかったのだ。
はっと思い直し、なんと取り繕おうかと彼を見た。
彼はただまっすぐな眼をしてこっちを見つめていた。
「ああ。俺は出来るだけ『いい人』で居たい。大きなお世話かもしれないし、余計かもしれなくても、それでもだ」
「それが多分、俺って人間の本質だから。
それに嘘つきたくはないんだ」
まだ照れ臭そうに。でも、迷いは一片も見せずに彼はそう言い切った。あろう事か、こうも言った。
「きっと、史桐さんもそうだろ。じゃなきゃあんなに、誰かの相談に乗ったりなんてしないじゃんか」
「……そうかな、そうかもしれない」
「絶対そうだ。
史桐さんもすごく優しいんだって」
……ボクが、優しいだって?
そんな事言われるのは、なんというか…
「……さん付けはいらない。同年齢だろう」
「ん、そっか。クラスメイトだしな」
「ああ。それに、気軽にシドと呼びなよ…」
…
……
クラスの友達に、ワクチン代を渡した。
最初はこんな大金受け取れないと言っていたが、これから先その犬を可愛がりにいかせてほしいからと、無理矢理握らせた。
その後、どうやらそのまますくすくと育っていっているらしい事を聞いて安心した。
「よかったね。君の努力は身を結んだみたいじゃないか」
机に座ると、そう声をかけられた。
隣からの声。
隣からは初めて聞く、声だ。
「…学校で話しかけられるの、なんか新鮮な気分だ」
「ボクも新鮮だよ」
「そりゃそうだな。
…で、急にどうしたんだ?」
「シンプルに、興味を抱いたのさ。君に」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「シンプルに、興味を抱いたのさ。君に」
そう、一連の会話と行動。
ボクは彼に著しく興味を抱いた。
一挙一動が面白い。考えが、普通とはまた違う。見た目じゃない、中身が変だコイツは。
「ところで、もうバイトはいいのかい?
最近はすぐ帰ってるみたいだけど」
「…はぁ、あそこ結局潰れちまって。
必然的に俺もクビになっちまったんだよ」
「へぇ。それじゃ、暇になったんだね」
「ま、今のところはな」
今なら、何故わざわざあそこに通い続けたかの理由がわかる気がする。保守的だから故にではない。
ボクの心が確信をしていたんだ。
久しぶりに、楽しみに心が笑った。
あの時確かに予感がしたのだ。
「ならば丁度いい!是非君に手伝ってほしい事があってね!どうも今の生徒会に人手が足りなくて–––」
ああ、そうだ。予感。
共にいれば面白い予感。こうしていれば何かが起こる予感。このつまらない日常の、変わる予感!
凜然と保ったはずの心を苛立たせてくる。整理した筈の持論を崩してくる。馬鹿馬鹿しいまでの善意を押し付けてくる。
嗚呼なんて、なんて…なんて楽しい男だろう!
「…だから君。生徒会に来て見ないか?」
ニッタリと笑いながら、ボクはそう言った。
彼の引きつった笑みが、赤い眼に映った。
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