18 パン屋の娘と靴屋の息子
詩人の詩にも「父なる川」と度々詠われたのは、太い動脈のように堂々と王都を走るバーン川である。が、あまりにも有名なこの川と海の手前で交じり合う河川がもう一本あり、それがフレイル川であった。バーン川に比すれば細く、川幅狭く、眺望ももう一つといったところであるが、王都に暮らす人々にとって重要な動線であることは間違いない。
俺はエルムント・プレイスといわれる辻広場から、フレイル川沿いにゆっくりと北西に上ってティアー橋を目指していた。つい先刻まで日没の余韻を惜しむ空は仄かな藍色を残していたというのに、冬の夜はあまりにも性急だ。今はもう天空に漆黒の外套を隈なく広げて、襟飾りのように白く煙る薄雲の陰に星の煌めきをちりばめている。
俺が昼前にスノーデン・スクエアを出発するころ、アデュレイはまだ探索の魔法を完成させていなかったが、今はどうしているだろう。プリシラとエリザから借り受けた帯飾りを使って目当ての人物を見つけ出す術式の展開に成功したろうか。
実のところ、こういう事態になると知っていればキースが手の届く範囲にいるうちに、髪の毛とか爪のかけらといった肉体の一部を奪い取っておくのだった。そうすれば、俺の力でも対象を追跡することができたのだ。
ただし、これは神聖魔法ではなく、魔王リリウの能力の方を行使して実現するのであるから、披露せずに済むものなら披露せずにおきたいものだ。そのようなことができるということさえ、他者に知られたくない。
それに、いずれにしても奴から肉体の一部を剥ぎ取る機会は失われたのだから議論の余地はない。今は地道に捜査するのみだ。
「カンテラは俺が持ちますよ。」
俺は、連れ立って歩くエリザに声を掛けた。
今、俺はエリザと共に変装をして街を歩いているところだ。エリザは少し癖のある金褐色の髪を、庶民がするように簡素なキャップに押し込んで、暗青色のドレスの上にはやけにポケットの大きなエプロンを着けていた。寒い季節とて襟巻と外套も着用しているが、その色はヘイヴンで流行中の朱色である。赤色ではなく、紅色でもなく、朱色である。
このレッドなのかオレンジなのか判然としない色合いが庶民に人気で、この冬、少しでも自分を裕福そうに見せたい者は、このような色合いの襟巻や外套を身に着けたがっている。おかげで変装するこちらとしては、街に溶け込みやすくて助かった。
「リー・リー、私に敬語は不要だぞ。パン屋の娘と靴屋の息子という設定なのだからな! 荷物持ちも自分で十分だ。リー・リーに負けず劣らず、私も力持ちだからな。」
エリザは右手のカンテラと左手のパン籠を交互に持ち上げてみせると、うれしげに俺の言葉遣いに注文を出した。こうしていると、なかなか可愛いが――全くもって、エリザは猛烈な傭兵レディであった。
アデュレイが探査の魔法を成功させてキースの居所を突き止めるまで待機するという、この空白の時間が彼女には耐えられなかったらしい。市街地に単独調査に出るといって聴かないので止めてほしいと、ボウ・ハウスから早馬で要請が入ったのが今日の昼ごろだ。
早速、俺は説得に赴いたのだが、あえなく失敗した。エリザの意志強固なことといったら、へそを曲げたロバもかくやという頑固さであった。次善の策として、俺は自分も変装して付き添うことを提案し、これは受け容れられた。それから早馬を飛ばして市街地に乗りつけ、今ここに、こうしているというわけである。
近衛のグランも、当然、置いてきてはいないが、どこをどのように拵えても傭兵にしか見えないので捜査への参加は却下である。聞き込みや周辺調査に加わることをエリザに許されなかったので、距離を空けて、俺たちの背後についてきている。
「ところで、お嬢さん…、」
このとんでもない事態にあって、漸く落ち着きを取り戻した俺は、周囲に目を走らせながら威勢悪く呟いた。
「パン屋の娘だの、靴屋の息子だのって設定は必要ですか?」
俺は設定に基づいて野暮ったい辛子色のニット帽を被り、だぶついた作業服を着て周囲に溶け込んでいる。俺はともかく、エリザは、パン籠を抱えていようが麺棒を振り回していようが商家の娘には見えないだろう。
姿勢がよすぎる。動きにめりはりがありすぎる。発音が明瞭すぎる。どこか、一風変わっているのだ。百歩譲っても、兵士の娘といったところか。
「もちろん、設定は必要だとも。相手が貴族とわかっていて世間話をする者などいないし、傭兵が聞き込みをしても用心するだろうからな。」
「はあ。しかし、エルムント・プレイスの辺りはもう城兵が調査済みだったでしょ。大した話は聴けませんでしたし、いっそ、これからアデュレイの旦那のところに行きませんか。そっちの収穫を待った方がいいかも知れませんぜ?」
「何だ、リー・リーはやる気がないのか?」
エリザは不機嫌そうに口をへの字に曲げた。
「やる気がない者は帰っていいぞ! 私一人でも聞き込みを続ける。」
「何をおっしゃってるんですか。ティアー橋の辺りは歓楽街ですぜ。お嬢さんが夜に歩き回っていいような場所じゃありません。」
「あいにく、私は傭兵上がりだからな。もっと危険な場所も経験済みだ。」
「いやいや、お嬢さん、グランに聞きましたよ。お嬢さんが『蒼穹の猛き鷹』に所属していた間も、要人警護専門のチームにいたんでしょ。危険な目に遭ったことも、そりゃ、おありでしょうがね。野戦や魔物の巣に放り込まれるこたあ、なかったはずです。」
エリザは事情があって国元にいられず、成人してすぐ隣国の傭兵団で活動するようになったのだが、エリザの兄が団長に報酬を払って後見を頼んでいたために、比較的生存率の高い現場に投入されることとなったのだ。出自が貴族ということもあって、要人警護の業務は打ってつけだったことだろう。
「何だ? リー・リーは、私が場数を踏んでいないと言うのか?」
「や、そんなこたあ、言っていませんぜ?」
俺は慌てて言い募った。
「そうじゃなくて、歓楽街を歩き回るんだったら、俺がやりますぜって話です。お嬢さんに何かあったら、お兄さんは血を吐いてぶっ倒れちまうかも知れませんぜ? あの人に、これ以上の心労を与えるべきじゃありません。」
「兄は心配性だからな。」
エリザは、困ったものだというように二、三度、頷いた。
どちらが困り者なのか、よく考えてほしいものだ。
「さて、男というものは、歓楽街に行くというと男だけで行きたがるのはなぜだろうな。」
「はっ?」
全く的外れな指摘を受けて、俺は右側を歩くエリザの顔を穴の開くほど見詰めた。
エリザは、なぜか勝ち誇ったように俺の目を見つめ返した。
「神官殿も男というわけだ。だが、今夜ばかりは浮かれ騒ぎは禁物だぞ。人死にが出ているんだからな。真面目にやってもらわないと。」
「俺はいつだって真面目です!」
とんだ濡れ衣だ。ヘイヴンに来てから今まで、歓楽街で遊んだことなど一度もない。休暇をもらっても、やっていることといえば、王立病院のハーブ園で働いたり薪割りをしたりすることだというのに。
「これは失礼した。」
エリザは口先で謝ったが、にやにやしている。だが、いやな感じではない。エリザは、最終的に自分の要求が受け容れられると確信しているから、このような態度を取っているのだ。
今、このときだけ見るとわがままな娘のように見えるが、エリザは幼少期から並々ならぬ苦労を重ねている。実の親に殺されかけるという経験だけでも悲惨だというのに、二番目の兄が命を落としたのは自分が隣国に逃れたせいだという罪悪感にも苛まれている。
それを思えば、大概のことについては、希望を叶えてやりたいという気持ちになる。恐らく、彼女の兄のライオスもそういう考えなのだろう。そうでなければ、エリザは目下婚約者も持たないのだから、年内に一件か二件の見合いを押し付けられることになっていたはずだ。
「リー・リーにも兄の心配性がうつったのだな。こう見えても、私は…、」
俺が諦めたとみて、意気揚々と歩を進めるエリザの肩を、後ろから抱え込んで少し引き寄せた。
エリザは驚いたのか、いったん言葉を切った。俺は顔を寄せて囁いた。
「さっき通り過ぎた路地から、ネズミがついてきやしたぜ。二人です。」
エリザが微かに頷いたのを確認して、俺は声を大きくした。
「わかったな! 配達の途中なんだから、あんまりはしゃぐんじゃないぜ? 売り上げをなくしちまうぞ。」
幼馴染に忠告する体で、抱き寄せた肩を軽く叩いた。
この調子で演技力を付けていけば、いつか劇団の俳優になれるかも知れない!
俺は背後の気配に注意を向けながらも、この迫真の演技をアデュレイに見せられなかったことを、いささか残念に思っていた。
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