17 ボウ・ハウスへの招待再び
ボウ・ハウスからの早馬がスノーデン・スクエアに到着したのは、昼前だった。
アデュレイは朝食も書斎で済ませて、あの魔法書、この魔法書と十数ページずつ摘まみ読みし、檻に入った熊のように唸りながら歩き回っている最中だった。休暇中に実家で遊び惚けていた学生が、試問直前になって一項目でも多く頭に詰め込もうとしているときは、このようなありさまだろうか。
しかし、そのような体たらくであったのに、
「レディ・プリシラからの急使だって?」
俺が使者から便りを受け取って書斎に持って行くと、一瞬で様子が変わった。
寝間着姿だというのに、目の前に使者がいるかのように滑らかな動きで椅子から立ち上がった。そして、美しい文様が刻まれたシルバートレイを俺が差し出すと、その上に載った手紙をすぐには取り上げず、慈しむような眼差しで見守った。
「見たまえ、直筆だ。代筆ではない。」
感に堪えない様子でそう呟くと、軽く首を振った。
まるで乙女である!
「旦那は、本当にレディ・プリシラがお好きなんですね。」
わかっていることではあったが、思わずそう言うと、アデュレイは鋭くこちらを見た。
「当然じゃないか。以前からそう言っているだろう。彼女ほど、聡明で麗しいご婦人はいない。毅然として…、ああ、しかし、」
若干、悔しそうに手紙に視線を戻した。
「彼女が僕に見せているのはほんの一部分、表に出しても差し支えない部分だけだ。今回、彼女の抱える問題のうちのたった一つだけ、僕が解決してさしあげることができた。もっとお役に立てるということを、どうにかしてお伝えしたいものだ。」
「お悩みのところを、申し訳ないのですが。」
俺は軽く咳払いして、アデュレイの恋愛談が展開する前に横槍を入れた。
「一階で使者がお待ちです。馬車も待たせてあります。早くお読みになった方がよろしいかと。」
「それを先に言いたまえ!」
理不尽な叱責を受け、俺は憮然として、
「そりゃどうも、申し訳ありませんでした。…」
詫びの言葉を呟いた。
アデュレイはペーパーナイフで封を切り、ここに至ってまだ、「花の香りがする」とか何とか言って余計な時間をかけていたが、ついに便箋を取り出すと、真剣に読み始めた。見る見るうちに、表情が変化した。真剣な表情から、軽い驚き、こらえきれない笑み、そして戸惑いへと。
「ボウ・ハウスに赴かなくてはならない。」
一度読み終えた手紙を、再度読み直しながら呟いた。
「来てほしいと書いてあるので?」
「そうだね。レディ・エリザが市街地に単独調査に出るといって聴かないので、思いとどまるよう説得してほしいと書いてある。」
「はあっ?」
俺は驚き呆れて、思わず声を上げてしまった。
さすが元傭兵。考えることが違う。グランはともかく、プリシラも抑止力にならないとは、さながら暴れ馬である!
「レディ・エリザの兄君から強く言っていただくことはできないので?」
「あいにく、今日は王宮に参上なさっているようだ。急に呼び出すことなどできないのだろう。」
アデュレイは手紙を丁寧に折り畳み、引き出しに仕舞った。
「ちょっとお待ちを。まさか、今からお出かけになるおつもりじゃあないでしょうね?」
「出るよ? お困りなのだから。」
「それじゃあ、宿題は終わったんですね? 恐らく訊かれますよ?」
俺は自分の左手で右肘を掴み、その右手に持ったシルバートレイをもって貴婦人の扇でそうするように口元を覆い隠すと、女声に寄せて裏声を出した。
「アデュレイ卿! こちらにおいでということは、もう新しい魔法に成功なさったのですねっ。…」
役者ではないので、ひどい棒読みになってしまった。
元の姿勢に戻って、
「…と、まあ、こんな感じのことを言われるんじゃあないですか?」
肩をすくめると、アデュレイは眉間に縦皺をつくり、呻き声を出した。
「まさか、今のはレディ・プリシラの物まねか? ひどい侮辱だ! 金輪際、そんな真似はよしたまえ。君と決闘したくない。」
「お気に障ったんなら謝りますが、宿題もできていないのに、行ってどうするんです。物事には優先順位ってものがありますよ。」
何ということだ。エリザの暴走がこちらに伝染しそうだ。
恐るべき影響力!
「旦那、宿題をやるか、それとも寝室に行って少しでも睡眠を取るか、どちらかにしてください。お願いします。こちらの用件は、ここに控える旦那の忠実な従者が何とか始末をつけますから。」
「しかし…、」
まだ何か未練がましく呟いている。
「せっかくのボウ・ハウスへの招待なのに…。」
そうだろう。気持ちはわかる。
あのノーズ・ヘイヴン地区の瑞々しい空気、冬の立ち枯れさえも水晶のごとく映る硬質な美景、その奥に宝玉のようなタウンハウスが鎮座して、美しき女主人が待ち受けているのだ。
行きたいだろう。わかる。
「それでは、少し支度してから行って参ります。」
俺は殊更に恭しく一礼すると、意気揚々と扉に向かった。
書斎の扉を閉める前に、頭を低くして、
「どうか旦那様は、休息をお取りください。いざというときに、正しい判断ができますよう。」
厳かに告げた。
「待ちたまえ。」
アデュレイが命じたので、俺は閉じかけた扉をぴたりと停めた。
この期に及んで、まだ何か?
「それなら、僕が君にこの件を委任する旨したためるので、出かける前に知らせてくれたまえ。手紙を運んでもらう。」
「承知しました。」
俺は再度、一礼して、扉を閉じようとした。
「リー・リー。」
また、呼び止められた。
「便箋はどれがいいだろうか。手紙に何か添えるべきか?」
そわそわしている。
ご婦人に手紙を出す機会など、今までいくらもあったろうに、今更何を迷っているというのか。やはり、睡眠不足で血迷っているのだろうか。
「ハーティーが香木の匂いを染み込ませてくれたやつがあったでしょ、あれにしたらどうですか。甘い匂いだし、俺はエインディアの植物のことはそんなに知りませんが、青春の喜びとか、不滅の若さみたいな意味がある香木みたいですよ。」
「いいね。それにしよう。」
改めて、扉を閉じようとした。
「ちょっと。」
今度は予想していた。呼び止められて、俺は再び扉を開いた。
「はい?」
「手紙には何を添えたらいいと思う?」
「旦那…、」
俺はため息混じりに首を振った。
「恋文を書こうっていうんじゃあないんですぜ? 今回の用件に対する返書に、砂糖菓子か何か付けて遣ったら逆におかしいでしょう。」
「むう、違いない。」
アデュレイは観念したように呻いた。ついに、俺は書斎の扉を閉じた。そして、すぐに走り出した。
階上の自室に行って、一通り身なりを整えねば。
迎えの馬車がなければ、自分でひとっ走りしたのに。そうした方が早いのだから。そうしたら、途中で半月湖に立ち寄ってノーズ・ヘイヴンの森を堪能する時間ができたものを。少し息抜きしてからボウ・ハウスに向かっても、十分、時間に余裕があったはずだから。
そうだ、馬車で向かうんだったら、ハーティーに弁当を作ってもらおうか。こっそり持ち込もう。匂いのしない食べ物ならいいだろう。薄切り肉をパンに挟み込んだやつなんて、どうだ。飲み物も要るな! 向こうに着いたら、上品なフレーバーティーを存分に振る舞っていただけるのだろうけれども。
アデュレイには申し訳ないが、気持ちが浮き立つものは仕方なかった。不謹慎だが、ちょっとしたピクニック気分だ。たまにはいいだろう。いつも忠勤を尽くして励んでいるのだから。
俺はアデュレイの手紙を預かり、伴走する使者に挨拶をして豪華な馬車に乗り込んだ。その車窓から景色を楽しんでいる間は、この先、俺を待ち受けている難関がいかに手ごわいものか知る由もなかった。
俺は、エリザという女性をいささか誤解していたのだ。まさか、あれほどとは――知らなかったのである。
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