6 忠実な従者ハーティー
散々な夜だった。アデュレイも同じように感じているのだろう。いつも起こすのに一苦労だが、今朝は自発的に起床してきびきびと身支度し、無駄口もきかず朝食をしたためている。
無論、〈見えざる従者〉という、姿の見えない魔法の従者が付き従って、服を着せたり給仕をしたりといった一連の面倒を見ているのである。
アデュレイの居宅に初めて連れて来られたとき、この不可視の精霊に出迎えられて驚き呆れたのを覚えている。あれから二か月余り経ち、俺は先輩従者の「それ」にハーティーと名前を付けてうまく付き合っていた。
見えない、触れない、話せない存在だが、知性は高いのだから、感情がないと決めつけることはできないだろう。二百五十年近く一人で引き篭もっていたせいか、どうも俺には物や動植物にまで適当な名前をつけて話しかけるという癖がついてしまっているようだった。ましてや、共に過ごす同僚とあっては。
「えっ、旦那がブルーのインヴァネス・コートをお選びになったのか?」
そろそろアデュレイの朝食も終わりそうとみて、俺はドレッシングルームに入り込んで本日の外出着を点検した。〈見えざる従者〉のハーティーがせっせとブラシを掛けているコートは、アデュレイにしては実に無難な選択だ。俺の感想を気にしたのか、コートの上で動いていたブラシが空中で静止した。
「それなら、下はトラウザーにしようぜ。ダークブルーのがあったろ、あれで引き締まるってもんだ。」
俺はクローゼットに突進して、細身のトラウザーを見つけ出した。それを持って出てきたが、ブラシと黒のブリーチズが空中を右往左往している。俺は服を持っていない方の手を大きく振った。
「だめだめ! 今日は寒いんだから。ここにいる間は俺の神聖魔法で全館暖房できるけど、外では気軽く魔法が使えないんだよ。このダークブルーのトラウザーを穿かせた方がいいって。」
差し出して、押し付けた。
「これがいいんだって。タイトだから足元がシュッとするぜ? 絶対、気に入るから。俺から旦那に話すしさ。」
戸口の方で、わざとらしい咳払いが聞こえた。俺は驚いて振り向き、ハーティーはトラウザーを取り落としたのか、衣服が床に落ちた。すぐにまた浮かび上がる。
「ノックもしないで、失礼。」
アデュレイがこちらを見ていた。シャツの上にシルクのドレッシングガウンを引っ掛けたなりで、軽く曲げた右腕を戸枠に当てて身を支えている。緩いウエーブの入った黒髪は、きれいにまとまっている。シェービングも完璧だ。
「どなたかおみえになっている?」
「誰がですか、旦那?」
「僕が訊いているんだよ。誰かと話していたろう?」
「誰って、いつもいるでしょ。」
俺の横で、ブラシとトラウザーとブリーチズが完全静止している。俺は右手を開いて、彼を見よといわんばかりに示した。いや、見えないのだが。
「ハーティーですよ。」
「ハーティー?」
「旦那の忠実な〈見えざる従者〉ですよ。」
「君…、〈見えざる従者〉に名前を付けたのか?」
改めて問われると、何だか恥ずかしくなってきた。児戯のようだと思われたろうか。
「ハーティー、旦那に見せてやんな。」
振り切るように、傍らのハーティーを焚きつけた。すると、ダークブルーのトラウザーが一際高々と持ち上がった。
アデュレイは目を丸くして、フラグのように掲げられたトラウザーをまじまじと見つめた。そのまま返答がないので、気弱げにトラウザーが下がり、ブラシと重なり、代わりに物問うようにゆっくりと黒のブリーチズが持ち上がった。
「ああ、」
アデュレイは戸枠から腕を離して姿勢を正し、両手を揉みながら忙しく瞬きした。
「うん、そうだね。トラウザーの方がいいだろう。よく勧めてくれたね、ハーティー。ありがとう。君のお勧めを穿くとしよう。」
アデュレイは適応力の高さを見せて、もうすっかり「ハーティー」を受け容れたようだった。一拍の間を置いて、黒のブリーチズが下げられ、勢いよくダークブルーのトラウザーが掲げられた。
「うん、うん、そうしよう。そちらにするよ。」
もはやどうしようもなく笑顔になったアデュレイは、何度も頷いてみせて、それから俺に視線を移した。
「君には驚かされるよ。」
「こっちの台詞です。」
俺は即座に言い返した。
「何なんですか、昨夜のあれは。」
エラという占い師は、在留証を所持し、アデュレイの使用人を騙って国際倶楽部に入り込み、営業を行っていた。昨夜は時間も遅く、入城時の審査を行った城兵から聴取することもできないので、恐らく偽造の在留証だったのではないかとの推論で終結した。
それにしても、当のアデュレイが参加するサロンに呼ばれ、あまつさえ本人と間近で対峙したというのに、実に堂々たるものだった。あれほど肝が据わっているとは、詐欺師として相当のものだ。
「昨夜のあれには、僕も参ったよ。」
アデュレイは目を閉じて首を振った。
「ここで話し声がするから、また僕の知らないうちに与り知らない使用人が増えているんじゃないかと思って肝が冷えた。」
「実際、使用人を増やしたって構わないんですよ。俺が加わるまで、ハーティーしかいなかったじゃないですか。」
「別に不自由はなかったが?」
「ハーティーだって、読書したり、音楽を聴いたりする時間が欲しいかも知れないでしょ。」
アデュレイはショックを受けたようだった。いい気味だ。
「考えたこともなかったよ。」
アデュレイは首を振りながら呟き、改めてハーティーがいる…と思われる…空間に身体を向けて丁寧に詫びた。
「すまなかったね、ハーティー。この屋内で僕が占有している領域では、好きに余暇を楽しんでくれて構わないよ。働くばかりでなく、休養を取ってくれたまえ。」
空中で、ブラシが勢いよく揺れた。奥ゆかしい奴め。
「では、旦那、着替えますか。今日は昼前にお出かけになるんでしょ。」
「ああ、そうだね。あの占い師の、入城時の記録を確認しに行かずばなるまいよ。僕の名前が出たのだからね。一定の責任がある。」
アデュレイがドレッシングルームの窓の近くに立つと、有能なハーティーがドレッシングガウンを脱がせて着付を始めた。俺は、少しでも多く明かりが入るようにカーテンを左右に広げた。
「偽造ではないかも知れない。」
唐突に、アデュレイが呟いた。俺は手を止めて振り向いた。
「どういうことで?」
「盗まれたのかも知れない。僕の実家からは、数か月置きに使用人が寄越されるんだ。父は、僕がヘイヴンで遊び呆けているんじゃないかと疑っている。だから、僕の一挙手一投足を見張って、逐一実家に伝える間者のような従者をヘイヴンに置きたがっているのさ。」
「ものすごく妥当なご心配じゃないですか。」
「何を言っている? 日々、この上もなく真面目に良縁を探しているじゃないか。」
「今まで寄越された従者はどうなったので?」
「二日か三日しか持たないんだ。大方、幽霊が出るなどと言って出ていくのさ。腑甲斐ない連中だろう?」
今、合点がいった。従者といえば〈見えざる従者〉しかいないのに、なぜかさまざまなサイズの従者の仕着せが収納されていることを不思議に思っていたのだ。
こんなとんでもない理由だったとは!
「しかし、従者が寄越されるときは護衛もつくでしょ。旦那のご実家は裕福なんだから。」
「そうだね、だから、盗まれたとすればどのような事態なのか、いやな予感しかしないんだが。」
「ご実家に連絡するべきでは?」
黙った。黙り込みやがった。
「旦那! 大事になってからじゃあ、遅いですぜ。いや、もう大事になってしまっているのかも。魔法の伝書鳩があるでしょ、あれで急いで報せをおやんなさい。」
「鳩じゃないよ。」
「鳩でも鷹でもいいから。状況を知らせ合うべきです。ご実家には、魔法の遣いをやっても驚かれないんでしょ。じゃあ、少しでも早い便でおやんなさい。」
アデュレイは、実家の話をするといつもそうであるように、渋い顔をしていた。
しかし、俺の助言に従ったことを、のちに感謝することになるのだった。
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