ツマビクコトバ
皆月 惇
雨、待つ君
特に何かを感じたわけでもないのに、なんとなくずっと覚えていることがある。
大学2回生の時に行ったライブ開始前、知らないBGMのワンフレーズ。高校の昇降階段の段数。中学生の時に一度しか呼ばれたことのないあだ名。小学校はじめての宿泊行事のしおり、表紙ではなく中扉の挿絵。
歩行者信号が青になるのを待っている間、すぐ横にできている水溜まりを見て思い出す。何歳頃までまでだったか、その水溜りを覗き込んで、映った自分の姿とにらめっこをよくしていた。冴えない顔が、降り落ちる雨雫で波打つ様子が──。
そこまで考えて、ありえない情景だと脳内からゆっくりとかき消す。傘の陰に隠れた表情はきっと暗くて見えないだろうし、波打つ水面が見える入射角の着地点に自分は映っていない。だけど、反射してくる街並みもはっきりとしたものではないけれど──その先の色を持った世界は僕を取り囲み、蛇のように睨んでいる。それだけは、今この時も肌で感じられた。
何気なく覚えているあれらの記憶もきっと不安定な作り物で、想像力が接着剤となって繋ぎ止めているだけ。ぽつりぽつり、ゆらゆら、とした夢のようなもの。一層の事、そうであってほしいと思う。
信号の変化に気づいたのではなく、周囲の人々が動き出したことで現実の世界に引き戻された。斜め前方に現れた黒い傘に引っ張られるようにして歩を進める。地下鉄駅を出てから5分、靴は未だ雨による染み込みが少ないにも関わらず、やけに足が重い。
目的地のカフェまでは、あと交差点2つ分。マップでは、その角を右に曲がって少し行ったところに構えているらしい。電車の中で何度も確認したルートは目前に鮮明に映し出しているのに、次々と僕を追い越していく人の列に酔いそうになる。見知らぬ道を運転する初心者ドライバー、僕のことはきっとこう見られている。
SNSのタイムラインに上がっていた宣伝。
『都内にある知り合いの個人カフェ店で、私の作品を展示できるスペースをいただきました。小さな個展! 初めての! ……って言ってもいいよね? 場所は──期間は──』
行かなければ、と直感的に思った。どんな感情が湧き上がったか。興奮したかと思えば、ひどく不安感に襲われていた気もする。いくらか心の準備をする期間はあったが、今朝ワンルームのドアを開けるのにも躊躇する時間があった。
止まりそうな足に、右向け右と命じて視界に飛び込んできたのは、閑散とした細い通りだった。そのまま人の群れから抜け出すと、懐かしい空気感を覚える。ふわっと身体が軽くなって、風か何かに背中を押された──そんな気がした。
そのカフェは、古びた小さなビルの1階部分になっていた。ブラックボードに青チョークで書かれた店名とカラフルに飾られた個展タイトルを見て、間違いないと確信を持てた。入口の軒から滴る雨水が、看板の脚に時折かかって連続的なリズムを刻んでいる。
さあ、入ろう。家を抜け出せたのだから、簡単なことじゃないか。鼓動が速くなる。じわりと滲み始めた手を取っ手にかけようとして、薄っすらドアに映った自分の姿と目が合った。動きが止まる。
「こんにちは、いらっしゃい。入る? 入るよね」
突然ドアが遠ざかったかと思えば、カランというドアベルの音と共に女性の声が鳴った。
「雨も強いし、早く入って入って。傘は外のバケツに立てかけといて」
どれくらい立ち尽くしていたのだろうか、固まった表情は変ではなかっただろうか。そんな心配をよそに、その女性はくるりと背を向けて中に入っていった。エプロンをつけていたので、きっとここの店員なのだろうけれど、見た目の若さと相まって随分とフランクな印象だった。
言われるがまま中に入って後ろ手にドアを閉めながら、意外に広い店内を眺める。開けた構造で全体を見渡すことができ、僕以外の客はカウンターに座っている女性一人だけだとわかる。
「ほら、ナナ。お客さんだよ」
呼ばれて、カウンターの女性が振り返る。その仕草が、すごくスローモーションに感じた。記憶の中の彼女とは違う。長かった髪は肩のラインまで短く切られ、暗めのブラウンの毛先と同じようなふわりとした表情がこちらを向いている。ノースリーブの白シャツの上に、くるぶしまで伸びる丈の長いカーキのワンピース姿。椅子から降り、大人びた佇まいをした彼女はまさにアーティストそのもので。
彼女との再会は、10年ぶりだった。
「ちょっと、優里。単純にこのお店に来たんだから、あなたのお客さんでしょ」
「こんな閑散とした通りのカフェにわざわざ来る物好きなんだから、今日は“Nana”目当てでしょ」
どうなの、といった表情で2人が見てくる。素直な気持ちとは別に、ここでの正解の言葉を探していた。
「えーっと、ちょっと休憩したいなと思ってたんですけど、表の看板に書いてあったのが気になって」
ダサいな、とは思った。最善だったとも思っている。
「それはそれは。最近雨が続いて災難だけど、今日このお店を見つけたのはラッキーだねぇ」
「ちょっと優理。言葉遣いには気をつけないと」
すみません、と“ナナ”は続けて僕に言った。目が合った。でも、それだけだった。
かつての同級生との間に「ひさしぶり」なんていう挨拶はなかった。名前同様、まったくの別人を演じているのか。それとも、単純に僕のことを覚えていないのか。
「ブラックボードに書いてあった通り、今はこちらNanaの個展を開催中なの。奥に展示スペースがあるんだけど、他にも店のあちこちに作品が飾ってあるから、見てみてよ」
優里と呼ばれていた店員は、Nanaの両肩をぽんぽんと叩いてから、目立たせるように前に押し出す。今度は目を逸らしてはいけない気がした。
「あの、無理にとは言わないので……」
「いや、せっかくだから見させてもらいますよ」
気を遣うような言葉を遮って、逃げる言い訳を素早く返す。ぎこちない笑顔だったのは、多分僕の表情がうつってしまったのだと思う。
固まっていた足を踏み出して、店内奥の展示スペースを目指す。床を叩く靴の音がやけに大きく感じたが、背中から聞こえてくる女性二人の会話がすぐに打ち消してくれた。
途中の壁にも、所々彼女の絵らしきものが飾られていた。どれも色は塗られておらずモノクロのデザインで、かといってデッサン画とも言い難い。ただどれも全体としての調和がとれていて、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
座席の配置を改めたんだろうなとすぐにわかったのは、床の色模様の差が明らかに浮かび上がっていたからだ。あの店員がきっと意気込んでセッティングしたんだろう──ナナなら、きっと遠慮して空いたスペースでいいからとか言いそうだ。大小様々な作品はそれぞれ、角度・見せ方の細部までこだわりが感じられる。Nanaのためにつくられたカラフルな空間は、心まできれいに掃除する作用がありそうだ。
──ふぅ……。
懐かしい空気をゆっくり取り込んで、溜め息は身体の奥深くでこだまする。中学生以来の水彩画の色味に対する感想がなかなか出てこないのは、時代を超えるうちに言葉を忘れてきてしまったからなのかもしれない。
「……あのー」
「はいっ」
声のした方を向くと、いつの間にかNanaが立っていた。どうやら今まで音の世界から離れていたようで、驚いて変な声を出してしまった。
「優里……あ、彼女が注文はどうする……じゃなくて、どうしますかって」
時々伏し目がちに話す辿々しい様子が、彼女らしさをよく表していた──やっぱり変わっていない。そのことに少し安心感を覚えていた。
「じゃあ、ホットの紅茶をお願いします」
「かしこまりました」
丁寧にお辞儀をして、踵を返して行く。実際には店員でもないのに、その様子がどうにもおかしく──後ろ姿の先に、優里のにやにやする顔が見える。彼女の魂胆がちらりと伺えた。二人が短い会話を交わして、すぐにナナが戻ってくる。
「あの、お砂糖などはどうしますか」
「できたらでいいんだけど、ハチミツを入れてもらいたいな」
声を少し張れば聞こえる距離を、再び彼女が歩いていく。その様子がどうにも──。
この感情を、なんと言えばいいのだろう。
イラストに再度気持ちを移すと、一枚の水彩に目を奪われる。景色やモノを描いた他の絵とは異質で、これだけはヒトを対象にしていた。男性が路上でギターを抱えている姿。周りの景色や表情は優しいタッチの球体で所々隠されていたが、僕はこれが何なのか、一目でわかってしまった。ただ、そのファンタジーさの中に潜む孤独なリアリティに少なからず怯えてしまって、解答として言語化することに躊躇っている。
「お待たせいたしました……」
デクレシェンドになっていく少し震えた声。注文したものを持ってきてくれたのは、予想通りナナの方だった。
「あの、こちらの席に座っていただくと、その、ドリンクと一緒にお楽しみいただけます」
「あ、ありがとうございます」
不自然な丁寧さに、こちらまでかしこまってしまう。カウンターの方から、漏れてしまいましたと言いたげな引き笑いも聞こえてくる。
テーブル・机が並んだ中に、孤立している木製の椅子には気づいていた。案内された通りに座ってみると、なるほど、それぞれの作品が重なってひとつの大きな作品に見えてくる。
コトン、とティーカップが置かれる音。右手を少し伸ばせば届く、ちょうど良い位置にミニテーブル。役目を終えた訳ではないようで、ナナは優里のもとへ戻ることもなく、もじもじとそこに立っていた。
少しの沈黙も耐えきれなくなって、とりあえず運ばれてきた紅茶を喉に流し込む。舌で感じなかった熱さは、ようやく思い出したように胸元から湧き上がってくる。
「あ、あの」
カチャン、とソーサーの鳴る音を待ってから、ナナが話しかけてくる。
「えーっと、コーヒー苦手なんですか」
聞きたいのはそういうことではないはずだ。普通に考えて、僕でもわかる。
「あー、もう癖なんですよ。確かに紅茶は好きですけど」
咄嗟に出てきた言葉を振り返ってみて、話が噛み合っていないことに気づく。「コーヒーは苦手ではないんですけど、喉にあまり良くないって聞いて」「ハチミツは喉にいいらしいし、行きつけのカフェではよく頼むんですよ」そんな補足が頭に浮かんでいたものの、すべて省略してしまった。
「あの店員の方とは、随分と仲がいいんですね」
視線を促すと、優里はカウンターの奥へと入っていってしまった。会話を繋ぐための話題に察しがついたのか、それともナナを見守る役目を終えたのか。逃げるようなそのわざとらしい彼女の行動の意図までは、いまいち読めなかった。
「あっ、優里のことですね。高校の同級生なんです。1年生の時に仲良くなって、大学も同じところに入るくらいにはずっと一緒でしたね」
僕とは入れ違いで知り合い、仲良くなった──いや、正確には僕とナナとの交友は中学2年までだった。埋められなかった1年間と別世界を体験してきた8年間。それだけで随分と差をつけられたものだ。
目の前の彼女が、未だ赤の他人のふりをする理由に心当たりがないわけでもない。いや、単純に気づいていないだけなのかもしれない。こちらから切り出せないのは、東京に侵食されてしまった僕自身が廃れ、怖気付いてしまっているからに他ならない。
「これ、せっかくですので受け取ってください」
僕に小さなカードを手渡してから──Nanaは少し離れた斜め前の位置に腰掛けた。緊張がいくらか解けたようで、硬さの抜けたニコニコとした表情でこちらを真っ直ぐに見つめてくる。それだけで、初恋を思い出したかのような息苦しさを覚えた。
むずかゆい気持ちを隠すように、カードに視線を移す。渡されたのは名刺のようで、ペンネーム・出身大学・SNSアカウントの文字列の他に、腕のない脚だけが生えた変なキャラクターが一緒に描かれていた。大学は都内の芸術科に進んだらしい。
「優里はいつも私の絵を褒めてくれてね。作品展をやりたいんだって言ったら、親戚のカフェを貸してやるって言い出して」
それからは、いろいろな話をされた。ここは、優里のおじさんが経営するお店であること。彼女はナナと同じく絵を描くことが好きだったはずなのに、なぜか彫刻を専攻したこと。その理由を聞いても、いつもはぐらかされてしまうこと。
ナナ自身のことは、ほとんど語られなかった。一呼吸置いた後の話はそれぞれの作品についてで、相槌を打つのも、彼女の話のテンポが速くなっていく過程で諦めた。身振りを使って楽しげに話す様子は幼い子どものようで、僕の知らない一面にただ圧倒されてしまった。
意識が離れていく。遠くで聞こえる雨音が、大人びた女性の澄んだ肉声に合わせるようにベースを演じていた。
「今までのお客さんはみんな優里のお友達だったから、実は、男性のお客さんは初めてなんです」
──うん?
「Nana……さんの友達は?」
「優里の友達が、私の友達みたいなものなので」
「いや、でも、SNSで宣伝してたから」
「私、女子高だったので……えっ、SNSを見て来てくれたんですか」
やってしまった。入店時に放ったセリフがフラッシュバックする。偶然を装ったメッキが剥がれていく音が聞こえてしまいそうで、この上なく恥ずかしい。
いや、まあ実は。なんて諦めたような返事に、彼女は「嬉しい」なんて素直に喜んだ表情で言ってのける。
「そっか。知っていてくれたんだ」
それから彼女は黙ってしまった。両手を組み、時折交差した足を入れ替え、何かを考え込んでいるようだった。
聞きたいことがあったはず。切り出せない空気を埋めるように、今度はゆっくり口に含んだ紅茶は、ほのかな甘みと苦味を感じられた。
「この絵、すごく好きだな」
話の途中だったのか、それともわざと触れていなかったのか。紹介されなかったギター弾きのイラストを指して、素直な、それでいて下手くそな演技をしてみた。
「──ホントに?」
頷いて返す。彼女の見開いた猫目は一瞬で垂れ目に戻り、柔らかい表情を作った。
「この絵はね、モデルがいるんだ」
都内で路上ライブ。駅近くや公園で見かける彼ら彼女らは、どこか拙いことが多い。心の無いヤジが飛んでいたり、中には許可を取っていなかったのか、警察にやめさせられているやつもいる。
かわいそうだとか、情けないだとか。そんな人たちを見ているとマイナスな感情が先行するのに、どこかかっこよくも思えてきてどうしようもない。
「前に、仕事も絵も両方上手くいかない時期があって。苦しさから逃げるように、ただなんとなく街を歩いていたの」
東京は仕事も人も物も、夢も何でも集まる。ゆえに常に競争を強いられ、選ばれ排他される。勝者はごくわずかで、僕らは敗者になることも許されず、何者でもないまま彷徨ってしまう。
「そしたら、路上ライブやってるなーって。ギターの音が聞こえてきて、吸い寄せられるように近づいていたな」
敬語が取れた語り口調は、目の前の僕の、ずっと奥にある何かに向いている気がした。
ただ黙って、次の言葉を待つ。
「歌声が、すごく懐かしさを感じた」
そんなわけはないだろう。その年齢で懐かしさを感じるなんて、聞き覚えのある声はどれも変声期を経ているだろうし、誰かの声真似ならば、親近感なんて湧くはずもない。
「周りに立ち止まって聞いている人はいなかったけどね、その人はすごくキラキラしていたよ」
きっと、有名になんてなれない。その道で成功するなんて、無理な話なんだろう。
「私は、この人の歌が好きだなって思ったよ。それを絵で表現したの」
──だから、もうやめてほしい。これ以上、先の見えない真っ暗な夢を見させないでおくれ。
三度目に口にした紅茶は、目頭と対照的な冷たさで、ひどく甘ったるいものだった。胸焼けを起こす勢いで湧き上がる感情は、これ以上せき止められそうにもない。
「あれから毎日、毎週。同じ場所に行ってはみるんだけど、一度も遭遇できていないの」
「新しい曲作りに励んでいるんじゃないかな」
誰にも見向きもされないからやめた、なんて馬鹿げた話ができるわけもない。
「彼のおかげ。彼の歌を聴いて、筆が進んだ。感動した。カラフルな絵を描けるようになった。ありがとう、ってお礼が言いたい」
「きっと伝わっているよ」
ひねくれていない。これだけまっすぐな言葉を使っているのだから。
「店内の壁に貼られたモノクロな絵は、どれもスランプの時期のもの。忘れてはいけない、それも全部自分だって示したかったんだ」
──それは僕へのメッセージとして、勝手に受け取っておくことにするよ。
アーティスト名“Nana”の素晴らしい個展だった。
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小学校初めての宿泊行事は、
出来上がったしおりの表紙には、何人もの子どもたちが描かれていた。キャンプファイヤーだったか、川遊びだったか。とにかく、よくわからないなという感想。ただ、ページをめくっていく途中で、惹かれるイラストがあった。それが“ナナ”の絵だった。
切り株に座って、流れる川を見ながら独りカレーを食べている女の子。実際の行事中には起こり得ない光景を描く、そんな彼女の発想や人となりに興味が湧いたのだ。
初めて話しかけた時のことも、はっきりと覚えている。そのしおりに描かれた絵を指しながら「この絵、好き」と言った。それ以上でも以下でもない、素直な感想だったと思う。
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「私の絵をね、上手だって言ってくれる人はたくさんいたの。でも、好きだって言ってくれた人は、今日までに二人しかいなかったな」
現実のナナがそう言う。優里と仲がいい理由が、真の意味でわかった気がする。
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初めての会話以降は、不思議な関係が続いた。自由帳を交換日記のように使って、お互いの絵を見せ合いっこをする。小学生なんて、そんなもので十分楽しかったんだろう。彼女の送ってくれるイラストにはいつも驚かされてばかりなのに、僕の絵のセンスは一向に良くならなかった。
小学6年生の途中から、もはや彼女に絵では敵わない・追いつけないと悟り、幼いながらも男としての悔しさを埋めるように始めたのがギターだった。当時、それを趣味にしていたおじさんに教わりながら、彼女には知らせずこっそりと練習し続けた。
弦を押さえる指の痛みに慣れ始めた頃、僕の親が二人ともいない日を見計らって、ナナを家に招待した。もともとギター演奏の自慢をするために呼んだのに、いざ素直に「すごい!」と褒められてしまうと、それはそれで照れくさかった。
それからまたしばらくして、絵日記の交換会はナナからは絵の、僕からはギターの発表会へと変わっていった。
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「あの日のストリートライブを境に、私もギターを勢いで買ってみちゃった」
でも、やっぱり全然うまく弾けなくて。続け様に彼女がそう言う。
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過去に何回か、ナナに弾かせてあげたことがあった。僕の教え方がまずかったのか、それともただ単純に練習が足りなかっただけなのか。どちらにせよ、絵が得意な彼女はギターを、ギターが弾ける僕はイラストを苦手としているこの絶妙な関係がありがたかった。
僕らのそんな関係は、中学校に上がってからは上手く続けられなかった。異なるクラスに、異なる部活動。男女関係に対する冷やかしの声。思春期だった心はそれらに耐えることはできずに、悶々とした日々を過ごしていた。
美術部に入ったナナはコンクールで結果を残し、校内でよく表彰される。部活や大会で活躍できる場がない僕は、彼女との差を自意識過剰なほどに見せつけられた気分を味わい、さらに惨めになるしかなかった。
中学2年になると、ナナと1年ぶりに同じクラスになった。彼女もきっと浮かれていたんだと思う。たまたま二人で廊下で鉢合わせた時に“サスくん”なんて、名字をうっかり噛んでしまったような呼び名を急にしてきたことがあった。
「これからは“サスくん”って呼ぶね」
照れ笑いを思い出す。彼女はそれ以降、同じ名前で僕を呼ぶことはなかった。正確には、僕から彼女を避けるようになってしまった。今でも理解しきれない、ガキの頃の劣等感。それを態度に出してしまう、自分自身の弱さ。思春期だからと片付けてしまうのが正しいのかわからないくらいの、大きな過ちだった。
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「その買ったというギター、今あったりしないかな?」
「それがね……実は持ち歩いているんです! 今持ってくるね」
小走りでカウンターの方へ駆けていく。僕の意図を理解しているような反応だった。あの日に止まってしまった時間が動き出した。そう考えても良いのだろうか。
ずっと引きずってきた。高校生になって、登校初日に昇降口をのぼる階段で。大学生になって、彼女が好きだった歌を聞くたびに。そして、今日こうして彼女の個展に来る直前まで。何度も何度も、中学生だったあの日あの時を思い出しては後悔し続けてきた。
彼女は怒っていないのだろうか。僕のことを、ずっとどう思っていたのだろうか。考えれば考えるだけ、答えなんか出てくるはずもないのだけれど。
「持ってきたよ」
ナナの表情は極彩色を放つように、ずっと眩しいくらい明るかった。手には、初心者用としてよく販売されているアコースティックギター。彼女の体は、ギターを持っても小さくは感じないくらい成長していた。
「僕はこれでも、小学生からギターを続けているんだ。ちょっと弾いて見せてもいいかな」
「もちろん」
嘘だ。形のない恐怖に挫けて、もう2ヶ月も触れていない。でも今は、とにかく弾きたくてしょうがなかった。おかしなステージに付き合ってくれた彼女に、感謝しないといけない。
ポジショニングを作っている間、静寂が店内を支配する。遠くの雨音さえも飲み込んでしまうほどに、闇をイメージさせる。
この空間には音が無さすぎだ。だから言葉に重みが生まれ、それが喉でつっかえてしまうから余計に発しにくい。行きつけのカフェにはいつだってジャズが流れていて、僕を後押ししてくれていた。
ピックはいらない。でも、僕の両手はやっぱり頼りなくて、汗で滲んで震えてしまう。わかっている。今日もあの日も、彼女がきっかけをくれた。僕は応えなくちゃいけない。
チューニングを終えて、Cコードを鳴らす。一度咳払いをして、あとは流れに任せてしまえばいい。
「髪、切ったんだね」
馴染みのある懐かしい音たちに囲まれると、自然と言葉は紡がれる。それは紛れもなく素直なフレーズだと信じて。
視線を上げると、彼女はギターの方ではなく、僕をまっすぐに見つめてくれていた。
君が絵で表現してくれたように、僕は音楽で表現するしかないのだから。同じじゃなくていいんだ。違う波形だって構わない。
「答え合わせをしよう」
あの頃の気持ちの。言葉にすることの難しさは、お互いにわかっていると思うから。
だけど、過去を許してくれとまでは言わない。願うのは、これからの僕たちのことで。だから、今日はここに来たのだ。
「僕は」
伝えなくちゃいけない。君の絵が、君の言葉が、僕の奥深くでピンと張っていた琴線を震わせたんだ。
──どうか、同じ気持ちでいてくれますように。
「君を──」
セブンスコードを押さえる左指が、少し痛んだ。
ツマビクコトバ 皆月 惇 @penowl
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